フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月29日(水) 晴れ

2017-11-30 00:21:54 | Weblog

9時、起床。

(昨日、IAさんからいただいた)パン、サラダ(+鶏のササミ)、紅茶の朝食。

 それはいつでもきみの目のまえにある。
 ベーコン・エンド・エッグスとトーストの
 きみの朝食のテーブルの上にある。
 ちがう、新聞の見出しのなかにじゃない。
 混みあう駅の階段をのぼって
 きみが急ぐ時間のなかにじゃない。
 街角のレストランのテーブルの上にある。
 ちがう、思い出やお喋りのなかにじゃない。
 ここではないどこかへの
 旅のきれいなパンフレットのなかにじゃない。
 それは冷えた缶ビールとポテト・サラダと
 音楽と灰皿のあるテーブルの上に、
 ひとと一緒にいることをたのしむ
 きみの何でもない時間のなかにある。
 手をのばせばきみはそれを掴めただろう。
 幸福はとんでもないものじゃない。
 それはいつでもきみの目のまえにある。
 なにげなくて、ごくありふれたもの。
 誰にも見えていて誰もがみていないもの。
 たとえば、
 テーブルの上の胡椒入れのように。

   長田弘「テーブルの上の胡椒入れ」
 

昼食は妻がジム帰りに買ってきた鮨。

夕方、散歩に出る。午後5時ちょっと前の空だ。日没から30分ほど経っている。

「カフェ・スリック」に行く。今週末はゼミ合宿で来られないので、今日来ておこうと。

あれっ? 閉まっている。定休日は月曜と火曜のはずだが・・・。貼紙を詠むと、「6月より月末最終水曜日はお休みを頂いております」と書いてある。そうだったのか。知らなかった。

 蒲田駅東口から、

蒲田駅西口へ。

 しぐるるや駅に西口東口 安住敦

今日は時雨れてはいないけれど。

西口駅前の改修工事はずいぶん時間がかかっている(去年の2月から始めて来年の3月末まで)。木を抜くわけでも、新たに植えるわけでもく、たんに丸くステージ状に少し高くなっていた中心部分をフラットにするだけの工事になんでこんなに時間がかかるのか、不思議だ。

以前、この木の下にはたくさんの人がいて、人を待っていたり、おしゃべりをしたり、新聞を呼んだり、居眠りをしたり、カップ酒を飲んだり、ときには口論している人もいた。そして木の枝にはたくさんの雀たちがいた。

たぶんそういう人たちも雀たちも、もうここには戻ってこないだろう。こられないだろう。たぶんそれが改修工事の目的なのだろう。53年前の東京オリンピックのときに似ている。

有隣堂で購入した本を持って「テラス・ドルチェ」に行く。

長田弘『食卓一期一会』(ハルキ文庫)

長田弘の食べ物をモチーフにした詩集だ。今日のブログの冒頭の詩はこの本からの引用だ。

けっこう歩いて喉が渇いていたので、アイスコーヒーを注文。この店のアイスコーヒーは美味しい。

けれど詩集を読んでいたら、やはりホットコーヒーにするんだったなとちょっと後悔した。「何かとしかいえないもの」という詩だ。

 それは日曜の朝のなかにある。
 それは雨の日と月曜日のなかにある。
 火曜と水曜と木曜と、そして
 金曜の夜と土曜の夜のなかにある。

 それは街の人混みの沈黙のなかにある。
 悲しみのような疲労のなかにある。
 雲と石のあいだの風景のなかにある。
 おおきな木のおおきな影のなかにある。
 何かとしかいえないものがある。
 黙って、一杯の熱いコーヒーを飲みほすんだ。
 それから、コーヒーをもう一杯。
 それはきっと二杯めのコーヒーのなかにある。

でも、コーヒーのお替りを自分はめったにしないからな、と思いながらグラスに残った薄くなったアイスコーヒーをグイッと飲みほして、店を出た。

夕食は鮭の西京焼き、がんもどき、サラダ(+卵焼き)、大根の味噌汁、栗ご飯(おこわ)。 

 スコーンのレシピがそのまま詩になるという魔法。

 小麦粉とベイキング・パウダーと塩。
 よくふるったやつに、バターを切って入れて
 指さきで静かによく揉みこむんだ。

 それに牛乳を少しずつくわえて、
 ナイフで切るようにして混ぜあわせる。
 のし板に打ち粉をふって

 耳たぶの柔らかさになるまでこねる。
 めん棒で平たくして型をぬいて、
 そして熱くしておいたオーヴンに入れる。

 スコーンは自分の手でつくらなきゃだめだ。
 焼きあがったら、ひと呼吸おいて
 指ではがすようにして横ふたつに割る。

 割り口にバターとサワークリームをさっとぬる。
 好みのジャムで食べる、どんな日にも
 お茶の時間に熱いスコーンがあればいい。

 一日にいい時間をつくるんだ。
 とても単純なことだ。
 とても単純なことが、単純にはできない。

   長田弘「いい時間のつくりかた」 


11月28日(火) 曇り

2017-11-29 10:27:13 | Weblog

9時、起床。

パンを切らしていたので、近所のコンビニに買いに行く。入口の脇にクリスマスの飾りつけがしてある。「初冬」という感じがする。

ご近所の庭先の紅葉が綺麗である。こういうものを見ると「初冬」よりも「晩秋」という言葉を使いたくなる。

われわれの季節感は、カレンダーと、消費社会の戦略と、自然現象のはざまで右往左往している。

トースト、ベーコン&エッグ、サラダ、紅茶の朝食。 

朝刊(読売)に澤田瞳子さんの「連載を終えて」と題するエッセーが載っていた。

昼前に家を出て、大学へ。冬を感じさせる曇り空だが、それほど寒くはない。

3限は院生の研究指導。今日はドクターのS君の報告。いまとりかかっている論文の構想発表。

4限と5限はゼミ論指導(KRさんとIAさん)。

KRさんからプリンの差し入れをいただく。カスタードとイチゴ。こらはハーフ&ハーフにはしにくいので、私はイチゴをいただいた。

彼女のテーマは「仕事と家庭の両立」ということだが、言葉(理屈)の上で両立させることはそれほど困難ではない。しかし、実際に両立させることは大変なことだ。みんな、そのことはわかっている。ゼミ論は言葉で書くものであるから、ややもすると、サラッと両立させてしまいがちなので、そうならないように、(両立させるための)あれこれの方法は「本当に有効なのか」「有効だとしても、副作用はないのか」ということを問い続けながら書くようにアドバイスする。このテーマに限らず、自分の生活や人生の中で遭遇する問題をテーマにするときは、「他人事」としてではなく真剣に、本気で、考えることである。

IAさんからはパンの差し入れをいただく。サンドウィッチはその場でいただき、大きな菓子パン(食事パン?)は家に持ち帰った。

彼女のテーマは「第4の消費社会」である。三浦展さんが提唱している概念で、個人化した消費への反作用としての他者とのつながりを志向するシェア(共有)を中核とする概念である。こういう新しい概念をテーマとするときの注意点は、それは無批判的受けれないようにということである。第一に、その概念がどういうものであるかを提唱者の見解にじっくり耳を傾けて理解すること。そして、第二に、その概念を批判的に検討することである。批判的に検討するとは、具体的には、「第4の消費社会」といわれているもは実は「第3の消費社会」とは別個の新しいものではなく、そのバリエーションなのではないかと疑ってみることである。疑ってみて、考えた結果、いや、やはり新しい現象なのだという結論になるのであればそれでいい。一般に「新しい現象」(新しい言葉)というものは、ただ新しいということだけで、言説として商品化(流通)しやすいが、実態はそれほど新しいものではないというのはしばしばあることだからである。

 これが持ち帰ったパンである。

6時に大学を出て、7時10分前に蒲田駅に着く。自宅には帰らず、そのまま「天味」の前で妻と待ち合わせる。今日は妻の誕生日で、「天味」で夕食をとることにしたのである。昼前に予約の電話を入れたのだが、すでにカウンター席は満席で、1つだけあるテーブル席に座ることになった。揚げたてを最短で食べることのできるのがカウンター席の魅力だが、団体客のようだったので、そこからはちょっと離れたテーブル席の方が今日は落ち着いて食べらてかえってよかったかもしれない。

妻と二人で来るときはたいてい一番軽い「季節のコース」(3600円)を注文する。

先付はあんきも。(あんきもが苦手という客にはマグロのぬたが出される)

天ぷらは、カウンター席では1つ上げるごとに出されるが、テーブル席では3つ4つまとまって運ばれてくる。

車エビ、白魚、銀杏、むかご。

わかさぎ、牡蠣、マコモダケ。

さつま芋、ユリの根、桜エビ。

ご飯の前に追加でキスと穴子でも注文しようかと思ったが、妻が「この後、ケーキを食べることになるから」というので、追加の注文はやめておくことにした。

ご飯の前のお新香。

かき揚げ丼とシジミの味噌汁。(妻は天茶漬け)

かき揚げは小海老。

デザートはアイスクリーム。

ごちそうさまでした。

駅ビルの「高野」に買いに行こうとしたら、妻が「もうお腹はいいし、これから年末からお正月にかけていろいろ食べることが多くなるからケーキはやめておきましょう」と言ったので、まっすぐ家に帰る。お互い健康第一でこれからもいきましょう。

今夜は寒さは少し緩んだように感じられた。

3時、就寝。


11月27日(月) 曇り

2017-11-28 11:57:24 | Weblog

8時半、起床。

トースト、サラダ(+ウィンナー)、紅茶の朝食。

午後も2時を回った頃、昼食をとりがてら散歩に出る。

桜の枯葉も残り少なくなってきた。これが全部落ちると本格的な冬の到来である。いまは晩秋のような初冬のような移行期である。

曇り空は冬空の様相を呈している。

すずらん通りを蓮沼駅の方へ歩く。 

古い店舗が軒を並べる一画。真ん中と右の店はすでに営業を止めているが、「大國鮨」はまだ営業をしているのだろうか。

蕎麦処「上むら」。今日の昼食はここで食べる。

カレー南蛮にも惹かれるが・・・

鍋焼きうどん(上)を注文。今シーズン最初の鍋焼きうどんである。海老天、餅、玉子、この3つは鍋焼きうどんに必須であると私は思い込んでいるのであるが、ときに餅が入っていなかったり、玉子が入っていないものもある。驚いたことに海老天の入っていないものもあった。餅や玉子が入っていなかったときは「欠陥商品」だと思ったが、海老天が入っていなかったときは「詐欺商法」だと思った。

ところで今日食べたのは「上」だが、「並」だとどうなるのだろう。3つの必須アイテムのどれかがなくなるとは考えにくから、鶏肉がなくなるのかもしれない。それなら別にかまわない。

来たとき違う道を通って家に変える。

街にはまだ年末特有のあわただしさはない。

ただ寒いだけである。

昨日もケーキを買った「ルージュ・ブランシェ」によって、マドレーヌを買って帰る。 

さっそく紅茶でいただく(2つ食べました)。

夕食は豚肉の生姜焼きと人参、大根、椎茸、玉子の味噌汁、ご飯。

生姜焼きの付け合せは茄子とスナップエンドウのソテー。

『落花』の連載を終えた澤田瞳子さんからメールをいただく。「落花ロス」でぼんやりされているそうだ。京都は先週末が観光シーズンのピークだったそうだが、紅葉はまだ綺麗ですとのこと。今週末はもう12月だから、「秋の京都」という観光カテゴリーからは外れるのだろう。34年前、新婚旅行で京都に行ったのが12月の初めだった。結婚式が12月3日だったのだ。1週間違うだけで、結婚式場の料金がグッと安くなったのを覚えている。

京都在住の卒業生カナエさんから東福寺の紅葉の写真が送られてきた。なるほど、まだまだ綺麗である。京都の人の感覚では「紅葉が終ったら冬」なのだそうである。それは東京のわれわれも同じで、ただ紅葉の終わる時期が東京の方が早いからいまを「初冬」と感じるのだろう。

ちなみに彼女のいる京都大学(大学院)では1月5日(金)から年明けの授業が始まるそうである。それはまたずいぶんと早いな。

2時半、就寝。


11月26日(日) 晴れ

2017-11-27 14:09:33 | Weblog

9時、起床。

デジタル時計は「9:00」を表示していた。アラームをかけていたわけではなく、自然に目が覚めたのである。

トースト、サラダ(ウィンナー)、紅茶の朝食。

10時半過ぎに家を出る。妻も日本橋三越に買い物に行くというので、一緒に家を出る。

11時半に神楽坂駅で卒業生のクミコさん(論系ゼミ5期生)と待ち合わせ、「SKIPA」へ行く。今日の「冬カフェ」は前から約束していたが、「SKIPA」へ行くことは最近決まった。これから12月30日の最終営業日まで、卒業生と「SKIPA」に行く頻度が高くなるだろう。 

「SKIPA」は11時半開店。われわれが最初の客である。クミコさんとのんちゃんのツーショットを撮らせていただく。

 食前のドリンクは、私はハーブティー(レモングラス)。

彼女はホットチャイ。

食事は二人とも定食を注文。

本日の主菜は鶏肉団子の春雨スープ煮。

「SKIPA」には1時まで滞在したが、客は誰も入って来なかった。これは珍しいことである。

食後のコーヒーはお隣の「トンボロ」で。

「トンボロ」も先客は一人しかいなかった。しかし、われわらが「SKIPA」から「トンボロ」に移動したのが何かの合図であったかのように、どちらの店にも客が立て続けに入ってきて、日曜日の午後のカフェらしくなった。

これで彼女はSGS(スーパーグランドスラム)達成まで残すは「カフェゴト―」一店となった。5期生ではすでにナツキさんがSGSを達成しており、クミコさんは2人目となるだろう。

一挙に、今日、SGSを達成しちゃいましょうか。

神楽坂から早稲田までは地下鉄で一駅だ。歩いて行くことにする。

早稲田通りから、一本横に入って、早稲田正門通りに出る。ここから大学(本部キャンパス)までは一直線だ。

小さな町工場が点在している地域だ。 

日曜日で歩行者天国になっている区間がある。

洋菓子屋「アニバーサリー」の前を通る。ゼミのお誕生日ケーキはいつもここで調達している。 

本部キャンパスに到着。

オールド・ボーイらしき一団が大隈講堂を背景にして記念写真を撮っている。 

われわれも大隈講堂前で記念撮影。

今日は風が強い。彼女は長い髪が風で乱れることを盛んに気にしていたが、風になびく長い髪というのは風情があってなななかよいものです。

でも、ここまで乱れるとメドゥーサみたいですね(笑)。

本キャン(本部キャンパス)から文キャン(戸山キャンパス)へ。 

このS字に曲がった道を彼女は「懐かしいです」と言った。

馬場下の交差点で。

今日は何かのシンポジウムがあるようで、キャンパスは開放されていた。

誰もいない中庭。

誰もいない文カフェ。

日曜日ならではの光景だ。

研究室(カフェ・オオクボ)へ。 実は、彼女は卒業後3年目にして初めて研究室を訪れるのである。これまでに「季節のカフェ」は何度もご一緒してきたが、蒲田や池上や鹿島田や神楽坂で、早稲田には一度も来ていないのである(だから「カフェゴト―」が最後まで残ったのだ)。これは比較的最近の卒業生の特徴で、かつては卒業生が最初にやってくる場所は研究室と決まっていた。そして早稲田周辺の店で食事をしたりお茶をするというのがセオリーであった。それがある時期から、最初から蒲田(「phono kafe」や「まやんち」)であったり、鹿島田(「パン日和あをや」)であったりするようになった。これは一種の情報化の結果である。私が卒業生たちといくカフェの情報がブログを通して広く知られるようになり、「あのカフェにいってみたい」というリクエストが最初から卒業生の側に存在するようになったのである。

最近、彼女は陶器に関心を持ち始めたそうだ。職場の先輩に一点ものの陶器を買い揃えている人がいるのを見て、素敵だと思ったようである。 「先生はどんなところで陶器を買うのですか」と聞かれたので、知り合いの陶芸作家さんの個展を観に行ったときとか、旅先で工芸店をのぞいたときとか、と答える。「そうですね。旅の記念に買うというのはいいですね」と旅好きの彼女は言った。職場の近くのアパートに引っ越した時、てっとりばやく100円ショップで器一式をそろえてしまったのだが、そういうものから脱皮したいようである。

脱皮すること、自由になることは、最近の彼女のテーマである。

 「そういうことであれば、SGS達成の記念に、ここにある陶器の中であなたが気に入ったものを1つプレゼントとしましょう」と私が言うと、「ほんとですか!」と彼女は目を輝かせ、この像の絵皿(清水直子作)を選んだ。彼女は像が大好きなのだそうだ。それは知らなかった。

ところが・・・である。研究室を出て、「カフェ・ゴトー」に行くと、なんと閉まっているではないか。「11月26日(日)はカフェゴト―の従業員の忘年会のためお休みさせいただきます」と書いてある。

かくしてSGS達成はお預けとなってしまった。「像のお皿、お戻ししないとなりませんよね」と彼女は言った。親とはぐれてしまった子象のように悲しげであった。像の皿はハンドタオルでくるまれて彼女のバッグの中である。それを取り出して返すようにいうことなど誰が出来ようか。「前祝いです。とっておいてください」と私は答えた。

これから新宿で買物をするという彼女とは早稲田駅で別れた。SGS達成は春カフェ以後になるだろう。

4時半ごろ、蒲田に戻る。

「ルージュ・ブランシェ」でケーキを買って帰る。

「カフェゴト―」でケーキを食べるつもりが空振りになったので、ここでスイーツ欲を満たすことにしたのである。

帰宅すると、妻はまだ戻っていなかった。洗濯物をしまい、雨戸を閉めてから、「phofo kafe」に顔を出す。

ごぼうのフリットと小豆茶を注文。

今日、「SKIPA」に行って来ましたと大原さんに報告する。彼女は「SKIPA」閉店にショックを受けている人の一人である。しかし、その彼女自身、1年後のいまごろ、「phono kafe」を閉店するわけであるから、この世は無常である。

夕食は秋刀魚の開き、薩摩揚げ、ごぼうの穴子巻、サラダ、大根と油揚げの味噌汁、ご飯。

ごぼうの穴子巻は昨日、阿佐ヶ谷の「蒲重」で買ったもの。

薩摩揚げも同じく。噛みしめるほどに美味しい薩摩揚げである。

デザートは「ルージュ・ブランシェ」のケーキ。

イチゴのムース(ちゃんとした名前がついていたが、忘れた)。

和栗のモンブラン。

ハーフ&ハーフにして食べた。

『陸王』をリアルタイムで観る。ここまでは一貫してチームの「集結」の過程が描かれてきたが、今回は最後に「離脱」(切り崩し)があった。戦いはこれからだ。 

2時、就寝。


11月25日(土) 晴れ

2017-11-26 23:58:29 | Weblog

9時、起床。

サラダ(+玉子焼き)と紅茶の朝食。

朝食を軽めにしたのは妻と「カフェ・スリック」にブランチを食べに行くつもりだから。

抜けるような青空。

「カフェ・スリック」は11時開店。その5分後くらいに到着。すでに先客が一組いた。 

10時に電話をして予約しておいた。

土日のみのパンケーキブランチを注文。

ジャガイモのポタージュスープ。

飲み物は私はオレンジジュース、妻はリンゴジュースをチョイス。

パンケーキ・プレート。

パンケーキが2枚、ソーセージ、ベーコン、サラダ。

パンケーキは一枚目はシロップはかけずにバターだけ塗ってソーセージとベーコンと一緒に食べ、二枚目はシロップをかけて食べた。つまり一枚目は「パン」として、二枚目は「ケーキ」(スイーツ)として食べた。

食事を終えて、シフォンケーキとハーブティーを注文。パンケーキを食べた後にシフォンケーキを食べるのかとびっくりさせる(あきられらる)かもしれないが、パンケーキは食事、シフォンケーキはデザートなのである。こういうときシフォンケーキの軽さがいい。

シフォンケーキはプレーンをチョイス。三種類のベリーがトッピングされている。

いったん帰宅し、30分ほどして再び外出。今日は西荻窪で劇団獣の仕業の公演があるのだ。

西荻北銀座通りを行く。お洒落な店が多いが、その中に古い建物が点在していて、なかなかいい感じの通りだ。

善福寺川を渡る。

橋の上から覗くと白鷺が一羽、川の中でじっとしている。

魚を狙っているのだろうか。

劇場に到着。 西荻窪遊空間がざびぃ(駅から徒歩12分)。

劇団獣の仕業第12回公演「炎天」。

上演開始30分前に入場。例によって舞台上にはすでに役者たちがスタンバイしている(上演開始まで、このまま)。

『炎天』はいわゆる不条理劇である。

李雨(リウ)という女が新宿で殺された。彼女を殺したのは知花(チバナ)。李雨の元彼のピアノ講師白草(シラクサ)の現在の彼女だ。舞台は李雨の弟の秋鹿(アイカ)が姉の葬儀で挨拶しているところから始まる。登場人物はこの4名である。

知花はなぜ李雨を殺したのか。なぜ李雨は殺されねばならなかったのか。そもそも李雨を殺したのは本当に知花なのか。普通の芝居であればこうしたことが焦点となって舞台は進行し、やがて真相が明らかになるだろう。しかし、今回の芝居はそのような進行はしない。4人は(死んだ李雨も含めて)たくさんたくさん語るが、それぞれの語りは自分勝手で、ピントが外れている。たとえば、秋鹿の挨拶は、事件が起きた日、姉との最後の別れの日についてお話したいといいながら、姉のことではなく、姉を迎えに行くために乗った循環バスの話、そのバスの窓から見た歩道を歩く中年男性と彼に向かって駆けていく犬の話をひたすらする。そこに何か特別に変ったことがあるわけではない。循環バスはただの循環バスであり、中年男性は灰色のポロシャツを着ていて、そのため胸や腹や脇の下の部分が汗で湿って黒くなっているということ、「汗をかく日に灰色の服はまずい」ということを彼は知らないのか、誰も彼にそのことを教えてやらなかったのかということ、そして、彼は犬の本当の飼い主ではないのではないかということ、本当はもっと別の話をしたいし、しなくてはならないのだろうけれど、どうしてもそういう話をしてしまっている。

他の登場人物も同じようなものだ。たくさんたくさん話をするけれども、それらが事件の真相に向かって収斂していくことはない。

脚本の意図は明らかだ。「物語」の拒絶だ。少なくとも「わかりやすい物語」の拒絶だ。

「物語」とは何か。それは世界を構成する無数の事象の中からいくつかをピックアップして、それらを因果の連鎖(起承転結)で結びつけることによって、世界を了解可能なものにする、そういう認識作用のことである。「物語」は人間が生きていく上で、無意味で不安定な日々を生き抜いていくために、必要とされるものである。「物語」は無意味な日々に意味を与え、不安定な日々に秩序をもたらす。だから「物語」は商品化する。多くの人が欲する「物語」、わかりやすい、口当たりのいい、あるいは泣ける「物語」が商品としてあふれかえることになる。いわゆる不条理劇はそうしたセラピー作用のある「物語」を拒絶するところに成り立つ芝居である。旗揚げ当初から劇団獣の仕業は「わかりやすい物語」を拒絶してきたが、サルトルの「出口なし」や別役実の「門」の公演を経て、よりラディカルな方向に突き進んだのが今回の「炎天」である。

不条理劇のテーマは明らかだ。「世界に意味などない」ということだ。もう少し正確にいういと、不条理劇には2つのタイプがあり、「世界にもともと意味などないが、その無意味な世界で生き抜いていくことには意味がある」というタイプ、「世界にはもともと意味などなく、その無意味な世界で生き抜いていくことにも意味がない」というタイプである。私の理解では、サルトルは前者で、ベケットは後者だ。そして今日の芝居「炎天」を見る限りでは、立夏は前者(寄り)だ。

誤解のないように書いておくが、「世界に意味などない」というのは、登場人物ひとりひとりが意味のない世界を生きているということではない。人は意味を欲する動物である。ほとんどの場合、各人は各人の「物語」を、世界に意味を付与する「物語」を生きている。不条理劇でもそれは同じだ。ポイントは、各人の「物語」が共鳴し合わないということだ。「不条理」とは「不協和」ということだ。

では、「炎天」の見どころは何か。登場人物がそれぞれに語る、自分勝手で、ピントが外れた語りそれ自体がもっている魅力だ。たとえば秋鹿が執拗に語る循環バスや、中年男性や、犬の話は、なぜか人(観客)を引き付ける。もしかすると観客の中にはその話の中に事件の真相に迫るヒントが隠されているのではないかと思って耳を傾けていた人もいるだろう。しかし、そういう期待をもたずにたんにその話を聞いても、それはやはり人を引き付ける力をもっている。その力の源は、語りの意味そのものよりも、登場人物が各自の語りをしているときの熱量と身体の運動エネルギーだ。それは生きている人間にしかないものだ。「生のエネルギー」を全開で放出している人間だ。「ここに、目の前に、確かに生きている人間がいる」と私たちは感じるのだ。彼らが発するエネルギーは、漆黒の世界の小さな灯りである。その灯りにたとえ意味がなくても、われわれはそれを見つめるのだ。

4人の登場人物を演じた役者たちの力量(語り口と身体所作の魅力)なくしては脚本は芝居にはならなかった。彼らに拍手を送りたい。

そして照明と音楽が、反物語的な、あるいは多重的でパラレルな物語空間に、凝集力を与えていたことを見逃してはならない。

芝居が終わって、劇場の出口のところで、脚本・演出の立夏と言葉を交わす。奇しくも今日は彼女の誕生日だったが、たぶん、そのことに格別の意味はないのだろう。

時刻は4時半。 

日は少し前に沈んだ。 

阿佐ヶ谷で途中下車。

「蒲重」で薩摩揚げを新潟の親戚に送る依頼をする。昔、「蒲重」は蒲田にもあって、彼らはここの薩摩揚げが大好物なのだった。それでいまでも彼らへのお歳暮はここの薩摩揚げと決めている。

妻が伝票を書いている間に店先で売っているおでんをつまむ。

大根と玉子とちくわぶと薩摩揚げ二種を注文。

全部で350円なり。

妻も「私も食べたい」といって追加注文。自分たち用の薩摩揚げと穴子巻きを買って帰る。

蒲田に戻ったのは6時半ごろ。

荷物を家において、そのまま「マーボ屋」に夕食を食べに行く。

まずはサラダ。これは妻と一緒のときは必ず注文する。

蒸し鶏のネギ醤油掛け。前菜的一品だが、ネギ醤油のおかげでご飯のおかずになっている。

牡蠣のカシューナッツの甘辛炒め。最近のヒットメニュー(私的に)。甘辛+牡蠣のほのかな苦味がいい。

海老のフリット(ハーフ)。今秋からメニューに加わった一品。ふわっとして美味しい。新婚時代、綱島に住んでいた頃。「珍珍亭」という中華料理店でよく食べた海老の天ぷらを思い出す。あのときの海老はたぶんブラックタイガーであったと思う。そしてケチャップのほかにハーブ塩が添えられていた。

今秋からのメニューはほとんどハーフサイズの注文にも応じてくれる。ひとり、ふたりであれこれ食べたいときにありがたい。

お腹いっぱい食べたので、ちょっと散歩して帰る。

近所の専門学校の並木がクリスマス仕様になっている。

2時半、就寝。