8時、起床。久しぶりの何の予定も入っていない土曜日。土曜日らしい土曜日。
必修基礎演習のレポート29本をPDFファイルにしてコースナビにアップする(が、手違いで、20本しかアップできなかった。一度の操作てでアップできるファイルの上限が20なのだろうか。後から気づいて残りの9本をアップする)。
ブログを更新する。昨日のイベントに来場いただいた方々と、関係者のみなさんに改めて感謝。
朝食兼昼食を外に食べに出ようとしていたら、母が食事を作ってくれていたので、階下で食事。
食事の後はしばし昼寝。一週間の疲れが溜まっているようである。真夏の健康法の一番は昼寝ではなかろうか。
昼寝から覚めて、散歩に出る。駅の近くから「まやんち」に電話をして空席状況を尋ねると、「2、3席あります」というので、速足で向かう。
ピーチメルバとアイスティー(アールグレイ)を注文して、昨日の日誌を付ける。
昨日のトークショーで、私のブログの読者の一人でもある長谷先生が私のブログの解読を試みてくれたので、それに触発されて、ブログというメディアについて考えてみる。
私がブログと日誌(いわゆる日記)の両方をやっていると話すと、「二つもですか」と驚かれることがあるが、ブログと日誌は似て非なるものである。一番大きな違いは読者の有無である。ブログは人に読まれることを前提にして書くものであり、日誌は人に読まれないこと(および読まれてしまうリスクがあること)を前提に書くものである。もし、日記を毎日書いていて、その内容をそのままブログとして毎日公開している人がいるとしたら、その日記は本来の日記ではなくブログの下書きにすぎないか、その人がまともな精神状態ではないかのどちらかだろう。
私のブログのように日々の生活について書くタイプのブログの書き手は、映画『トゥルーマンショー』の主人公が本人は知らないうちに自分の生活のすべてがTVで実況中継されているのに対して、自分の生活の一部を意図的にネット空間にアップしているわけである。どのような一部を見せるかは書き手の意思に任されている。書き手は「見られている」客体であると同時に「見せている」主体でもある。ブログの読者はブログの書き手の日常生活を「覗き見している」ような気分になるが、「覗き見されている」側はそのこを知っている、つまり、「覗き見させている」わけである。しかし、読者とてただ黙って「覗き見させられている」だけでなく、見せられる日常の一部の中に、書き手がそれを見せるにあたって意図していることや、ときには意図していない無意識の動機までも解読してしまうことがある。ブログの書き手と読者の間にはそうした倒錯的といってもよいような知的な応酬が行われているのだ。ブログの機能は一般に「自己表現」と「つながり」だと言われているが、それはお行儀のよい言い方で、実はそうした「倒錯的な快楽」がブログの醍醐味なのだといういい方も出来るだろう。
昨日のイベントに集まった人の多くは、長谷先生が指摘されたように私のブログの登場人物である。ちょうどTVドラマ『泣くな、はらちゃん』のように主人公の描く漫画の世界の登場人物が主人公のいる世界(イベント会場)に飛び出してきたようなものである。しかも、昨日のイベントのことを私がブログに書くことで、ブログから飛び出してきた人たちは再びブログの世界に回収されていく。日常生活とブログの中の世界はそうした入れ子的な関係にある。
「まやんち」を出て、「phono kafe」へ。カフェの梯子は夏の散歩の基本である。
「今日は私は何人目の客ですか」と大原さんに聞くと、大原さんは出納帳を確認して、「11人目です」と答えた。一日で数人ということもあったことを考えると、漸増傾向にあるといってよいのではなかろうか。
蒸しパンサンドとりんごジュースを注文し、大原さんと1時間ほどおしゃべりをする。最初は口下手な方かと思ったが、案外、話し上手な方であることが最近は明らかになった。
夕食はポークソテー。 カフェの梯子をして帰ってきたわりには食欲がある。
正岡寛司先生から先生が最近訳されたジョナサン・ターナー『感情の社会学理論』(明石書店)を頂戴する。これで先生が企画された「ジョナサン・ターナー 感情の社会学」シリーズ(全5巻)が完結した。
昨日のイベントで坂井先生から拙著『日常生活の探究』が経済学者が「残余」と考える人間の感性(感情)から考察を出発している点を指摘されたが、その際、それはなぜなのかを長谷先生が(同じ社会学者として)一生懸命に答えてくれているのを私は他人事のように聞いていた(その前に20分ばかり一人でしゃべっていたので休憩していた)のだが、私が答えるのであったら、「感情が人間にとって重要なものだからです」と単純に答えたと思う。
ジョナサン・ターナーは、むしろ社会学において長い間、感情研究が取り残されてきたことを嘆いている。
「社会学者が感情を系統だてて研究するようになったのは、ようやく1970年代に入ってからのことであった。結果論ではあるが、感情が人間経験のすべての側面とあらゆる人間関係とに深く浸透している事実を本当に考慮すると、なぜこれほどまでに感情研究が取り残されたかは驚きというほかない。どうして社会学者は感情に目をつぶりつづけることができたのだろうか。」(29-30頁)
ターナーはわかっていながらこういう問いわざとしている。感情研究は心理学者の仕事だとみんなが思っていたからである。
「しかし社会学者は失われた時間を取り戻した。感情の研究は、現状においてミクロ社会学の最前線に立っている。しかも、感情は社会的現実のミクロ水準とマクロ水準とを連動する重要な連結管であるとしだいに判明してきた。」(30頁)
本書を夏休みの読書リストに加えさせていただきます。