フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月30日(月) 晴れ

2008-06-30 23:59:20 | Weblog
  朝方は曇りがちの空模様であったが、しだいに晴れ間が広がっていった。6月の終わり、1年の折り返し点となる一日。今日も終日、月曜恒例の「鈴文」にもジムにもいかず、PCの画面と書類を眺めていた。眼鏡なしで生活しているものの、決して視力がよいというわけではなく、近視・乱視・老眼の入り混じった状況で、おそらくいま視力検査を受ければ、ここ数日の作業のダメージからかなりの視力低下をきたしているものと思われる。目がしょぼしょぼするので、ときどき洗面所に行って冷水で顔を洗う。そしてベランダに出て、空を眺める。

         
        青空と同じ秤で計るゆえ希望はわかしそら豆よりも  寺山修司

  そのとき飼い猫の「はる」も一緒にベランダに出て、スリットから身を乗り出し、わが家の周辺に不審者(猫)がいないかキョロキョロと監視するのである。猫は決して空を見上げて「ふ~」と溜息をついたり、深呼吸をしたりしない。猫にとっては空は見上げるものではないのであろう。「はる」が上方をながめているときは、空ではなく、電線に止まっている雀などを見ているのである。

         

         

6月29日(日) 雨

2008-06-30 02:46:16 | Weblog
  終日雨の日曜日。9時、起床。朝食前に基礎講義のレビューシートへのコメントを書く。「根岸の里のわび住まい」的なレビューシートもちらほらある。といっても何のことだかわからない人のために説明すると、「根岸の里のわび住まい」というのは、どんな季語でも、下にこれを付けると一応それらしい句になるというやつである。落語の中で、横丁のご隠居さんが熊さんに俳句の作り方を教える場面でこれが出てくる。元々の句は「梅が香や根岸の里のわび住まい」(八代目入船亭扇橋)だといわれている。ためしに思いついた季語を入れてみるとよい。「初雪や根岸の里のわび住まい」「風薫る根岸の里のわび住まい」「打ち水や根岸の里のわび住まい」「秋の日の根岸の里のわび住まい」・・・ね、それらしいでしょ。で、「根岸の里のわび住まい」的レビューシートとは、どんなコンテンツを視聴しても、その講義内容とは関係なく、汎用性の高いレビューのことで、たとえば、「先生の説明は大変にわかりやすく、内容も興味深いもので、現代人間論系への関心をかき立てられました」といったようなものである。講義の内容については一言も触れられていない。これならろくすっぽ講義を視聴しなくても書けるだろう。一所懸命に書かれたレビューシートの後にこういうのを読むと、「やれやれ」と思うけれど、返信のコメントに頭を使わなくてもいいというありがたい面もある。午後はずっと昨日の続きでお役所関係の書類を読む。ちょっとペースがあがってきたかなと思っていると、いきなり英文の書類が出てきたりして、こんなのも混じっているのか、聞いてなかったぞ、と思う。
  今日は息子の20歳の誕生日で、夜は彼の大好物の餃子パーティー。いや、いわゆるパーティーではないのだが、うちでは餃子が食卓にこれでもかと出てくることを餃子パーティーと呼ぶ。餃子食べ放題。しかも餃子しかない。餃子パーティーが成立するということは、要するに、息子に限らず、うち中みんな餃子が好物であるということである。餃子家族(国勢調査によると埼玉県行田市に多いと聞いている)。デザートはタカノで買ってきたストロベリーケーキ。季節的には桜ん坊のケーキなのだが、息子は桜ん坊が苦手なのである。スポンジケーキの表面全体にイチゴは張り巡らされている。人造人間の脳のようみ見える。どういうアングルから写真に撮っても美味しそうに撮れない。カメラマン泣かせのケーキである。

         
                       イチゴ頭

6月28日(土) 曇り

2008-06-29 00:56:02 | Weblog
  終日、お役所関係の書類を読む。詳しいことは書けない。そうすると今日は書くことがない。朝食はソーセージとトーストと紅茶。昼食はインスタントラーメン。夕食は鮪のカマの塩焼き。書類以外で読んだのは新聞だけである。そうそう、読売新聞の朝刊のコラム(編集手帳)にこんなことが書いてあった。

  卒業論文を略して卒論という。国文学者の池田弥三郎氏はこの略語を嫌った。卒には「にわかに」の意味があり、「卒卒」は慌てて落ち着かないさまをいう。「そそっかしい論文みたいだ」と。

  なるほどね。池田弥三郎らしいや。今度から金曜5限の授業のことをちゃんと卒業論文演習といおうかな。
  夜、NHKのドラマ「監査法人」の3回目を観る。エンターテイメントとはいえ作りが少々ドラマチックすぎるだろう。会計監査がマルサ(国税局の査察)のようにみえる。もっとも、私のマルサのイメージは伊丹十三監督の映画から来ているので、そっちはそっちでドラマチックすぎるのかもしれないが、あんな若手の公認会計士の言動で大手都市銀行の1つが破綻に追い込まれるとは思えない。でも、厳格監査というのは小気味のよいものである。目の前の書類も気合を入れて読まなくちゃと思いましたね。明日もたぶん終日この作業に追われるだろう。  

6月27日(金) 晴れ

2008-06-28 12:11:58 | Weblog
  昼から大学へ。自動改札機にスイカを入れるとパネルに定期券の使用期限が「7月6日」であると表示される。毎年、授業の始まる4月初旬に定期券を3ヶ月分購入する。何年か前までは7月中旬から実質的にナ○○○ミであったので、定期券が切れても継続購入はせずにその都度現金(あるいはチャージ金)で切符を購入していた。しかし、いまは8月初旬まで(オープンキャンパスや未済試験やらで)大学に出向かなくてはならないので、7月6日になったら、1ヶ月分の定期券を継続購入することになる。マラソンが42.195キロから50キロになったようなものだ。それにしても、どうして定期券は1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月の3種類なのであろう。2ヶ月、4ヶ月、5ヶ月でも売ってくれてよさそうに思うのだが。
  3限の授業(日常生活の社会学)は電車の車内という公共空間における人々の相互作用の話。通勤・通学電車は都市の縮図であり、社会学の格好のフィールドである。日々観察を続けていれば、社会学者になれるであろう。
  昼食は「メーヤウ」でインド風ポークカリーとラッシー。辛い。この辛さがいい。3時半から(いつもより1時間ほど早いスタートで)卒論演習。今日の報告は「自己啓発」「化粧とキャラ」「交換と贈与」の3本。だんだんボリュームのある報告が増えてきたのはよい傾向である。いつもの通り質疑応答は活発で、予定時間を10分ほどオーバー。空はまだ明るい。6月の晴れた夕方の空である。さあ、これからどこかへ出かけよう、と誘うような空である。
         

6月26日(木) 晴れのち曇り

2008-06-27 03:12:20 | Weblog
  昼休みに学生との面談の約束があり、いつもより1時間ほど早めに家を出る。駅に向かう途中でケータイを忘れてきたことに気がついたが、「まぁ、いいや」とそのまま電車に乗った。平均すると、一日に受信するメールは1通、送信するメールも1通で、電話についてもほぼ同様である。以前は、カメラとして活用していたが、最近はデジカメを持ち歩いているので、利用頻度は激減した。もしかしたらなくてもいいなじゃないかと思わないでもないが、緊急のときの連絡用という否定しがたい理由のためにこれからも持ち歩くことになるのであろう。こんな状況なのでいつまで経っても親指一本での日本語入力が上達しない。できるだけメールは一行で済ませるようにしている。「家内安全火の用心。おせん泣かすな馬肥やせ」が理想である。ほとんど電報のようなメールであり、五行以上に渡りそうな内容の場合は、迷わず電話をする。
  3限の授業(大学院の演習)の後、研究室で卒論の個人指導。卒論指導は週に一度、演習形式で実施しているのだが、必要に応じて個人指導も併用している。とくに4月申請の二文生の場合は、仮指導という段階をスキップしているので、どこかでそれを穴埋めするための個人指導が必要になってくる。今日はEさんと面談をしたのだが、卒論の話からは外れた雑談の中で、中上健次の小説の話になった。文学部の学生は文学好きというセオリーは、すっかり過去のものになっていて、「最近読んだ本の話」「好きな作家の話」というのを気軽に話題に出来なくなっている(「すみません。本はあまり読んでなくて・・・」とバツが悪そうに答える学生が多いので)。中上健次の小説が好きという学生と話をしたのは2年ぶりくらいであろうか。文学部の学生はこうでなくちゃいけない。
  5限の時間、腹ペコであることに気づき(昼飯を食べ損なっていた)、「シャノアール」に行って玉子トーストと珈琲を注文する。そこで30分ほど、明日の「日常生活の社会学」の講義ノート(プロット)の作成。これを元にして、夜、自宅でパワーポイントのスライドを作成するのである。
  帰りがけに、あゆみブッスクで小野寺健『イギリス的人生』(ちくま文庫)を購入し、電車の中で読む。小野寺はイギリス文学の翻訳でよく知られている人だが、そんな彼も、ジョージ・エリオットの小説は何度読んでみようとしても、重苦しく、うんざりした気持ちになって、挫折をしてしまうという経験を重ねてきた。そして、エリオットの小説に楽しみを見つけられないうちは、イギリス文学がわかったとはいえないのではないかという不安を覚えていたそうである。それが60代になって、『フロス河畔の水車場』という小説のある箇所を読んで、エリオットの魅力がわかったと感じたそうだ。その箇所とは、トムとマギー(作家の分身)の兄妹が河畔で遊んでいるところの描写である。

  「マギーは魚がぽちゃんと跳ねたり泳いだりしているかすかな音を聞きながら、いつまでも自然の囁きと、夢のような静けさにうっとりと浸っていた。まるで柳や蘆や河の流れまが、しあわせに囁いているようだった・・・。/河沿いに歩いていっては腰を下ろす兄と妹は、自分たちの人生が大きく変わることがあろうなどとは考えてもいなかった。二人はただ大きくなるだけで、遠くの学校へ行くこともなく、いつまでも休日のような日がつづくのだ。二人はいつまでも一緒で、おたがいに大好きで、水車はいつまでもがたんごとんと回りつづけている―二人がその陰でままごとをした大きな栗の木。その土手もわが家のような気がする懐かしいリップル河。」

  「いつまでも」という副詞が何度もくりかえし使われている。この何もかもが「いつまでも」変らずにいるであろうという認識、「いつまでも」変らずにいてほしいという願望、それこそが、硬い言葉で言ってしまえば、「経験的保守主義」というものである。

  「私は、自分の好きなイギリス小説は例外なくこの信念にもとづいたものらしいことにあらためて思いあたり、ジョージ・エリオットに容易になじめなかったのは、この秘密がわからないままに、ただ感情的抑制のきいた知的な文体の重みと、作品としての長さに、もっぱら辟易していたのだということにやっと目覚めたのである。」(21頁)