9時、起床。
(昨日、IAさんからいただいた)パン、サラダ(+鶏のササミ)、紅茶の朝食。
それはいつでもきみの目のまえにある。
ベーコン・エンド・エッグスとトーストの
きみの朝食のテーブルの上にある。
ちがう、新聞の見出しのなかにじゃない。
混みあう駅の階段をのぼって
きみが急ぐ時間のなかにじゃない。
街角のレストランのテーブルの上にある。
ちがう、思い出やお喋りのなかにじゃない。
ここではないどこかへの
旅のきれいなパンフレットのなかにじゃない。
それは冷えた缶ビールとポテト・サラダと
音楽と灰皿のあるテーブルの上に、
ひとと一緒にいることをたのしむ
きみの何でもない時間のなかにある。
手をのばせばきみはそれを掴めただろう。
幸福はとんでもないものじゃない。
それはいつでもきみの目のまえにある。
なにげなくて、ごくありふれたもの。
誰にも見えていて誰もがみていないもの。
たとえば、
テーブルの上の胡椒入れのように。
長田弘「テーブルの上の胡椒入れ」
昼食は妻がジム帰りに買ってきた鮨。
夕方、散歩に出る。午後5時ちょっと前の空だ。日没から30分ほど経っている。
「カフェ・スリック」に行く。今週末はゼミ合宿で来られないので、今日来ておこうと。
あれっ? 閉まっている。定休日は月曜と火曜のはずだが・・・。貼紙を詠むと、「6月より月末最終水曜日はお休みを頂いております」と書いてある。そうだったのか。知らなかった。
蒲田駅東口から、
蒲田駅西口へ。
しぐるるや駅に西口東口 安住敦
今日は時雨れてはいないけれど。
西口駅前の改修工事はずいぶん時間がかかっている(去年の2月から始めて来年の3月末まで)。木を抜くわけでも、新たに植えるわけでもく、たんに丸くステージ状に少し高くなっていた中心部分をフラットにするだけの工事になんでこんなに時間がかかるのか、不思議だ。
以前、この木の下にはたくさんの人がいて、人を待っていたり、おしゃべりをしたり、新聞を呼んだり、居眠りをしたり、カップ酒を飲んだり、ときには口論している人もいた。そして木の枝にはたくさんの雀たちがいた。
たぶんそういう人たちも雀たちも、もうここには戻ってこないだろう。こられないだろう。たぶんそれが改修工事の目的なのだろう。53年前の東京オリンピックのときに似ている。
有隣堂で購入した本を持って「テラス・ドルチェ」に行く。
長田弘『食卓一期一会』(ハルキ文庫)
長田弘の食べ物をモチーフにした詩集だ。今日のブログの冒頭の詩はこの本からの引用だ。
けっこう歩いて喉が渇いていたので、アイスコーヒーを注文。この店のアイスコーヒーは美味しい。
けれど詩集を読んでいたら、やはりホットコーヒーにするんだったなとちょっと後悔した。「何かとしかいえないもの」という詩だ。
それは日曜の朝のなかにある。
それは雨の日と月曜日のなかにある。
火曜と水曜と木曜と、そして
金曜の夜と土曜の夜のなかにある。
それは街の人混みの沈黙のなかにある。
悲しみのような疲労のなかにある。
雲と石のあいだの風景のなかにある。
おおきな木のおおきな影のなかにある。
何かとしかいえないものがある。
黙って、一杯の熱いコーヒーを飲みほすんだ。
それから、コーヒーをもう一杯。
それはきっと二杯めのコーヒーのなかにある。
でも、コーヒーのお替りを自分はめったにしないからな、と思いながらグラスに残った薄くなったアイスコーヒーをグイッと飲みほして、店を出た。
夕食は鮭の西京焼き、がんもどき、サラダ(+卵焼き)、大根の味噌汁、栗ご飯(おこわ)。
スコーンのレシピがそのまま詩になるという魔法。
小麦粉とベイキング・パウダーと塩。
よくふるったやつに、バターを切って入れて
指さきで静かによく揉みこむんだ。
それに牛乳を少しずつくわえて、
ナイフで切るようにして混ぜあわせる。
のし板に打ち粉をふって
耳たぶの柔らかさになるまでこねる。
めん棒で平たくして型をぬいて、
そして熱くしておいたオーヴンに入れる。
スコーンは自分の手でつくらなきゃだめだ。
焼きあがったら、ひと呼吸おいて
指ではがすようにして横ふたつに割る。
割り口にバターとサワークリームをさっとぬる。
好みのジャムで食べる、どんな日にも
お茶の時間に熱いスコーンがあればいい。
一日にいい時間をつくるんだ。
とても単純なことだ。
とても単純なことが、単純にはできない。
長田弘「いい時間のつくりかた」