11.15(土)
今週は慢性的な寝不足状態が続いていたので、今日はひたすら眠る。
11.16(日)
小春日和というよりも小夏日和というべき陽気。この陽気の一番の被害者は高橋尚子である。女子マラソンの代表選考はどうして毎度毎度こうも悩ましいことになるのであろう。それにしても、優勝者アレムへのインタビューの最後に、インタビュアーの女子アナが「高橋尚子さんへエールをお願いします」と要求したのには唖然とした。失礼にもほどがある。
11.17(月)
『社会学年誌』の60枚の原稿がようやく書き上がるかと思いきや、道場氏と入江氏が予定より短い原稿になりそうだと連絡してきたので、急遽、私の原稿を20枚ほど増やすことになった。長距離走でラスト一周の鐘を聞いて最後の力を振り絞って走っていたら、係員に「ごめん、まだ一周残っていた」と告げられたみたいな感じだが、おかげで当初の構想に近いものに仕上がりそうだ。あと少し、頑張ろう。
家で一日中仕事をするときは、気分転換を兼ねて、昼食は外に食べに出ることにしている。数日前、新聞のチラシで入っていた「喜多方ラーメン」の割引券を財布に入れて出かける。空が青く、高い。期間限定復古メニューの塩ラーメンを頼んだが、いまひとつの味だった。いつものねぎラーメンにすべきだった。栄松堂に寄って、丸谷才一『絵具屋の女房』(文藝春秋)、川本三郎『東京の空の下、今日も町歩き』(講談社)、三浦弘行『鉄壁!トーチカ戦法』(日本将棋連盟)を購入。コージーコーナのチョコレートケーキ(980円)を買って帰る。これは家族4人で食べるのにちょうどいい大きさで、値段も手頃。
11.18(火)
社会学専修の教室会議、そして教授会。午前中から夜までずっと会議の一日。途中で会議室を抜け出し、ミルクホールでメロンパンと珈琲で休憩していたら、ドイツ文学専修の私と同じ苗字の先生もやってこられ、目が合ってお互いニヤニヤ。ですよね、ずっと座ってなんかいられませんよね。会議室に戻ると、ロシア文学専修の草野先生が、「今日は文カフェにケーキを食べに行かれないのですか?」と聞いてきたので、「実は、いま、ミルクホールでメロンパンを食べてきたところで・・・・」と答えると、「次は誘ってください」と言われた。やっぱり、みんな、思うことは同じなんだ。どうでしょうか、学術院長殿、次回の教授会から、途中で公式の珈琲ブレイクの時間を設けるというのは。
夜、会議が終わって、研究室にいると、二文の教務副主任の嶋崎先生がやってきた。教授会の途中で抜け出してケーキなんか食べてることをホームページに書いたりしちゃダメだと叱られるのかと思ったら、『社会学年誌』の特集原稿の催促だった(彼女は編集委員長)。「まだ書けてないのです」と正直に言ったところ、桜の木を切ったことを正直に話して誉められたワシントンのようなわけにはいかず、「だめじゃないですか!」と叱られる(やっぱり叱りに来たのだ)。
生協文学部店で小島亮『ハンガリー事件と日本』(現代思潮新社)を、「あゆみブックス」で『子犬に語る社会学・入門』(羊泉社)を購入。前者は15年ほど前に中公新書の一冊として刊行され長らく絶版状態になっていたものの再版。副題が「一九五六年・思想史的考察」。もちろん清水幾太郎研究の参考書として。後者はいわゆるムック本の類だが、「子犬に語る」というフレーズに半分呆れて(半分は感心して)購入してしまった。ちょっと前なら「サルでもわかる」としたところだ。サル、犬と来れば、次はキジに決まっている。「キジも鳴かずば撃たれまいの社会学」なんてどうだろう。
11.19(水)
ずっとしゃべっていた感じの一日だった。3限の「社会学研究10」の後、「高田牧舎」で遅い昼食(オムライス、スープ、珈琲)をとり、研究室に戻って調査実習のグループ発表の相談を1件。5限の調査実習の授業は6限まで延長して行い、文カフェで夕食(鶏の唐揚の甘酢あんかけ、おでん、インゲンの胡麻和え、ご飯)をとってから、研究室で調査実習のグループ発表の相談をもう1件。大学を出たのは午後10時をちょっと回った頃だった(2件目の相談は雑談をしていた時間の方が長かったもしれない)。帰宅してメールを開くと道場氏と入江氏からメールが届いていて、原稿枚数はやはり当初の予定通りになりそうだとのこと。ナ、ナンデスト?!
11.20(木)
昨日、文カフェで調査実習の学生たちと夕食をとったとき、隣の女子学生の塩カルビ焼肉がかなりのボリュームであることに驚いたので、今夜、同じものを注文してみたところ、昨日のとは全然違って、少量である。これはどういうことかと考えて、もしかしたら彼女は「大盛」あるいは「二人前」を注文したのではないかと思い至り、彼女にメールで問い合わせところ、特別の注文はしていないとのことだった。ただし、盛り付けていたのは彼女の友人であったとのこと。そ、そうであったか。
帰りがけに生協文学部店で文庫本の新刊を5冊購入。吉村昭『私の好きな悪い癖』(講談社文庫)、山本夏彦『編集者兼発行人』(中公文庫)、片岡義男『ホームタウン東京』(ちくま文庫)、出久根達郎『古本夜話』(ちくま文庫)、『田中小実昌エッセイコレクション6 自伝』(ちくま文庫)。
11.21(金)
4限の大学院の演習では今月から桜井厚編『ライフストーリーとジェンダー』(セリカ書房、2003年)を読んでいる。今日は軽度の知的障害のある男性のライフストーリーと、不妊治療の経験を経て出産をした女性たちのライフストーリーを扱った2篇の論文を読んだ。前者では、(男性の対象者に対して)調査員が女性であることが、インタビューという相互作用に及ぼす影響について、真摯に(しかしいささか硬直的な思考ではないかという印象を与えつつ)分析がなされていた。後者では、子供がなかなかできないというつらい経験は子供ができることで解消されるという一般人の思い込みが見事に裏切られ、子供ができた後も「不妊」の問題は相変わらず、あるいは別の形で続くものであることを教えられた。
帰りがけに「あゆみブックス」で橋爪大三郎『永遠の吉本隆明』(羊泉社y新書)を購入。電車の中で読む。吉本は60年安保世代や団塊の世代の知的青年たちに大きな影響を与えた思想家であるが、私個人は彼らより世代が下ということもあって(あるいはあまり知的な青年ではなかったこともあって)、吉本の本をまともに読んだことがない。しかし、大学院の学生だった頃、院生読書室(というものが当時の文学部にはあった)のTAをやっていた学年がずっと上の院生(牢名主のような感じであった)がさかんに「リュウメイの場合は・・・・」と仲間と話している姿はいまでも印象に残っていて、「タカアキ」ではなく「リュウメイ」とわざと音読みにしているところに吉本隆明の思想を自家薬籠中のものにしている感じが漂っていた。私はいま60年安保闘争のときに吉本と同じく全学連主流派のシンパであった清水幾太郎について論文を書いているが、「幾太郎」(イクタロウ)を決して「キタロウ」と発音しない。「西田幾多郎」(キタロウ)や「ゲゲゲのキタロウ」のことかと勘違いする人がいるからである。ちなみに清水の娘(礼子)は青山学院大学の哲学の教授になったが、吉本の娘(真秀子)は作家(ばなな)になった。吉本の著作を読まなかった私だが、娘の書く小説はけっこう好きである。
11.22(土)
終日、自宅で原稿書き。
11.23(日)
今日も、終日、自宅で原稿書き。昨日も今日も一歩も外に出ていない。もちろん髭も剃っていない。髭を剃らないのは、髭を剃る時間が惜しいからではなく(そこまで追い詰められてはいない)、無精髭が伸びていると、散歩に出にくいからである。いったん散歩に出てしまうと、どうしても1時間や2時間は浪費してしまう。さすがにそれは大きい。それだけの時間があれば、うまくすると原稿用紙の1、2枚は書ける。たとえ書けなくても、パソコンの前に座ってウンウン唸っていれば、書き進めていくためのヒントくらいは思いつくものである。散歩に出てしまうと、せっかく温まった脳細胞がヒートダウンしてしまう。散歩の途中でいいアイデアがひらめくことはーそういうことが巷ではよく言われるがーまずないのである。苦しくても、辛くても、現場(パソコンの前)を離れてはいけないのである。
11.24(月)
娘の18歳の誕生日を祝う。本当は明日が誕生日なのだが、私が大学の会議で帰りが遅くなるため1日繰り上げてのお祝いとなった。18歳・・・・昔、岡崎有紀主演の「奥様は18歳」というTVドラマがあったが、そういう年齢になったのである。光陰矢の如し。
深夜、原稿、書き終わる。400字詰め原稿用紙に換算して73枚。ちょっと短めの卒論くらいある(実際、私の卒論はそのくらいだった)。道場氏、入江氏からもメールの添付ファイルで原稿が送られてきた。道場氏の原稿は71枚、入江氏の原稿は52枚、3人合わせて196枚は規定枚数(200枚)内にちょうど納まっている。あとは2人の原稿を読んで、特集全体のイントロダクションを書けばよい。それは明日の仕事だ。
11.25(火)
午後6時からの会議があり、冷たい雨の中、夕方から大学へ行く。1時間ばかり前に到着し、中央図書館で調べもの。『婦人公論』1954年5月号を見ようと思ったら、なんと、『婦人公論』のバックナンバーは全部本庄の分館に移されていた。『婦人公論』ってけっこう利用する人多いように思うけれど、そうでもないのだろうか。取り寄せには2、3日かかる。それでは間に合わないので、今回の利用はあきらめる。ところで今日気づいたのだが、バックナンバー書庫の中の机は「パソコン利用可」なんですね(ただし電源のみで、バックボーンネットワーク接続はできない)。ここで調べものをしつつ、ノートパソコンを持ち込んで原稿も書けるわけだ。会議の方は7時半ころに終わり、外に出ると雨も上がっていたので、研究室に寄って雑用を少々。
11.26(水)
事故の影響で京浜東北線が遅れ、あやうく3限の「社会学研究10」に遅刻しそうなった。おかげで今日は朝食が早かったにもかかわらず、昼食をとらずに授業に臨むことになり、終わったときは腹ペコであった。「ごんべえ」でカツ丼を食べる。今日の授業では、「プロジェクトX」でやった男女雇用機会均等法の作成に携わった女性たちの物語を私が編集(スタジオでのトーク場面をカット)したものを流したのだが、出席カードの裏に「感動した」という内容のコメントを書いた学生が多かった。そのほとんどは女子学生で、やはり女子学生の方が自分の問題として見ていたのだなと思ったが、よく見ると、コメントを書いていない出席カードもやはり女子学生に多く、要するに、この授業は女子学生が多い(少なくとも出席しているのは)という単純な事実に気づく。いままで漠然と男女半々くらいだと思っていたが、そうではなかったのだ。実は、私、大教室の講義のときは、うつむいてしゃべったり、板書をしながらしゃべったりで、あまり学生の顔を見ていないのである。
11.27(木)
3限、本部の1号館の3階の教室で公開講座の授業をやっていたら、終わり頃、窓の外がなんだか騒がしい。窓を開けると、目と鼻の先の住宅が火事である。消防車や野次馬で大変な騒ぎになっていた。
生協文学部店で小熊英治『清水幾太郎 ある戦後知識人の軌跡』(御茶の水書房)が平積みになっているのを見つけてびっくりする。「えっ、もう出たのか」と手に取ると、これまでの彼の著作と違って100頁足らずの薄い本であることにもう一度驚く。実は、去年の秋に出た彼の1000頁に近い大作『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズム』(新曜社)を読んでいて、そこで清水幾太郎が取り上げられていないことを不可解に感じていたら、注の部分に、「なお、清水幾太郎の思想については、本書では十分に論じることができなかったが、別稿で検証することとしたい」とあるのに気づき、「小熊が清水幾太郎で一冊の本を書こうとしているのか・・・・」と驚いた。なにしろ『単一民族神話の起源』(1995)、『〈日本人〉の境界』(1998)、そして『〈民主〉と〈愛国〉』(2002)と数年間隔で立て続けに大作を著している小熊である。その「別稿」というのもやはり大作であるに違いない。私は清水の生誕百年にあたる2007年を目標に清水についての一冊の本を書き上げるつもりでいるのだが、小熊が清水についての本(それも大作)を準備しているとなると、そうのんびりとはしていられない。自然科学や数学の分野では研究をめぐる先陣争いが日常茶飯だが、「忘れられつつある思想家」である清水幾太郎研究でそういう事態が起ころうとは考えていなかった。先日書き上げたばかりの論文「清水幾太郎の『内灘』」は、来年3月刊行予定の『社会学年誌』に載るのだが、まさかそれより先に小熊の本が出るとは予想していなかった。しかし、同じく予想していなかったのは、「別稿」というのがパンフレットのように薄い本であったことだ。「はじめに」によると、当初、この原稿は『〈民主〉と〈愛国〉』を構成する章の1つになるはずであったのが、入稿の段階で本の分量が大きくなりすぎて価格が高くなることを避けるために削除され、『神奈川大学評論』に投稿されたが、今度は雑誌に掲載する論文としては分量が多すぎるため、「神奈川大学ブックレット」の一冊として出版されることになったのだそうだ。そういうことか・・・・。私が予想していたような大作ではなかったことには、ちょっと拍子抜けのような、安堵したような気分である。ちなみに小熊は今回の本の中で私が4年前に書いた論文「忘れられつつある思想家―清水幾太郎論の系譜」について、「主として清水に対する同時代の評価を通時的に追った論考である。これは清水が同時代にどう評価されていたのか、またその評価に清水がどう反応したかを知るうえで貴重な論考だが、清水そのものの思想的変遷の検証はやや弱いと考える」と書いている。その通りである。あの論文は、清水がどう論じられてきたかを論じたものである。そして、今回書いた「清水幾太郎の『内灘』」は、清水自身の言動を分析して清水の思索と行動の軌跡をいわば「内側から」理解しようとしたものである。
11.28(金)
妻の誕生日。夕食はレストランで。「何か欲しいものは?」と尋ねると、「ブーツ」と言って、一呼吸おき、「もう買っちゃったから」。「あっ、そうなの。ちなみに、いかほどのものを?」 「う~んとね・・・・3万円ちょっと」 「3万円ちょっとね・・・・。それはブーツとしては普通の値段なの?」 「普通よりも高いと思う。長いブーツだから」 「な、なるほどね・・・・」 結婚20年目の夫婦の会話である。帰りに、栄松堂で、江國香織『号泣する準備はできていた』(新潮社)、川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』(新潮社)、屋名池誠『横書き登場―日本語表記の近代』(岩波新書)を購入。
午前4時までかかって、『社会学年誌』の「特集概要」の原稿(400字詰め原稿用紙換算で13枚)を書き上げる。明日の午前10時半に嶋崎先生の研究室に持参しなくてはならない(手描きの図が貼ってあるため、添付ファイルでは遅れないのである)。
11.29(土)
目が覚めて枕もとの時計を見ると9時40分だった。目覚まし時計を8時半にセットしたはずなのに・・・・。あわてて跳び起きるが、すでにこの時点で遅刻が確定である。15分で支度をすませ(髭剃りと着替えのみ。朝食は抜き)、家を出る。嶋崎先生の研究室には11時に到着。ご、ごめんなさい。早稲田社会学会事務局のOさんに原稿を渡す。研究室でいくつか雑用を片づけてから、「五郎八」に食事に行く。茄子のみぞれおろしうどんが腹ペコの胃に温かい。お稲荷さんも注文したが、お稲荷さんは平日のみとのこと。そうなんだ、知らなかった。ゆかりご飯を付けてもらう。成文堂で『岩波茂雄への手紙』(岩波書店)と神尾行三『父有島武郎と私』(右文書院)を購入。再び研究室に戻り、学生がメールで送ってきた卒論の草稿に目を通し、指導のメールを返す。雨、夕方にはあがる。
11.30(日)
『社会学年誌』の特集概要「社会学者と社会―高田保馬、新明正道、清水幾太郎の場合」と自分の論文「清水幾太郎の『内灘』の英文サマリーを書いて添付ファイルで担当者に送信。これで特集関連の原稿はすべて入稿。やれやれ。このところずっと平日は授業および授業の準備、週末は原稿書きの生活が続いていたが、これで一段落だ。
「書林大黒」が閉店全品2割引セールを始めたと妻に知らされ(散歩を自粛していたので知らなかった!)、押っ取り刀で駆けつける。蒲田で一番大きな古本屋だったのに、閉店とは・・・・。きっとドラッグストアーとか、コンビニとか、「またか」という店があとに入るのであろう。そういえばイトーヨーカ堂も閉店だそうで、スーパーはいいとして、そこに入っている2軒の映画館がなくなると、かつての映画の街蒲田から映画館が完全に消滅することになる。こうやって街の文化レベルというものはどんどん低下していくのだ。「書林大黒」では以下の6冊を購入。
(1)『浮世絵体系12 清親』(集英社)*1500円×0.8
小林清親ほかの明治時代の浮世絵師の作品を集めた巻。A3版の大型本で大判錦絵を原寸で眺めることができる。清親の作品はもちろん素晴らしいが、私が本書を購入した一番の決め手は、井上安治の「蛎殻町川岸の図」が原寸で入っていること。初めてこの絵を画集で見たときは、「これが本当に明治14年の作品か?!」とわが目を疑った。しかもこのとき井上は若干18歳で、デビュー2年目であったという。もし彼が26歳の若さで亡くならなかったら、きっと師の清親と肩を並べる、いや、彼を凌ぐ近代浮世絵の巨匠になっていたことであろう。
(2)山本健吉『狐の提灯』(集英社、1979年)*2000円×0.8
2000円とはちょっと高いなと思ったら、「石川七郎先生 山本健吉」と毛筆のサインがあった。達筆である。「石川七郎先生」とはどういう人か(石川三四郎ならアナキストだが)。自宅に戻ってからインターネットで調べたら、「国立がんセンター第6代総長」らしいことがわかった。
(3)加藤民男『大革命以後』(小沢書店、1981年)*1000円×0.8
3月に文学部を定年退職されたフランス文学の加藤民男名誉教授が22年前に出された本。副題が「ロマン主義の精神」となっているが、「はじめに」の冒頭で「フランス・ロマン主義とはなにか、という大問題について語るつもりはない。そういう問いにたいする回答は、手近にあるどの文学史を開いてみても手際よく提出されている」と啖呵を切っている。最後の教授会での挨拶も、他の先生方が工夫を凝らした、そしていささか長めのものが多かった中で、実にシンプルでかっこよかった。
(4)和辻照『和辻哲郎とともに』(新潮社、1967年)*800円×0.8
あの『風土』を書いた哲学者の妻が書いた本である。彼女が兄の友人の口から同じクラスの秀才和辻哲郎の名前を初めて聞いたのは17歳の夏休みのときだった。それから彼女は校友会雑誌に載っている和辻の文章の幾つかを読み、兄たちが彼の噂をするのをじっと聞き入るようになった。そう、彼女は会ったこともない和辻に恋をしたのだ。そして来る縁談、来る縁談を全部断り、「私はいつまでもあの人を待っていよう。いつかはきっと来てもらえる」と夢のようなことを考えていた。2人が結婚したのは、明治45年6月27日、彼女が始めて彼の名前を聞いた日から5年後のことだった。こういう恋もある。
(5)中野利子『父中野好夫のこと』(岩波書店、1992年)*1000円×0.8
あの『徳富蘆花健次郎』の著者であり、あのギボン『ローマ帝国衰亡史』の訳者である中野好夫の娘が書いた本である。中野好夫は1950年代の平和運動における清水幾太郎の盟友でもあった。スキンヘッドで、怪優殿山泰司とミッシェル・フーコーを足して2で割ったような風貌の持主であった。娘曰く、「いろいろ社会運動についての新聞テレビで見聞きする『知識人代表中野好夫氏』という表現の、知識人の部分に、いつも私は何か引っかかりを感じたものだった。(中略)父はあの顔と男っぽい姿勢とで、得をしているようで損もしていたのではないだろうか」。
(6)西部邁『思想史の相貌』(世界文化社、1991年)*800円×0.8
副題は「近代日本の思想家たち」。福沢諭吉から福田恆存まで。最後の福田を西部は「戦後最大の思想家」とみなしている。確かにそうかもしれない。竹刀を正眼に構えて微動だにしない剣士の趣が福田にはある。ところで、西部はよく「五郎八」に来るそうだけれど(女将さんがそう言っていた)、まだ一度も見かけたことがない。