11.16(水)
午前、病院に鎮痛剤と保険会社に提出する診断書をもらいに行く。執刀医のK医師が体調不良で休診だったので、別の医師にお願いする。K医師は心臓に疾患が見つかり(本人は風邪だと思っていたらしい)、入院するかもしれないとのこと。そういえば、私の手術の開始前、額にだいぶ汗をかいて、息づかいが荒かったので、どうしたのだろう、別の場所からあわてて駆けつけたのだろうかと思ったが、直前まで点滴を打って横になっていたのだと後から知った。なかなかスリリングな状況だったわけだ。
午後、蒲田宝塚で再び『ALWAYS 三丁目の夕日』を観る。映画館で観た映画を、ビデオ・DVDが出たときに再び観ることはあるが、映画館で繰り返し観ることはめったにない。ストーリーを知らずに観るときと、一度観てストーリーが分かっていて観るときとでは、当然、映画の楽しみ方は違う。次の角を曲がるとどうなっているのだろうと思いながら観るのではなく、次の角を曲がるとこうなっているのだと確認しながら観るのである。そして、やっぱり同じシーンで涙がこぼれてしまう。いや、そのシーンの手前ですでに涙がこぼれてしまう。頭の中の映写機はそのシーンを先回りしてスクリーンに映し出してしまうのである。小さな子供の頃を別にして、人前で涙をこぼしたことのない私がである。
夜、『あいのうた』(第6話)を観る。あいちゃんが片岡と一緒にいたいと、泣きながら、言った。ドラマの前半のハイライトシーンであろう。素直な言葉は人の胸を打つ。先週の調査実習の授業で、『あいのうた』と『野ブタ。をプロデュース』のそれぞれの初回の編集版を流して、どちらか一つを今後も観ていくとしたらどちらを観たいかと学生に尋ねたら、『野ブタ。をプロデュース』の方が圧倒的に多かった。予想通りであった。『あいのうた』は台詞がベタなのである。気恥ずかしくなるほどにベタなのである。でも、ベタというのは、素直ということである。無防備ということでもある。日頃、思い鎧を身につけて他者とかかわっている人間にとっては、その無防備さがまぶしかったりする。
11.17(木)
父親用に購入した無印良品のリクライニング・チェアはなかなか好評である。腰痛のため床から起きるのが大変なのだが、いったん起きあがることができれば、痛みは緩和される。今日は昼頃に床から起きて、その後は夜までリクライニング・チェアに座ってテレビを観たり、新聞を読んだり、居眠りをしていたらしい。昼間から蒲団に寝ていると病人のようだが、リクライニング・チェアで昼寝をしていてもそれほど病人には見えない。
午後3時頃、家を出る。5限の卒論演習、予定されていた報告者3名のうち2名が来られなかった。残り実質3週間だというのに困ったものである。7限の授業の始まる前に「五郎八」で食事。寒いので、温かい汁もの(たとえばカレー南蛮うどん)にしようかとも思ったが、カウンターに座るとつい「天せいろ」を注文してしまう。天ぷらは、海老が二本、茄子、獅子唐、南瓜が各一個。そう品書きにも書いてある。ところが、たまに海老が三本のときがある。先週の土曜日の夜に食べたときがそうだった。代わりに他のネタがなくなっているのかというと、そういうことはない。純粋に海老が一本多いのである。その理由がわからない。サービスなのだと思うが、どのような条件下でそうしたサービスが発生するのかがわからない。調理人の気まぐれということはないはずである。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言ったが、ある現象の背後には何らかの規則性があるはずである。7限の社会人間系基礎演習はグループ報告。抽象度の高い話をきちんと分かってもらおうと説明の仕方をあれこれ工夫している点がよい。それともう一つ、グループの中心的人物であるH君(発表の草稿は彼が書いたのであろう)と他のメンバーとの協調関係がよかった。ちゃんとグループ報告になっていた。
11.18(金)
陽のあたる場所は暖かいが、日陰に入ると途端に寒くなる。ハーフコートがちょうどいい季節。3限の大学院のゼミはT君が1960年代の日本におけるジャズの流行について発表した。この時期は、ジャズの他にもロック、フォーク、グループサウンズ、青春歌謡など多用な音楽が群雄割拠する時代であったが、ジャズはその一筋縄ではいかない度合いにおいて、反体制のインテリ志向の青年たちの間で高い地位を占めていた。「ジャズが分かる」人間であるという自己呈示の技法(ジャズ喫茶でジャズを聴くときのポーズなど)も高度に洗練されたものだった。しかし、対抗文化としての青年文化の多くがそうであるように、ジャズ青年の多くは成人の仲間入りをしていく過程でジャズから離れていくか、反体制的な要素を薄めた「半体制的な」ジャズへと好みを変えていったのである。
夕方から、竹橋の如水会館で開かれる生命保険文化センター主催の全国中学生作文コンクールの表彰式に出席。審査委員を代表して講評を述べる。進行表に書かれている割当時間は10分なのだが、8人の受賞者ひとりひとりについて講評を述べていると、どうしたって倍近い時間がかかってしまう。毎年のことなのだから、進行表には15分と記してくれないだろうか。そうしてくれるとこちらの気分もだいぶ楽になるのだが。パーティーの後、いつものように主催者が手配してくれたタクシーで帰宅。地下鉄とJR(定期券あり)を使って帰るより10分ほど早いのだが、タクシーが苦手な私はいつも軽い乗り物酔いの状態になる。タクシーを降りるとき、チケットに6000円ほどの数字を記入する。私の軽い乗り物酔いで日本経済がその分活況を呈してくれるのであれば、それでよしとしなければなるまい。
11.19(土)
1年生の専修進級希望の最終集計結果が本日発表された。社会学は136名である。第一次集計では142名だったが、高倍率ということで、6名が他専修へ希望を変更したわけだ。社会学専修の一学年あたりの定員は75名だが、昨年は101名を受け入れた(希望者は146名だった)。今年の受入数はまだ決まっていないが、希望者全員を受け入れることはできないから、社会学を希望した学生たちは選考結果が出る3月3日までは落ち着かない日々となることだろう。今日の2限の社会学基礎講義Bの出席カードの裏に、ぜひ社会学専修へ進みたいと書いてあるものが何枚かあり、季節外れの七夕の短冊のようだった。昼食はコンビニのお握り3個を研究室で。暖かいものを食べたいのだが、外出している時間はない(できないことはないが、とてもあわただしい)。土曜日はいつもこうなる。3限の社会学研究10は1960年代末の大学紛争がテーマ。たかだか35年ほど前のことだが、いまの大学生たちには別世界の出来事のように思えたことであろう。6限までの時間は電気ストーブに当たりながら研究室で過ごす。スチームがまだ入らないこの時期の研究室は底冷えがする。エアコンで温風は出るのかもしれないが、それは頭がボーッとするので私はほとんど使ったことがない。電気ストーブに当たりながら本を読んでいると、頭寒足熱というやつで、集中力が高まるような気がする。9時ちょっと過ぎに帰宅。風呂を浴びてから、遅めの夕食(もつ鍋)をとる。冷えた身体が温まる。
11.20(日)
日曜日なのでだらだらと過ごす。土曜日が一週間のうちで一番過酷な日なので、その翌日はとにかくだらだらと過ごして、精神と神経と筋肉を弛緩させる必要がある。間違っても学問をしようなんてスケベ心を起こしてはならない。昼飯(サンドイッチ)をとってから散歩に出る。師走の手前、そろそろ師走だなと感じながら街を歩く気分は悪くない。熊沢書店で、熊田一雄『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』(風媒社)、デイ多佳子『大きい女の存在証明 もしシンデレラの足が大きかったら』(彩流社)、重松清『その日のまえに』(文藝春秋)を購入。レジで一万円を出したら、店員が「一万円入ります」と言った。この「一万円入ります」というのはよく聞く言葉だが、一体、どういう意味があるのだろう。一度、店員に聞いてみたいのだが、今日も聞けなかった。この種の質問を「へんなオヤジ」という印象を与えずにするのはなかなか難しいのである。有隣堂で、辻由美『街のサンドイッチマン』(筑摩書房)、片岡義男『白いプラスティックのフォーク』(NHK出版)を購入。『街のサンドイッチマン』は、昭和28年、鶴田浩二が歌って大ヒットした「街のサンドイッチマン」の作詞家宮川哲夫の評伝である。
ロイド眼鏡に 燕尾服
泣いたら燕が 笑うだろう
涙出た時ゃ 空を見る
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは 街の お道化者
呆け笑顔で 今日もゆく
子供の頃、街には歌が溢れていたが、その中で、この歌に漂う都会的哀愁に私は惹かれていた。それにしても、「街のサンドイッチマン」の作詞家の評伝を読もうなんて、『三丁目の夕日』効果に違いない。
夜、来年度の卒論指導を担当する20名の学生に12月6日の仮指導の件でメールを出す。今年度の卒論指導が佳境を迎えているときに、来年度の収穫のための仕込みが始まるのだ。
11.21(月)
諸々の雑用を片付ける。雑用とはいってもなかには気の重い用件もあり、しかし、片付けないことにはいつまでも気が重いので、とにかく片付ける。雑用の合間に『街のサンドイッチマン』を読む。海軍大将だった高橋三吉の息子に高橋健二という人物がいて、彼が戦後サンドイッチマンに身を落としたことが新聞で話題になったことがあった。宮川はこのエピソードから「街のサンドイッチマン」の着想を得たらしい。宮川自身、戦時中は国民学校の教師をしていて、元来はリベラルな精神の持ち主だったが、軍国主義教育に一役買ってしまったことで戦後も引き続いて教師を続けていくことに自信をなくし、作詞家として食べていく決意をしたのだという。彼らのように敗戦によって人生が大きく変わった人はたくさんいたに違いない。私が生まれたのは敗戦の9年後だから、私自身の人生は敗戦によって不連続性を付与されてはいないが、私の身の回りには不連続な人生を生きていた大人たちがいたはずである。しかし、そういう話を子どもの私にする大人は一人もいなかった。不思議といえば不思議であり、立派といえば立派である。そして、なんだか切ない。「街のサンドイッチマン」を聴く。二番はこんな歌詞だ。
嘆きは誰でも 知っている
この世は悲哀の 海だもの
泣いちゃいけない 男だよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者
今日もプラカード 抱いてゆく
11.22(火)
午前中、カリキュラム委員会。午後、現代人間論系運営準備委員会と戸山リサーチセンター拡大プロジェクト研究所長会議。三番目の会議は数日前に事務所のSさんからメールで参加を促されて、これも浮世の義理かと思いつつ、気軽な気分で出席したら、あやうく新規プロジェクト研究所の所長に任命されそうになって、あわてて固持する。会議が終わり、部屋を出ようとすると、教務のY先生に呼び止められ、ある委員会への参加を依頼される。話を伺うと、関わらざるを得ない内容のものであり、「2、3回で終わる会議ですから」というので、承諾すると、「12月中に最初の会議を開きたいと思います。3、4回で終わる会議ですから」と言われた。えっ、さっき「2、3回」って言ったじゃないですか。承諾した途端に「3、4回」にレベルアップしてますから。ちょっと油断をしていると、どんどん仕事が増えていく。静かに暮らしたい、と心から思う。生協文学部店で澤井敦『死と死別の社会学』(青弓社)と長谷川眞理子『クジャクの雄はなぜ美しい?』(紀伊国屋書店)、あゆみブックスで柴田元幸『アメリカン・ナルシス』(東大出版)を購入し、シャノアールで読み、帰りの電車でも読む。蒲田に着いて、有隣堂でマイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化』(青土社)、平岡正明『昭和ジャズ喫茶伝説』(平凡社)、ノエル・F・ブッシュ『正午二分前 外国人記者の見た関東大震災』(早川書房)、川本三郎『旅先でビール』(潮出版)を購入。風呂を浴び、夕食(刺身と豚汁)をとり、『旅先でビール』を読む。
11.23(水)
一日かけて来年度の特定課題研究助成費の申請書類を書き上げる。昨日が事務所提出の締め切りだったのだが、科学研究費補助金の申請をすでに出していることもあり、また諸々の雑用を片付けるのに忙しかったこともあり、昨日事務所に行って、担当のKさんに「特定課題の方は間に合いませんでしたので見送ろうと思います」と言ったら、「先生、もう少しお待ちしますから・・・・」と言われてしまい、なんだか白衣の天使に励まされる入院患者のような気持ちになり、うん、頑張ってみようかなと思い直し、頑張ってしまったわけである。元々が素直な性格なのだ。ただいまの時刻、24日の午前3時半になろうとするところ。もう寝なくちゃ。
11.24(木)
午前、両親と私と三人で病院へ。それぞれ違う理由で同じ泌尿器科にお世話になっていて、今日はたまたま三人の診察日が重なったのである。天気がよかったので、父親を車椅子に座らせて押していく。20分ほどの道程。道路というのはたいてい両側に排水溝があり、道路の中央をピークにしてアーチ状をしている。だから道の端を車椅子で行くときは傾斜にハンドルを取られそうになり、けっこう力が入る。何かコツがあるのだろうか。今日は体内に残っている人工管(ステント)を抜いてもらったが、痛かった。だいぶ出血もあった。化膿予防の注射を一本と、抗生物質や止血剤など5種類も飲み薬が出た。午後、普通は休講だよなと思いつつ、大学へ出る。卒論演習(5・6限)と二文の基礎演習(7限)。どちらも報告のスケジュールが詰まっているので安易に休講にはできないのである。それと昨日書き上げた特定課題研究助成費の申請書類を事務所に提出せねばならない。夕食は、6限と7限の間に、研究室でカップヌードル(シーフード)で済ます。食事をとらないと薬が飲めないからしかたがない。7限の授業を終えて帰るとき、同じく二文の基礎演習を終えて帰られる坂田先生と一緒になり、地下鉄の中で疾病談義で盛り上がる。そういう歳なのである。
11.25(金)
昼から大学。昼食はコンビニで買ったおにぎり三個(鮭、鱈子、昆布)。3限の大学院のゼミはUさんが1970年に出版された塩月弥生子『冠婚葬祭入門』(カッパブックス)を取り上げて、それがベストセラーとなった社会的背景について報告した。4限は研究室で卒論指導。5限は調査実習のグループ報告を二つ(ブログ班と小説班)。時間を延長して9時頃まで行う。途中の休憩時間にミルクホールで買ったカレーパンと中華マン(あん)を食す。10時半、帰宅。近所のコンビニで娘への土産に雪見だいふくを購入。今日は娘の二十歳の誕生日なのである。
11.26(土)
今朝は2つミスをした。その1。授業のある日は往きの電車の中で講義のシミュレーションをする(もちろん頭の中で)。何を、どういう順序で、どういう時間配分で話すのかを考える。今日もそれをやっていたら、早稲田を乗り越して高田馬場までいってしまった。10分ほどのロスである。幸い早めに家を出ていたので、授業に遅刻することはなかったが。その2。家を出るとき、TVドラマ『野ブタ。をプロデュース』をHDに予約録画の設定をしたはずなのだが、帰宅して観ようとしたら録れてなかった。ショック・・・・。いまこのフィールドノートを見ている学生で、今夜の『野ブタ。をプロディース』をビデオ録画している人がいたら、見せてもらえないでしょうか。あゆみブックスで、竹内洋『丸山真男の時代 大学・知識人・ジャーナリズム』(中公新書)、島泰三『安田講堂 1968-1969』(中公新書)を購入。どちらもいますぐ読みたい内容の本。日曜、月曜は原稿書きの予定だったのだが、困ったな。
11.27(日)
かれこれ10年近く着用してきたバーバリーのコートだが、さすがに袖口や襟が擦れてきたので、新しいコートを買いに妻と五反田でやっているバーゲンに出かける。アクアスキュータムのコートを購入。これですぐに帰ればよかったのだが、同じくアクアスキュータムのジャケットでいい感じのものがあり、袖を通してみたら気に入ってしまい、これも購入。帰り際にダーバンのレザーのハーフコートも気づいたら購入していた。ものはついでと(私は普段は本以外の買い物をほとんどしないので)、蒲田に戻ってから、東急プラザのミナカイで茶色の皮靴を一足購入。本日の支払い、20数万円。妻の半ば呆れ顔、プライスレス。夜、娘と妻の誕生日を祝ってサンカマタの銀座アスターで食事。私も妻も頭の片隅で冬のボーナスのことを考えている。
11.28(月)
午前、天気がよいので、父親を車椅子に座らせて散歩に出る。天気予報によると、小春日和もそろそろお仕舞いらしい。1時間ほどで帰宅して、昼食(おでん)と昼寝の後は、竹内洋『丸山眞男の時代 大学・知識人・ジャーナリズ』をひたすら読む。娯楽としての読書ではなく、職業としての読書である。深夜、読了。実に有益な読書だった。竹内とは波長が合うのだろう、『立身出世 近代日本のロマンと欲望』(NHK出版)を読んだときもそうだったが、今回もたくさんの付箋が消費された。付箋を貼った箇所は再読のときの道標である。立ち止まって、あるいは腰を下ろして、そこで考えたことを文章化して明晰なものにしていかなくてはならない。これからしばらくの間、鞄の中にはいつも本書が入っていることだろう。
11.29(火)
午後、大学。会議が二つ。しかし、体調が芳しくなく、二つ目の会議の途中で失礼させていただく。帰りの電車の中で紀要論文の校正(再校)をする。帰宅して、すぐに病院へ。病院へ行く途中、校正を済ませた原稿をポストに入れる。これで万一再入院ということになっても気がかりなことが一つ減った。夜間救急の窓口で受診の申し込みをして、ベンチでしばらく待つ。名前が呼ばれて診察室に入ると、入院していたときの主治医だったT医師が診てくれた。そのまま再入院ということにはならず、とりあえず一日分の薬を処方してもらい、明日の午前中に改めて外来で受診ということになった。自宅に戻り、夕食をとり、薬を服用。即効性のある薬のようで、仕事のメールを打っている間に、症状は改善される。たぶん効果は一時のものだが、症状が収まっている間にフィールドノートの更新と授業の下準備。われながら涙ぐましい。
11.30(水)
午前、病院へ。K医師に診てもらう。2、3日の短期入院から投薬による治療までいくつかの対処法を示され、相談の結果、投薬による治療(一番安価で、時間的拘束がなく、しかも痛くない)を選択。ただし、安静を保つこと、水分を十分に摂ること、何かあったらすぐに病院に来ることが条件。帰宅して、昼食(牛丼)をとり、1時間半ほど昼寝。散歩はやめておく。大熊信行『文学的回想』(第三文明社、1977)を読む。大熊は、戦時中、読売新聞論説委員をしていた清水幾太郎が最も恐れた人物で、翼賛的な社説の中にこっそりと含ませた時局批判を、大熊はすべてお見通しであるように清水には思われたからである。大熊は元来が経済学者であるが、人生論、社会論、家庭論、国家論、世界社会論など執筆内容は多岐にわたり、戦時中は国家主義者として体制のイデオローグとなり、戦後、その反省を記録した『告白』という文章を発表して話題を呼んだ。『文学的回想』はいわば彼の文学限定版「告白」である。冒頭の「三行歌のこと」は石川啄木の三行歌との出会いについて書いたもの。
啄木の三行歌を知ったのは、明治四十四年の三月である。その月の『早稲田文学』に「机の位置」と題する十二首がのった。わたしはそれを読むとびっくりし、すぐさま母のところへ持っていった。母は鏡台にむかい、髪の元結いをくわえながら、わたしが読みあげるのを聞いていたが、格別の反応を示さない。私の胸のときめきは、おさまらなかった。
そんな短歌がありうるということが、驚異であった。気取りも、かざりけもない、人間のありのままの日常的な言葉が、そのまま歌になるということが、いわば一つの発見であった。語調としての形式において破調であるだけでなく、短歌としての本質において、いわば破調であった。殻がやぶれた感じで、同時に皮肉とユーモアが感じられた。私は当時それを、こっけい味だと解し、それ以上いいあらわす言葉を知らなかった。(中略)なぜかわからないが、私は三行歌という形式そのものには、無性に引きつけられた。
文章の呼吸とでもいうべきものが感じられるいい文章である。尾崎放哉の自由律俳句と出会ったとき、私もこれに近いことを感じたのを思い出した。著者の回想が読者の回想を引き出すのは生きた文章が持つ力である。大熊には『文学と経済学』(1929)や『文学のための経済学』(1933)といった心惹かれるタイトルの本がある。「日本の古本屋」で検索したら、前者は21000円、後者は12000円で出ていた。けっこうな値段である。いくら冬のボーナスが近いとはいえ、そうそう気軽に「カゴ」の中に入れてクリックしていたら大変なことになる。
夜、TVドラマ『あいのうた』を観る。またリーガロイヤルホテル東京(旧リーガロイヤルホテル早稲田)のラウンジがロケに使われていた(「また」といったのは春のTVドラマ『恋におちたら』でも二度使われていたからである)。いまの季節、大きなガラス越しに見る大隈庭園の木々の紅葉が美しいのではないだろうか。近々、行ってみよう。