フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2004年9月(後半)

2004-09-30 23:59:59 | Weblog

9.15(水)

 午後、『東京真画名所図解』の代金を郵便局で振り込んでから、歯科医院に行って歯石の除去と歯の表面の掃除をしてもらう。今日で治療は終わりのはずであったが、もう一本、新たな虫歯が見つかって来週もう一回来ることになった。帰宅して、遅い昼食(焼きそば)を食べ、さて何をしよう、昨日オープンした丸善丸の内本店をのぞきに行ってみようか、それとも昨日購入した伊坂幸太郎『チルドレン』を読もうか、どちらにしようと迷っているうちにウトウトしてきて、夕方まで居眠りをしてしまった。

夜、『ラストプレゼント』の最終回を観る。最後の最後まではやらないんだ・・・・。それはいいとして、主人公が全然病人(それも死期の迫った)に見えなかったのはやはりどうなのだろう、リアリティという点で。もし「死」を正面から描くことを回避するのであれば、家族が家族の絆を回復する契機は必ずしも「死」である必要はなかったのではないか。

 山口瞳『わたしの読書作法』をパラパラと読んでいたら、林達夫と久野収の対談『思想のドラマトゥルギー』の書評の中に、林達夫についてのこんな逸話が書かれていた。

 「また、あるとき、町中でお目にかかったとき、いきなり、きみ、大失敗しちゃった、テキーラを落としちゃったと言われる。先生が編集長であるところの平凡社の『大百科事典』で、テキーラという酒の項目が抜けていたといって、それこそ、切歯扼腕して口惜しがるのである。私は、いつも、先生の若さに驚く。」

 私は平凡社の『世界大百科事典』のデジタル版を使っている。試しに「テキーラ」を検索してみたら、確かに独立の項目にはなってなくて、一カ所、「蒸留酒」の説明の中で出てくるだけである。

 「単式蒸留機の蒸留酒は,アルコール以外の揮発成分を多く含み,原料由来の香りを有し,現在ではモルトウィスキー,コニャック,ヘビーラム,ミディアムラム,キルシュ,テキーラ,および泡盛を含む日本の本格焼酎などが,これで蒸留されている。」

 この説明の中で出てくる各種の酒の中で、「ウィスキー」「コニャック」「ラム」「キルシュ」「泡盛」「焼酎」は独立の項目としても載っているのに、「テキーラ」だけがそうなっていない。「大失敗」は大げさだが、たしかにミスといっていいだろう。しかし、私が使っているのは林達夫が編集長をしていたときの版ではなく、その次の加藤周一が編集長をしている版である。つまり林が切磋扼腕して口惜しがった「大失敗」を加藤はリカバリーせずにそのまま引き継いだということだ。これはどういうわけだろう。考え始めると、世界は不可解なことで満ちている。

 

9.16(木)

 手術から2週間経過、今日、体内に入っていた管を抜いてもらう。医師から取り出した管を見せられたが、サナダ虫のようであった。ずっと鬱陶しい気分だったが、これでようやく身軽になれる。支払いを済ませて、帰宅する途中、つけ麺大王で昼食(レバ炒め定食)をとる。レバを注文したのは、たんにそれが好物だというだけではなく、血尿で失われた血液を補充しなければという気持ちが無意識のうちに働いたためかと思う。ここはご飯の量が多いので、半ライスにしてもらったのだが、レバ炒めはご飯が進む。よっぽど半ライスのお代わりをしようと思ったが、半ライスにしてもらっておいて、お代わりをするのも変かなと、思いとどまった。

 帰宅すると、銀座の閑々堂から近藤市太郎『清親と安治 明治の光の版画家達』(アトリエ社、1944)が届いていた。91頁(3分の2は図版)の薄手の本で12,000円は高い感じがするが、昭和19年5月15日という発行日を考えると、よくこの時期にこのような図版の多い本が出せたものだと思う。年表を開いて見ると、この年の3月6日に日本新聞協会は夕刊の廃止を決め、11月には朝刊もわずか2頁に縮小されている。紙不足で出版業界は大変だったはずだ。

 「芸術の根本的意味に於いて異なる処はあれ、我国に仏蘭西の外光派の作風が正統に移入される以前に、日本的視覚を以て追求した清親一派の光線画は洵に注目すべき存在と言はねばなるまい。/私はこの様な清親達の一面を何れにも増して高く評価するのである。それ故に彼が主張し実証した光線画の作品のみに就いて集中的考察を加へたいと思つている。清親の全生涯六十九年から見れば初期の六ヶ年はまことに短い年月であるけれども、私は他の全ての作品が描かれなかつたとしても、清親の名は永久に消えるものではないと信じてゐる。この短い月日の間に彼は本当に珠玉の作品を作り出した。これなくしては清親の存在は、あつてもなくてもよいのではないかとさへ思ふのである。/浮世絵研究者の内には清親を高く評価しながらも、この種の洋風版画を心から理解し得ぬ同情すべき人々がゐるのである。その人々は清親の洋風版画の芸術史的地位を理解し得ぬか、芸術に対する評価の基準をさへ知らぬ人々であろう。/明治文化を回顧する時、私達はこれと血の連関を身を以て感ずるのである。清親や安治の光線画は時間的距離を越えて純正なる感情によつても理解される。その意味は、清親も、安治も共に現代の知覚の中に生き続けてゐるからである。」

 著者の近藤市太郎はこのとき34歳だった。たぶん本書は彼の最初の著作である(早稲田大学図書館に彼の著作は20数冊入っているが、本書以外はすべて戦後の著作)。しかし、私がこの「まえがき」に相当する部分の文章を読んで感じることは、彼は本書が自分の最初の著作であると同時に最後の著作になるだろうと考えていたに違いないということだ。この年の4月14日、防空総本部は来るべき空襲に備えて都市住民に身許票の所持を通牒している。彼はこの薄手の、しかし、当時としては上質な紙を精一杯使ったこの本で、自分が本当に書きたいことを、書き残したいことを書いたのだと思う。

 

9.17(金)

 丸善丸の内本店に行ってみた。オープンしてまだ4日目、TVや新聞でも盛んに取り上げられたこともあって、かなりの混雑である。広いはずの店内が狭く感じられる。いや、店内がそれほど広く感じられないのは、たんに混雑しているからだけではなく、4つのフロアーの1つ1つが縦長で、書棚の背も高いために、視界が四方に広がらないためだろう。大学の図書館の書庫にいるような感じである。そのかわり本の冊数は非常に多い。昼食は4階のカフェで名物のハヤシライスを・・・・と考えていたのだが、カフェの入り口にはかなりの行列ができていたので、ハヤシライスは諦める。全体をゆっくり見るのもまたの機会にして、今日のところは、立花隆『シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界』(文藝春秋)、橘木俊詔編『封印される不平等』(東洋経済)、それからロディアを数冊購入して引き上げることにした。OAZOの入り口で福引き(レシート2000円分で1回)をやっていたので、2回トライしたら2回とも2等賞(OAZOのロゴの入ったルービックキューブ)が当たった。

 JRの高架線下の長崎チャンポンの店で皿うどんを食べてから、竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「琳派 RIMPA展」を見物に行く。8月21日からやっているのでもう空いている頃かと思ったら、こちらもけっこうな人出である。通常は午後5時閉館だが、金曜日は午後8時までやっているせいもあるのかもしれない。主催者の説明によれば、「RIMPA」と表記した今回の展覧会の狙いは、琳派的イメージの形成を近代的な文脈の中で読み解き、琳派の普遍性・世界性を問うことにあるのだそうだ。展示室に入って最初に目にする絵がクリムトの「裸の真実」という意表を突いた構成にその狙いが端的に表れている。クリムトはもちろん琳派の画家ではないが(あたりまえだ)、金色の絵の具や渦巻き模様を多用した装飾的・デザイン的な図柄に琳派の影響が見て取れる。浮世絵が西洋の画家たちに影響を与えたことはよく知られているが(たとえばゴッホは広重の「大はしあたけの夕立」を模写している)、琳派の影響もそれに劣らず大きいようだ。500円を出して音声ガイドを借りて、イヤホンで解説を聞きながら場内を回る。個々の作品についての美術史的背景や技法の説明などは不要で、自分の目で見て自分で感じたものが一番大切という考え方もあるだろうが、それは素朴な主観主義である。作品とは作者の自我の表現であり、しかし、いったん発表された作品は作者の意図とは独立に存在するもので、観客(聴衆、読者)は自己の感受性において自由に作品を享受すればよろしい・・・・近代という時代がそうした素朴な主観主義を育てたのである。だから近代美術(音楽・文学)には宿命的にエゴイズムやナルシシズムの影がつきまとう。琳派は、一般に前近代美術(音楽・文学)は、そうした近代の病とは無縁である。だからこそ、それをものたりないと感じる人もいれば、そこに解放感を感じる人もいるだろう。私は若い頃は前者だったが、近頃は後者である。「個性」というものを奉るのはほどほどにしておいたほうがよい。売店で今回の展覧会のカタログと、昨秋、京都国立近代美術館で開催された「琳派の継承・近代デザインの先駆者」神坂雪佳(かみさか・せっか、1866―1942)の展覧会のカタログを購入。前者は237頁、後者は355頁、カラー図版満載でどちらも2500円。本当にお買い得だ。外に出ると竹橋の交差点(右が美術館、左が皇居)の上に広がる空が暮れかかっていた。

 

9.18(土)

 散歩の途中、鈴木ベーカリーでサンドイッチ(鮭のフライとハム)を買い、100均ショップでコーラを買って、御園中学校の横の公園のベンチ(座って編み物をしているお婆さんの彫刻が付いている)で食べた。昼休みの日比谷公園あたりであれば自然な情景でも、昼下がりの蒲田の公園では、ちょっと気を抜くと、会社をリストラをされ妻からも愛想を尽かされた哀れな中年男のように見えてしまうので、あまりくつろいだ気分になれなかった。街に飲食店はたくさんあるが、大人が屋外で腰を下ろして飲食ができる場所というのは存外ないものである。

 熊沢書店で、山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』(文春文庫)、小谷野敦『恋愛論アンソロジー』(中公文庫)、石井政之『肉体不平等』(平凡社新書)を購入し、帰りがけに新刊コーナーを覗くと、福岡ユネスコ協会編『日本を問い続けて 加藤周一、ロナルド・ドーアの世界』(岩波書店)という本があったので、これも購入することに決めた。ところが、何を勘違いしたのか、レジで支払いをしないで(支払いをすませたものと錯覚をして)、店内中央にあるエレベーターに乗って下の階に降りてしまい、しばらくして支払いをしていないことに気づいた(その1冊だけカバーもかかってないし、紙袋にも入っていない!)。いや、びっくりしましたね。「早稲田大学教授、書店で万引き」という新聞記事が一瞬頭をかすめました。すぐに店に引き返して、レジに直行し、事なきを得たが、もしも店に戻るまでの間に尾行してきた警備員にポンと肩を叩かれて、「お客さん、ちょっと店まで来ていただけますか」と言われたら、弁解の仕方に困っただろう。「ついうっかり支払いをするのを忘れちゃって・・・・」(頭をポリポリ)と正直に話して通じるものだろうか。いま、思い出しても、冷や汗ものである。

 

9.19(日)

 今日の朝刊(読売新聞)に、「不毛なストに突入した」で始まり、「試合を拒む選手の背中など、子供たちに見せたくないのだ」で終わる、プロ野球選手のストライキを批判する社説が載っていた。どうせ渡辺恒雄の息のかかった論説委員が書いたものであろうが、不毛で、子供たちに見せたくない社説である。ストライキで迷惑を被る人たちがいるのは、ストライキなのだからあたりまえである。誰にも迷惑をかけないストライキなどストライキではない。迷惑をかけることで世間の注目を浴び、世論を自分たちの味方につけることができれば勝ち、できなければ負け、それがストライキという戦術だ。読売新聞は、「本当は試合が見たかった」という一人の少年の声で「ファン」の声を代表させるようなことはやめて、新聞社らしく世論調査を実施したらいかがか。

 名古屋の大学堂書店から注文しておいた『小林清親 東京名所図』(学研、1975)が届いた。小林清親は先日購入した『東京真画名所図解』の作者井上安治の師匠で、『東京真画名所図解』132枚のうち54枚は『東京名所図』(大判95枚)の模写ないし構図変更である(たとえば清親の「両國焼跡」と安治の「両國橋焼跡」)。しかし、両者を比較して明らかになるのは、師弟の類似性よりもむしろ異質性である。清親には伝統的な浮世絵の(というよりも、人物や風景に対する伝統的なまなざしの)名残がいくらか見られるが、安治はよりモダンな方向に踏み出している。清親は大正4年(69歳)まで生きたが、18歳年下の安治は明治22年(26歳)に夭折した。もし安治が大正モダニズムの時代を生きたとしたら、一体、どんな作品を残したであろうと改めて思う。

 夕方、散歩に出る。復活書房で、ゼイディー・スミス『直筆商の哀しみ』(新潮社、2004)、同『ホワイト・ティース(上)』(新潮社)、庄野潤三『メジロの来る庭』(文藝春秋、2004)、佐々淳行『焼け跡の青春 ぼくの昭和20年代史』(文藝春秋、2003)を購入。午後6時にはしっかりと日が暮れる。夏休み気分も今日で終わりである(今週もまだ夏休みではあるのだが、来週から始まる授業の準備に取りかからなくてはならない)。

 

9.20(月)

 大学院の修士課程の入学試験。例年よりも受験生が少ないようである。景気が回復傾向にある証拠かもしれない。教室の面々が久しぶりに顔をそろえる。後期もよろしくお願いします。

 私は私の両親と同居しているが、日常生活は別々である。しかし、今日は敬老の日ということで、両親を我が家の夕食に招待した。ちらし寿司、天ぷら、焼き鳥、モツ煮込み・・・・賑やかな食卓である。ふだんの我が家の夕食のおかずはせいぜい二品で、それに馴れている私や子供たちには、満漢全席のような今夜のメニューである。いつもは腹八分目で「ごちそうさま」となるのだが、今日は久しぶりでお腹一杯食べた(おまけに食後にチョコレートケーキまで食べた)。明日は低カロリーの食事を心がけねばなるまい。

 

9.21(火)

 午前、妻と鶯谷の泰寿院にお彼岸の墓参り。その後、妻は浅草橋に買い物へ。私は大学へ。「五郎八」で心理学の豊田先生と一緒になり(先生もこの店の常連のようである)、いつものように映画の話になる。最近の豊田先生のお薦めは是枝裕和監督の『誰も知らない』で、会う人会う人に勧めているのだとのこと。どこの映画館でご覧になったのかと尋ねたら、「テアトル新宿」とのこと。なんでも先生は東京テアトル株式会社の株主とかで、テアトル系の映画館はタダで映画が観られるのだという。そ、そうなんだ・・・・。

 戸山図書館で調べ物をしていたら、杉浦健『転機の心理学』(ナカニシヤ出版、2004)という本を偶然見つけて、4階の窓際の席でしばらく読む。目の前の大きな窓から街と空が見えて、なかなか気持ちのいい席だ(私の研究室の机の前の窓からは2メートル先の隣の建物の壁しか見えない)。

 帰りに、「飯田橋ギンレイホール」で、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『みなさん、さようなら』を観た。末期の癌で余命幾ばくもない父親(大学の歴史学の教師で、女好きの社会主義者)のために、普段は疎遠な関係にある息子(証券ディーラー)があれこれと世話をする話。『グッバイ、レーニン!』の母親を父親に置き換えて、喜怒哀楽の表出をもっとストレートにした感じだ。この名画座では、年会費一万円を払ってシネマクラブの会員になると、年間50数本上映される作品を好きなだけ観ることができる。これからの上映スケジュールを見たら好みの作品が多かったので、会員になることにした。映画は、ビデオやDVDを借りて自宅で観るよりも、やはり映画館で観る方がいい。「紀の善」でクリームあんみつを食べてから、家路に就く。今日の東京は68日目(記録更新)の真夏日だった。

 

9.22(水)

 歌人で歌会始の選者でもある島田修二氏が亡くなった。直接の面識はないが、昔、氏は学研の『高1コース』という雑誌の短歌欄の選者をされていて、何度か私の拙い短歌を採り上げていただいた。文学少年にとって氏から頂戴する選評は入賞の賞金(図書券)と同じくらい嬉しかった。今日の夕刊に馬場あき子氏の書いた追悼文が載っていたが、その中で紹介されていた一首を引く。「何をしてゐるのだといふこゑのする 歌を作つてゐると答ふる」。一筋の道を歩いた方であった。合掌。

 

9.23(木)

 昼間、息子と2人だけだったので(妻は美容院、娘は大学のサークルの練習)、昼食を近所の中華料理屋「東風」(トンフウ)に食べに行く。私は日替わり定食(厚揚げ豆腐の肉野菜うま煮)、息子はレタス炒飯を注文する。どちらもけっこういける。しかし、日替わり定食が750円という価格設定は近所の専門学校の学生には高いだろう。かといって商店街とはいえ駅からはいささか離れた(徒歩8分)ロケーションでは、駅周辺のサラリーマンやOLを客として期待することは難しく、前途は厳しいといえよう。誠龍書房で、アイザック・ディネーセン『アフリカの日々』(晶文社)、吉本隆明『言葉という思想』(弓立社)、高橋源一郎『正義の見方』(徳間書店)、中村真一郎『死顔』(新潮社)、『オール読物』(直木賞作家特集、1999年2月号)、それと息子に星新一のショート・ショートを一冊購入。全部で500円也。これだけ安いと、たとえば『言葉と思想』には9本の講演原稿が収められているのだが、そのうちの1本、「芥川・堀・立原の話」しか読まなかったとしても、全然惜しくない。それで十分に元は取れているのだ。

 

9.24(金)

 午前、二文の社会・人間系専修委員会。昼食は「たかはし」の秋刀魚の刺身定食。すこぶる美味。「たかはし」に向かう途中、「ルネッサンス」で『竹内好全集』第6巻(筑摩書房)と坂口安吾『教祖の文学/不良少年とキリスト』(講談社文芸文庫)を購入。ちょっと顔を出さない間に店内の床の上に平積みにされた本がずいぶんと増えた感じ。昼食を終えて戻ってきて、生協文学部店でエリック・ホブズボーム『20世紀の歴史』上下(三省堂)、松原隆一郎ほか『〈景観〉を再考する』(青弓社)、吉原直樹『時間と空間で読む近代の物語』(有斐閣)を購入。岩波新書の今月の新刊(22日発売)、川西政明『小説の終焉』も購入したかったのだが、まだ平台に並んでいなかった。朝、新聞広告で見た本をその日に書店で購入しようとする人間は決して少なくないと思うので、この辺の対応はもっと迅速であってほしい。午後2時から教授会。土田健次郎文学学術院長以下新しい教務のメンバーが挨拶をされる。これからの2年間はこれまでになくご苦労の多い2年間となるであろう。体調にはくれぐれも留意して、職務にあたっていただきたい。後期最初の教授会は案件山積で午後6時半まで続いた。夏休みは本当に終わってしまったのだなと実感した。同僚の山田真茂留先生から新著(佐藤郁哉氏との共著)『制度と文化』(日本経済新聞社)を頂戴する。

 

9.25(土)

 夏休み中はよく昼寝をした。夜が遅いわりに(だいたい午前2時から3時頃に就寝)、朝は8時頃には目が覚めるので、午前中はちょっと寝不足気味で、それでも読んだり書いたりは一応できて、しかし、昼飯が腹に入った途端に眠気に襲われ、そこで1時間ときに2時間ほど昼寝をすると頭がスッキリする。しかし来週から授業が始まるとそういうこともできなくなるから、早めに就寝するか、遅めに起床するか、たぶん後者になるであろう。

 昼寝の後、午後4時から『社会学年誌』の編集委員会があって大学に行く。帰りに「あゆみブックス」で川西政明『小説の終焉』(岩波新書)を購入。さっそく地下鉄の車内で読む。シュペングラーの『西洋の没落』やフクヤマの『歴史の終わり』を連想させる大きな(大仰な)タイトルである。しかし、川西は『昭和文学史』全三巻(講談社)の著者であり、それを書くために17年間かけて汗牛充棟の小説を読み直した人である。「僕は小説が好きだ。日本で一番多く読んでいる一人だと思う」と書くのは決してハッタリではない。

 「僕は小説が好きだから『小説の終焉』というエッセイを書くことになった。四十数年の間、毎日、小説を読むことを繰り返してきた。それらは充実したよい日々であった。今、振り返っても悔いることはなにもない。/毎日を充実して生きる。その積み重ねが僕の歴史である。日々はできるだけ単純で、潔癖なのがよい。そういう日々を重ねて六十年が過ぎた。/そういう生活のそばにいつも小説があった。日々の生活が「実」なら、小説の世界は「虚」である。この二つの重層する空間が僕の日常であった。「実」の空間だけあってもだめで、「虚」の空間だけあってもだめで、「実」と「虚」の空間が重なり合ってこそ、僕の日常は充実していた。/その意味で僕は小説の存在に心から感謝している。小説がなかったら、僕の日常はずいぶん味気ないものになっていたろう。小説だけではない、詩歌がなかったら、やはり僕の日常はずいぶん味気ないものになったであろう。だがどうやら僕は詩歌よりも一層小説のほうを偏愛しているらしい。/その僕のなかで、小説はそのその使命を終えてしまった。読みたい小説は全部読んでしまったからだ。今、読みたい小説を再読しようとしても、小説のほうで、もう隅から隅まで読んでもらった、あらためて読んでもらわなくてもいいよと語りかけてくる。/そこで僕は「小説は終焉した」と位置づけた。そして「小説は終焉した」場所から小説の素晴らしさを語り残しておきたいと思うようになった。/・・・(中略)・・・小説が存続するためには、この次の百年にこれまでの百二十年の小説の歴史を大きく凌駕する豊穣な世界が創作されなければならない。その判断の土台になるものを提示するために、僕はこの『小説の終焉』を書いた。」

 そうか、本書は小説(文学ではなくて、文学の近代的一形態として小説)への三行半ではなくて、「私」や「家」や「性」や「神」をテーマにして書かれてきたこの百二十年の日本の小説への鎮魂歌であり、次なる百年の小説のためのエールなのだ。

 深夜、佐々淳行『焼け跡の青春』(文藝春秋)を読み終える。著者は「見渡すと、昭和二十年代の狂瀾の十年間を記録した現代史や自叙伝が少ないことに気づいた」と書いているが、そんなことはない。ただし、政治家と大学教授以外の国家公務員が書いた自伝は少ない。体制の内部にいながら個人名で発言することは難しいに違いない。佐々淳行は、昭和29年に東大法学部を卒業し、国家地方警察本部(現警察庁)に入庁し、東大安田講堂事件や連合赤軍あさま山荘事件の際に現場の機動隊の陣頭指揮を執った人物である。左翼の人々(進歩的文化人)の回想を読み慣れている私には、同じ時代の風景を対岸から眺めた本書の記述は新鮮である。

 

9.26(日)

 小雨の降る日曜日。散歩の途中で、近所に新しくできた洋食屋で昼飯を食べる。「町の洋食屋さん」を宣伝文句にしているが、内装は小さなファミレスといった感じの無機質な店で、TVや新聞・雑誌は備えておらず、眺めるべき窓外の風景もなく、注文をしてから料理が運ばれてくるまでの時間、読むものを持参しなかったことを後悔した(若者であればメールでも打つのであろう)。後悔したのは運ばれてきた料理についても同様で、洋風飲茶とでもいおうか、ハンバーグ、海老フライ、クリームコロッケ、ポテトとチーズのピザ、ポテトチップス、蛸のマリネ、サラダ、ポタージュスープなどが一枚のプレートに載ったランチなのだが、蛸のマリネ以外はありきたりの味で(率直に言えば冷凍食品のような味である)、おまけに味がかぶっているものが多かった(スープはコンソメであってほしかった)。食後の珈琲もファミレスのお代わり自由の珈琲と同じレベルのもので、何も読むものがない状況で、それだけを味わうようなものではない。要するに一人で来て黙々と食事をするような店ではなかった。しかし、初めての店に入って空振りに終わることはよくあることだ。お馴染みの店のいつものメニューを注文していれば間違いはないが(実際、散歩に出るときは、「やぶ久」ですき焼きうどん定食を食べるつもりでいたのだ)、安定の中で変化を求めようとするのが人間というものである。小雨の降る日曜日の昼下がりの、自分以外に客のいない洋食屋のテーブルで、薄い珈琲を飲みながら、私はそう自分に言い聞かせた。自宅に戻り、ホブズボーム『20世紀の歴史』の続きを読む。

 

9.27(月)

 作家の森村桂さんが亡くなった。64歳だった。1965年に発表した2作目の小説『天国にいちばん近い島』で一躍ベストセラー作家になった人だ。いま書庫から角川文庫版の『天国にいちばん近い島』を持ってきた。1969年11月発行の第4刷であるから、私がこの本を買ったのは中学3年あるいは高校1年の頃ということになる。森村桂の父親は豊田三郎という作家だったが(私はこの人の作品を読んだことはない)、彼女が学習院大学の2年生のときに亡くなった。

 「大学2年の秋、父は何もいわないで、突然死んでしまった。母とやっと就職の決まったばかりの兄と、そして私は、途方にくれ、毎日泣いた。/そんなある夜、私は夢を見た。まっ白な島の上に、パパイアの木が高く高くそびえている。その先に、黄色い大きな実が光っている。私は土人の女の子だった。まっ黒な顔からはみ出るほどの大きな白い口をして、ヤシの葉をふりながら足をポンポンはずませて、パパイアの並木をどこまでもどこまでも走っていく・・・・。

 それは彼女が小さい頃に父親から聞いた、地球の先っぽのところにあるまっ白なサンゴで出来た小さな島、「天国にいちばん近い島」の風景だった。彼女は父親からその島の名前を聞いていなかったことを後悔した。

 「受けた会社はどこも落ち、やっとのことで、目ざす出版社婦人文化社にはいれたものの、元来、あまり頭の回転も早くなく、働きものでもなかった私にとって、出版の仕事は忙しすぎた、からだも神経も疲れすぎた。そして冬になると、風邪をこじらせたまま、いつまでたっても、なおらなかった。寒気を押さえ押さえ、重い頭で、一日出社しては二日休み、その翌日会社へ行っては、早退けし、という日が冬中続いた。一緒に入社した人も、来年入社するというアルバイトの学生も、どんどん私のすべき仕事を、かたづけていった。私は常にミスをし、いつも小さくなって、ストーブにかじりついていた。」

 文学部の教師である私はこういう学生(卒業生)をたくさん知っている。文学部の読書好きの女子学生が労働市場に入っていくときに体験する戸惑いは40年前も現在もそれほど違わない。

 「そんなある日、編集長が東京鉱業の鉱石運搬船が通っている、ニューカレドニアというフランス領の島の話をするのを聞いた。・・・(中略)・・・ここだ! と私は思った。そこが父の言っていた、天国にいちばん近い島にちがいない。暖かければ風邪はひかないし、二日働くだけで暮らせるなんて、まさに夢の島ではないか。その時私は疲れていた。自信もなにもすっかりなくしていた。こんなに一生懸命、朝から晩まで働いても、それでもみんなについていけない。失敗すまいと思っても、失敗はくり返し、あげくの果てにこの風邪はいつな直るのだろう。だれもが、私を出来ない人だといい、何をやらせても駄目な人間だという。よその会社にかわろうか。しかし、新しく入ればなおつらいように思えたし、結婚すれば少しは楽になるかも知れないけれど、ここにいる人たちが当たり前なら、私はお嫁に行っても馬鹿にされ、毎日フーフーいって暮らさねばならないのかも知れない。/人間の生活なんて、こんな風にして一生を終えてしまうのだろうか。いいえ、そんなにあくせく働かなくても食べていける島があるという。それはまるで私のためのような島ではないか。そうだ、きっと神さまが私に教えてくれたのだ。でも、どうしてそんなに働かないでいいんだろう。そうだ、それはこの島が、いつか父の言った天国にいちばん近い島だからだ。」

 彼女はその年の大晦日に会社を辞める。貯金は20万円になっていた(手紙の封筒に貼る切手が10円の時代であった)。彼女は東京鉱業の社長に手紙を書き、船賃として20万円あるので、ニューカレドニア行きの鉱石運搬船に乗せて下さいと頼んだ。しかし、手紙を投函してから一週間、二週間、一ヶ月、二ヶ月がたっても何の返事もなかった。20万円の貯金はどんどん少なくなり、8月になって彼女は知り合いの紹介でS出版社の料理の本の編集の下請けのアルバイトを始めた。ニューカレドニアのことはもう忘れていた。東京鉱業の社長秘書から電話があったのは9月28日のことだった。こうして彼女はニューカレドニアに行けることになり、その体験を書いた『天国にいちばん近い島』で人気作家になった。北杜夫が『どくとるマンボウ航海記』(1960)で人気作家の仲間入りをしたのと似ている。

 

9.28(火)

 午前9時から大学院の修士課程の入試の二次試験(面接)。今回の二次試験の該当者は6名で、一人あたりの面接時間は20分から30分。大学院での研究計画についての質問がメインだが、明快に答えられる人が少ないのはどうしてだろう。あるいは、まだ卒論さえも書き上がっていないこの時期に、大学院へ入ってからの研究計画について質問することにそもそも無理があるのだろうか。私が大学院を受験したときは、試験の時期はいまのように9月ではなく、2月か3月であったので、少なくとも卒論でかくかくしかじかのことをやりましたという話は面接で言えたわけだ。ただし、そこで落ちると、時間的に就職活動に転じることは不可能だから、浪人が決定してしまう。9月の入試であれば、もし失敗しても、就職活動に転じることはもちろん、3月に入試がある別の大学院を受験するとか、留年をして来年再受験するといった選択肢もある。何事も一長一短である。午後、社会学専修の教室会議。来年度の時間割についての検討が始まる。

 

9.29(水)

 自分にとっての後期の授業初日。3限の「社会学研究10」は前期のおさらいと後期への導入を兼ねる内容の講義。話す方も聴く方もまだエンジンのかかりが十分ではない感じ。まあ、ぼちぼちいきましょう。「メーヤウ」で昼食。タイ風レッドカリーを食べる。ひさしぶりで食べたのだが、思ったほど辛くない。水のお代わりをしないで食べきってしまった。辛さに対する耐性ができてしまったのだろうか。辛さを求めるなら1ランク上のインド風ポークカリー(星印3つ)で、これも美味しいのだが、私にとっての一番はタイ風レッドカリーなのだ。味はこのままで辛さだけをアップすることはできないのだろうか。会計のときに尋ねたのだが、それは無理らしい(卓上のナンプラーで調節する程度)。悩ましいところである。5限の「社会学演習3D」(調査実習)では、後期の課題であるライフストーリー・インタビュー調査のスケジュールについて説明し、合宿の日取りを決める(12月19・20・21日)。前期の課題と夏休みの課題の原稿を提出してもらい、今日は少し早めに終わる。こちらも、ぼちぼちいきましょう。帰路、東京駅の構内では、台風21号の接近で夜行はすべて運休となりますというアナウンスが流れていた。

 

9.30(木)

 今日は7限の「社会・人間系基礎演習4」の授業があるだけ。会議も研究会も面談もない。午後2時半まで自宅で仕事をして、大学に向かう途中で飯田橋ギンレイホールに寄って『キル・ビルvol.2』を観る。面白かった。堂々たるB級映画だ。A級映画を狙って、結果的にB級映画になってしまったというまがい物ではなく、「ちゃんとしたB級映画を作るのだ」という確固たる信念に基づいて作られたB級映画(というよりも、そうしたB級映画へのオマージュ)である。昔々、どこの町にも映画館があって、映画が娯楽の王様だった頃を思い出させてくれる映画だ。映画館を出て、軽子坂下の横断歩道の信号が青になるのを待っている間、梶芽衣子の「恨み節」を口ずさんでいる自分がいた。

早稲田に着いて、「すゞ金」で夕食(鰻重)をとってから、楽屋(研究室)に入る。今日は夏休みの課題レポートを提出してもらうことになっていたのだが、受講生26名中、提出できたのは18名。未提出の学生8名のうち授業に出てきたのは1名だけで、欠席者=未提出者7名のうち事前に欠席の連絡をメールでしてきたのは2名だけ。残りの5名はウンでもスンでもない。休むなら休みます、提出できないなら提出できません(申し訳ありません)と、なぜ一言連絡できないのだろうか。レポートが書き上がっていない→授業に出にくい→無断欠席する→次の授業にさらに出にくい・・・・という悪循環に陥るだけではないか。授業が終わってから、本日の欠席者に他の学生が提出したレポートのコピーを受け取りに研究室に来るようにメールを出す。それに目を通しておかないと来週の授業(レポートを読んでのディスカッション)に参加できないからだ。また、今日提出できなかったレポートは来週配布するのでなく(それでは事前に読んでもらえないのでディスカッションの対象にならない)、完成次第すぐにクラスのBBSに添付ファイルにして投稿するように指示する。

 帰路、「あゆみブックス」で、新刊本を2冊、立花隆『思索紀行』(書籍情報社)と江國香織『間宮兄弟』(小学館)を購入。東西線の中でさっそく『思索紀行』を読み始める。原木中山に住んでいた頃は、電車の中で40分の読書ができたが(それも必ず座席に座って)、いまは早稲田から大手町まで10分、東京から蒲田まで20分、細切れにしか読書ができない(東京―蒲田間は座れないときも多い)。ときどき大手町を乗り越して日本橋まで行ってしまうことがある。まれに茅場町まで行ってしまうこともある。一度、門前仲町まで行ってしまったときは、われながら呆れた。通勤電車での読書に関しては、以前の方がよかった。蒲田に着いて、改札口を出てすぐそこのマクドナルドで、『思索紀行』の続きを読む。家に帰って読めばいいじゃないかと言うのは、帰宅途中に赤提灯に寄って酒を飲んでいる人間に向かって、家に帰って飲めばいいじゃないかと言うのと同じで、何もわかっていない人である。


2004年9月(前半)

2004-09-14 23:59:59 | Weblog

9.1(水)

 午後、大学。採点した試験の結果(成績)を事務所に提出し、研究室でいくつか雑用を片付けてから、「メルシー」に遅い昼食を食べに出る。チャーシューメンのスープの味がいつもより濃い目で、チャーシューもいつもより厚味があった。夏バージョンなのだろうか。「シャノアール」で食後の珈琲を飲みながら、持参した本、一昨日購入した渡辺治編『高度成長と企業社会』(吉川弘文堂)を読む。戦後という時代を考えるとき、「高度成長期」(1950年代後半から1970年代前半まで)は考察の中心に置かれるべき時期である。それは、渡辺も言っているように、「私たちが、いわば当たり前のこととみなしている、現代日本のさまざまな政治や社会の特徴が形づくられた時代」である。現代史であると同時に一種の考古学的な面白さを感じさせる時代なのである。研究室に戻って、後期から社会学専修の主任を長谷先生にバトンタッチするための書類の整理。思いのほか時間がかかる。書類というやつは困ったもので、ふだんは机上を占領して邪魔くさいくせに、必要なときに行方不明になるのである。しかし、過去の書類というのは、この4年間(二文の学生担当教務主任+社会学専修主任)の経験から言うのだが、そのほとんどは見返すことはありませんね。見返す必要があるのはごく一部だけ。ただし、その一部がどれであるかは、そのときになってみないとわからないので、結局、必要になるかもしれない書類は全部保管しておくことになるのである。ご苦労なことです。帰宅すると、あじさい書房(刈谷市)から田村泰次郎『肉体の門』(風雪社、1947)が届いていた。表紙にはカストリ雑誌を思わせる裸婦の絵が描かれている。

 

9.7(火)

 大学病院の9階の部屋の窓が台風18号の接近を知らせる強い風でカタカタと音を立てている。日射しは強く、眼下の交差点を日傘を差した婦人たちが歩いている。しかし、空模様は不安定で、灰色の雲が足早に頭上を通過したかと思うと、驟雨が日射しを浴びながらキラキラと降り注いできたりした。

今日は週に一度の教授回診のある日で、昼頃、I教授が医師や研究医を引き連れて病室にやってきた。私の担当チームの一人であるD医師が、「内視鏡による尿管結石の破砕・除去と尿管狭窄の拡張手術を受けて、今日ご退院の方です」と説明すると、I教授は「お腹を切らずにすんでよかったね」と私に言った。私は「ありがとうございます」と答えて、お辞儀をした。TVドラマ『白い巨塔』の一場面のようであった。

昼過ぎ、病室に妻がやってきた。自宅から自転車を漕いで来たのだが、途中で雨に降られて、髪が濡れている。同室の方たちに挨拶をして部屋を出る。パン職人のAさんは、「これでまた退屈な毎日になっちゃうな」と言ってくれた。Aさんとは食事のときにいつもご一緒させてもらって、ダニエル・ベルトーの論文「パン屋のライフストーリー」をどこかで意識しながら、Aさんのライフストーリー(1960年に高校を卒業して、今回の入院で休職するまで、無遅刻無欠勤で、あの酒種アンパンで有名な木村屋のパン工場で働いてきた)に耳を傾けていたのだった。

担当のK医師と看護婦がエレベーターのところまで見送りに来てくれた。K医師は私の担当チームの中で一番若い医師で、研修医から医師に昇格してそれほど間のない方のように見えた。入院中、看護婦の一人にK医師の年齢を尋ねたところ彼女はそれを知らなかったが、「先輩の先生からは、東京に修学旅行でやってきた高校生みたいに見えるっていわれています」とのことだった。言い得て妙だが、私の質問に一番丁寧に答えてくれたのがK医師だった。

会計(手術と5泊の入院で12万円)を済ませて建物の外に出ると、空調の効いた館内とは違って、ハノイの街のように高温多湿である。妻の乗ってきた自転車に私が乗り、妻は途中のスーパーマーケットで買い物をしながら歩いて帰る。自転車の前と後ろの篭に入院中の衣服や身の回りの物を詰めたバッグと紙袋を入れて走ると、ハンドルがいささか不自由で危なっかしい。呑川にかかる橋を渡るあたりで驟雨に見舞われた。あわてて傘を差して橋を渡る。安藤広重の江戸百景の中に夕立の大橋を渡る人々を描いた作品があったことを思い出す。帰宅して、父母に退院の報告をしてから、2階に上がる。居間のテーブルの上には、午前中に妻に頼んで買っておいてもらった今日発売の村上春樹の新作『アフターダーク』(講談社)が置かれていた。

 

9.8(水)

 台風一過の晴天の一日、『アフターダーク』を読んだ。18の章から構成される小説だが、15章に入る手前では、あと残り4章でどうやって物語を終わらせるのだろう、このままだともっと大きな小説の予告編みたいな作品になってしまうのではないかと心配したが、杞憂であった。以前、河合隼雄との対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店、1996)の中で、村上はこんなことを言っている。

 「書きはじめのときに全体の見取り図があるわけではぜんぜんなくて、とにかく書くという行為の中に入り込んで行って、それで最後に結末がよく来ますね、と言われますが、ぼくはいちおうプロのもの書きだから結末は必ず来るのです。そしてある種のカタルシスがそこにあるわけです。」

 『アフターダーク』の結末がもたらすカタルシスは、唐突なことを承知で言えば、川端康成の『伊豆の踊子』のそれに似ている。『伊豆の踊子』は、自らの歪んだ性格に悩む主人公の一高生が旅先で旅芸人の一座と知り合い、彼ら彼女らから「いい人」と思ってもらえたことで精神的に快癒する物語だ。『アフターダーク』もまた、子どもの頃からいつも2つ年上の美しい姉と比較されながら育った19歳の大学生マリが、深夜(午後11時56分)から朝(午前6時52分)までの時間帯の大都会の片隅でいろいろな人間と出会い、彼ら彼女らからプラスの言葉とまなざしを受けたことで、マイナスの自己イメージから抜け出して姉との関係の修復に向かおうと決意する物語だ。

ただし、物語のすべての場面がマリを中心としたものであるわけではない。むしろ『アフターダーク』は夜の街に棲息するいろいろな人間たちの群像劇として構成されており、同時進行する複数の物語がリンクする結節点にマリが位置している。映画化すれば、たぶん行定勲監督の『きょうのできごと』のようなスタイルの作品になるであろう。もっとも『きょうのできごと』はどの物語もハートウォーミングなものだったが、村上春樹の世界にはあくまでもエネルギー保存の法則が存在していて、マリの物語が暖かなエンディングを迎える一方で、白川というシステムエンジニアの孤独で冷たい物語は残酷な結末に向かっていく。小説の技法として面白かったのは、すべての物語が、遠くの星から円盤に乗って地球にやってきた宇宙人の視点(あくまでも私の受けた印象)から語られていることだ。

 「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」―これは『アフターダーク』の登場人物の一人、高橋テツヤの人生のモットーで、『アフターダーク』のポスターに印字されている。私も同じことを医者や看護婦から言われている。

 

9.9(木)

 退院はしたもののまだ全快したわけではない。左の尿管の狭窄箇所を切開して拡張したため、その部分が修復するときに再び狭窄が生じないように左の腎臓から膀胱まで人工の管を通してある。これが抜けるまでにあと一週間かかる。こうした異物が体内にあるため、どこかしらで炎症が生じているのであろう、血尿と腹部に鈍い痛み(確信をもって言うことはできないが、生理痛に似ているのではなかろうか)がある。痛みの方は鎮痛剤で散らしているが、血尿の方はいかんともしがたく、馴れるしかないようだ。しかし、そう簡単に馴れるものではなく、トイレに行くには決意がいる。その上、医者からは水分をたくさんとるように言われているので、ふだんよりもトイレに行く回数が多いのでいやになる。退院後、まだ公衆トイレで小用を足してはいないが、もし連れションなどをして、友人や同僚が私の血尿を見たらきっと吃驚するであろう。「この秋の流行色、ワインレッドでいってみました」と言っても笑ってはもらえまい。「あっ、とうとう見られてしまいましたか。私の本名はヨハン・リーベルト。これまで隠してきましたが、実は、私は地球人ではないのです」と(インパルスの板倉俊之の口調で)言ってもダメであろう。大小にかかわらず、個室で用を足すしかあるまい。

 TVドラマ『人間の証明』は今日で最終回。第10話が最終回というのは早すぎないか? 初めからその予定だったのだろうか。それとも視聴率が取れなかったので1週早く終わるのだろうか。エンディングは、主たる登場人物のその後をテロップで表示して、青春映画の名作『アメリカン・グラフィティ』風だった。「物語は終わった。しかし、それぞれの人生は続く」と。原作では(そして映画版も)、ケン・シュフタン刑事がハーレムで黒人に刺殺される場面がエンディングである。すなわち因果応報。今回のTV版でも彼は死ぬのだが、黒人少年をかばっての殉職となっていた。周囲から「立派な人間」として記憶される死であり、意味は全然違ってくる。ヒューマンタッチの脚本だ。しかし、これはこれでいいかもしれない。

 

9.10(金)

 午後、リハビリを兼ねて大学へ。「五郎八」で昼食。久しぶりに食べる揚げ茄子のみぞれおろし蕎麦はとっても美味。後からお稲荷さんを1つ追加。研究室で持参した本、鈴木正仁・中道實編『高度成長の社会学』(世界思想社、1997)を読む。生協文学部店で、後藤道夫編『日本の時代史28 岐路に立つ日本』(吉川弘文館、2004)、森鴎外『渋江抽斎』(中公文庫)、城山三郎『部長の大晩年』(新潮文庫)を購入。帰りの電車の中で『渋江抽斎』の最初の数章を読む。きびきびとした文体が心地よい。途中、閉店間近の日本橋丸善に立ち寄る。モールスキンの来年の日記帳がもう出ているのではないかと思ったのだが、閉店に伴う全品20%引きセールとかで、店内は草食獣の群れに食い荒らされた草原のような状況であった。かろうじて残っていたロディア・アドバンスドのクリック・ブロック(3冊)とリバーシブル(2冊)を購入。帰宅すると、土井隆義さんから新著『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波ブックレット)が届いていた。明日は日大文理学部で日本家族社会学会の大会がある。下高井戸までの電車の中で読むことにしよう。夕刊(読売)の一面に「働かぬ若者52万人」という見出しで、今日発表された2004年版「労働経済白書」の「無業者(NEET)」についての集計が紹介されていた。ここでいう「無業者」とは「非労働力人口」のうち、年齢が15歳から34歳で、未婚で、職業訓練も含めて学校に通っておらず、家業や家事の手伝いもしていない者と定義されている。それでどうして生活ができるのかといえば、要するに、親がかりである。ただし、ここには労働力調査が実施された時期にたまたまアルバイトをしていなかったフリーターもカウントされているはずだから、52万人全員が学校からも職場からも切り離された空き地のような場所にポツンといるというイメージで考えない方がよいが、それにしても、「無業者」が一年間で約4万人も増えた(増加率8%)というのは注目すべき事態である。後期の「社会学研究10」の中で取り上げてみたいテーマの1つである。

 

9.11(土)

 下高井戸駅から日本大学文理学部まで「日大通り」という名前の商店街を歩く。昔ながらの雰囲気のある商店街で、わが早稲田大学と同様、大学が地域社会に溶け込んでいる感じがとてもよい。いくらキャンパスが広くて校舎がきれいでも、駅前からスクールバスでキャンパスまで運ばれてしまうような郊外の大学は、味気ない。食堂と喫茶店とコンビニと新刊本屋と古本屋と雀荘と映画館と銭湯、最低でもこれだけのものが大学の周辺には必要だ(個人的には、これに加えて将棋・碁会所と境内を散歩できる神社仏閣があればいうことはない)。

今日と明日の2日間、日本家族社会学会の大会がここである。ただし、私の今日の目的は研究報告を聞くことではなくて、昼休みの時間に開かれる「戦後日本の家族の歩み」調査(NFRJ-S01)の第二次報告書の打合会に出席することである。受付に行くと大会実行委員長の清水浩昭先生がいらしたのでご挨拶する。清水先生が受付業務をしている女子学生に「T先生は大久保先生のお弟子さんなんだ」と言った。「T先生」とは10年前に私が早稲田大学で教え始めたときの最初の学生の一人で、私が卒論指導を担当し、学部卒業後は東大の大学院(教育社会学)へ進んで、いまは日大や法大で非常勤講師をしているT君のことである。その女子学生が私にペコリと頭を下げたので、「彼は熱血先生でしょ」と聞くと、ニッコリしながら「はい」と返事をした。

 会合は一時間ほどで終わり、他の出席者は仕出し弁当を食べながらの参加であったが、私は司会役だったので、何も口にせず、終わってから日大通り商店街にある「鳥ぎん」で五目釜飯を食べた(来るときに昼飯はここにしようと目星をつけておいたのである)。釜飯は注文があってから炊き始めるので30分ほど時間がかかる。こういうときビールとお新香で時間をつなげたらいいのだが、生憎と私はアルコールを嗜まない。お茶とお新香と店内に置いてあるスポーツ新聞で時間をつなぐ。プロ野球のストライキが中止(延期?)になったという記事が一面に載っていた。プロ野球にはまったく関心がないので、どうでもいいといえばいいのだが、労働組合が衰退の一途を辿るこの時代だからこそストライキをやって見せてほしかったという気持ちがある。私が子どもの頃は、一般企業はもとより、国鉄や教職員のストライキは日常茶飯で、子ども心にもわくわくするものがあった。やがてストライキという行動は世間から消えていったが、大学のキャンパスではしばらく生き長らえていた。しかし、やがてそれも消滅した。「戦争を知らない子どもたち」ならぬ「ストライキを知らない子どもたち」がこれから大人になろうとしている。彼らは自分の置かれた環境に不満が生じた場合、同じ環境にいる者たちと連帯して異議申立の集合行動をとるよりも、その環境から個人単位で抜け出すことを第一に考えるのではなかろうか。

 

9.12(日)

 妻が「お昼はインスタントラーメンでいい?」と聞いてきたので、それはパスして、散歩がてら「喜多方ラーメン」に葱ラーメンを食べに行く。入院中は、消化器系の病気ではなかったので、手術の当日を除いて、三度三度の食事は美味しくいただいたが(病院の食事はまずいというイメージがあるが、私の入院した大学病院はそんなことはなく、みんな食事の時間を楽しみにしていた)、しかし、「アツアツ」とか「ジュージュー」といった類の献立はさすがに期待できなかった。長期の入院患者で病状の安定している人は、申請すれば外出・外泊が許されるのだが、そのとき彼らは必ずといってよいほど熱々のラーメンやうどんをフーフーしながら食べる。そして戻ってきてからその話をする。外出許可の下りない患者は、ベットの上で天井を見つめながら、「ああ、中華蕎麦が喰いてえなあ」と呟くのである。そういう人たちの気持ちを考えると、退院して最初に食べるラーメンはインスタントラーメンなんかではなく、ちゃんとしたラーメンでなくてはならない、と私は思ったのである。

南天堂書店で乾正雄『夜は暗くてはいけないか 暗さの文化論』(朝日選書、1998)を購入。1300円が500円。有名なブリューゲルの「雪中の狩人たち」を題材にして、ヨーロッパの冬空の暗さについて論じている。

 「読者は実際にこんな暗い空を見たことがあるだろうか。黒雲がわき出たのとはちがう。空が一様にべったりと暗いのである。アルプスの北側の冬空には、雲が厚くてどこにもムラがない、こんな曇天空がよく現れる。太陽の位置がわからないことはいうまでもないが、雲の形もまったく読めない。明暗もなければ濃淡もない。これを専門語で完全曇天空という。」

 「完全曇天空」という言葉を初めて知った。なんだか凄い。ちよだ鮨をのぞいたら秋刀魚の握りがあったので、4ヶ入りのパック(280円)を買って帰って、熱いお茶を入れて食べた。脂がのって美味。

 

9.13(月)

 大学に出る。長谷先生に社会学専攻・専修の主任の仕事の引き継ぎを行う。5キロほど身軽になった感じ。スロープの下で大学院のN君と出くわし、村上春樹の新作についての感想を述べ合う。「うまいけれども、感動はいまいち」というのが『アフターダーク』に対する世間一般の評価のようだが、それは出版社がこの本を「作家デビュー25周年の書き下ろし長編小説」として宣伝したために生じた過剰な期待に主たる原因がある。

村上は自分の作品を3種類に分類している(『村上春樹全作品1990~2000』第二巻「解題」)。

(1)       長いめの長編小説。

(2)       中編小説、あるいは短めの長編小説。

(3)       短編小説。

 この分類に従えば、『アフターダーク』は『国境の南 太陽の西』や『スプートニクの恋人』と同様、(2)に該当する。決して『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『ノルウェーの森』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』のような(1)に属する作品ではない。作品の長短は村上にとって重要な意味をもっている。『国境の南 太陽の西』について彼は次のように語っている。

 「ごく客観的に言って、『国境の南 太陽の西』を僕の代表作と呼びことはかなりむずかしいだろう(たとえば、例にひくにはいささかおそれ多いが、ベートヴェンの八番のシンフォニーを彼の代表作と呼ぶことがかなり難しいのと同じように)。この作品は一般的な見地からいえば、それほど柄の大きな作品ではない。どちらかというと、パーソナルな色彩の濃い作品である。僕は「この作品が一番好きです」という読者に少なからず会ったし、同時に「私はこの作品をまったく買わない」という読者にも少なからず会った。それは悪くないことだと思う。パーソナルな作品に対してあくまでパーソナルな反応が返ってくるわけだから、筋は通っている。しかしこの作品にとっていささか不幸だったのは、これが『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』以来「四年ぶりの待望の書き下ろし長編小説」と銘打って出版されたことだった。だから少なからざる読者が、そのパーソナルな作風に対して肩すかしを食ったような感じをもったかもしれないし、「文学的後退」とも言われた。・・・(中略)・・・僕自身はこの『国境の南 太陽の西』という作品を「文学的後退」であるとはもちろん思っていない。僕は『ねじまき鳥クロニクル』という長大な小説を登頂しているあいだのひとつのインターリュード(間奏曲)としてこの作品を書いたわけだし、これを書くことによって自分の心の在処のようなものをひとつひとつ確認していくことができた。そのへんの決着をつけて、それから新たに『ねじまき鳥クロニクル』の登頂の続きを始めることができたのだ。そういう意味ではこの作品は僕の人生において(偉そうな言い方をさせていただくなら僕の文学的人生の中で)それなりに意味のある、固有の意味を持つ作品である。」

 おそらく『アフターダーク』についても同じことが言えるはずだ。ただし、村上の文学的人生の中での『アフターダーク』の正確な位置づけは、まだ誰もそのタイトルを知らない「次なる長いめの長編小説」の出版をまって初めて可能になることだけれども。

 

9.14(火)

 息子の高校(都立小山台高校)の運動会を妻と見物に行く。ここは私と妻の母校でもある。卒業して30年、校庭の片隅のコンクリート2階建ての建物(かつて運動班の班室として使われていたが、いまでは物置になっている)以外、校舎に当時の面影は残っていない。しかし全校生徒が赤青白黄の4つの団に分かれて競い合う伝統の運動会は健在だ。在学生の父母だけでなく、卒業生もたくさん見物に来る。若者たちが目の前のトラックを全速力で走る姿は躍動感がある。私が最後に全速力で走ったのはいつのことだろう。いま、はたして私は100メートルを何秒で走れるだろう。そして全速力で走った後に動悸と呼吸が平常に戻るまでに一体どのくらいの時間を必要とするだろう(駅の階段を駆け上がって電車に飛び乗った場合、へたをすると大学へ着くまでずっと気分が悪いことがある)。私は躍動する若者たちの身体に憧憬と嫉妬を感じつつ拍手を送った。優勝したのは白組だった。

 栄松堂で、岩城宏之『音の影』(文藝春秋)、山口瞳『私の読書作法』(河出書房新社)、伊坂幸太郎『チルドレン』(講談社)を購入。今日は昼食の時間がゆっくりとれなくて(運動会の午後の部の最初の応援合戦からちゃんと見たかった)、武蔵小山商店街の回転寿司屋で白身魚を中心に5、6皿つまんだだけだったので、小腹が空いた。シビタスでホットケーキと珈琲を注文して、購入したばかりの本に目を通す。

帰宅すると、史録書房から井上安治の『東京真画名所図解』が届いていた。平凡社が1968年に500セット限定で復刻した132枚のハガキ版の浮世絵(安治の師である小林清親が確立した「光線画」と呼ばれる近代浮世絵)である。たとえば「浅草蔵前通」と題された一枚。どうです、実にいいでしょ。95,000円はちょっとした買い物だが、復刻でなく明治20年前後に刷られたオリジナルであれば、1枚15,000円から20,000円はする。仮に全部をオリジナルで収集したとすると(それ自体が難しいと思うが)優に200万円は超える金額になる。日本文学専修のK先生は百万円単位の掛け軸なんかをボーナスでポンと買われるそうだが、それは夫婦共稼ぎだからこそできることで(奥様も大学の先生)、我が家の場合は夫が妻に事後報告で買い物ができる金額は10万円がいいところである。人間はそれぞれ自分の身の丈に合った生き方をしなくてはならない。

 妻が今日は朝が早かったから疲れたわねと言ったので、夕食はみんなで外に食べに行く。東急プラザ7階の五右衛門でスパゲッティーを食べ、お隣のサンカマタの5階に最近オープンした無印良品を覗き、6階の有隣堂で『村上春樹全作品 1990-2000』第7巻(第二期最終刊)を購入。