9時半、起床。ハムトーストと紅茶の朝食。学生に頼まれた推薦状を書いて、それを速達で投函しがてら、散歩に出る。「シャノアール」で持参した宮川透『三木清(近代日本の思想家9)』(東京大学出版会)を読む。三木は若き日の清水幾太郎が自分の歩くべき人生の数歩先をゆく人物として強く意識していた昭和戦前期・戦中期のオピニオンリーダーである。清水の最初の自伝『私の読書と人生』は三木の「読書遍歴」という文章を意識して書かれたものであるが、その「読書遍歴」の中で三木はこんなことを書いている。
「あの第一次世界大戦といふ大事件に会ひながら、私たちは政治に対しても全く無関心であつた。或ひは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのは却つてあの「教養」といふ思想である。そしてそれは政治といふものを軽蔑して文化を重んじるといふ、反政治的乃至非政治的傾向をもつてゐた、それは文化主義的な考へ方のものであつた。」
三木は清水よりも10歳年長の明治30年の生まれで、中学・高校の多感な時代に、いわゆる大正教養主義(個人の人格の完成を人生の至上目的とする考え方、生き方)の影響を受けた。阿部次郎の『三太郎の日記』や倉田百三の『愛と認識との出発』は大正教養主義の代表的な本だが、中学時代の清水は『三太郎の日記』や『愛と認識との出発』の深刻ぶった調子が嫌だったと自伝に書いている。しかし、清水の『倫理学ノート』の末尾で唐突に露になるあの「精神的貴族主義」とでもいうべき思想のルーツは大正教養主義ではなかろうかと、私はにらんでいるのである。
午後1時から、今日封切りの『20世紀少年-第2章-最後の希望』を蒲田宝塚で観た。この映画館にしてはずいぶんな人出であった。場末の映画館でこれなら繁華街の映画館は大入り満員であろうと想像される。昨夜、TVで第一作の総集編みたいな番組をやっていたが(DVDも今日発売だ)、そうした宣伝戦略も功を奏して、大ヒット間違いなしだろう。それにしてもよくぞ原作の中のあれだけのエピソードを盛り込んで、ちゃんと流れのある作品に仕上げてきたものである。職人芸という感じがする。今回の主役、遠藤カンナ役の平愛梨のまなざしの強さは、オッチョ役の豊川悦司のまなざしの強さに負けず劣らず、作品全体にピンと張り詰めた緊張感をもたらしている。ホクロの巡査役の佐藤二朗の微笑の不気味さ、彼に射殺されるニューハーフのブリトニー役の荒木宏文の哀しい健気さ、遠藤カンナの同級生小泉響子役の木南晴夏の情緒不安定なコミカルさ、脇役ではこの3人が強く印象に残った。出番は少なかったが(次回、第三章では重要な役所である)春波夫役の古田新太は原作そっくりの出演者たちの中でも出色のそっくりぶりである。それと、これは作品とは関係ないのだが、女優の片桐はいりさんが映画館の入口でもぎりをやっていたのにはびっくりした。彼女は『キネマ旬報』で「もぎりよ今夜も有難う」というエッセーを連載しているのだが、それと関係があるのだろうか。でも、なんでこんな場末の映画館でなんだ?!「片桐はいりさんですよね?」と声をかけようかと思ったが、万が一、人違いで、たんに片桐はいりさん似の方である可能性を考慮して、声をかけるのはやめておいた。「小雪さんですよね?」と声をかけて、人違いでも、相手は気を悪くしないと思うが、「片桐はいりさんですよね?」となるとね・・・。「テラス・ドルチェ」で遅い昼食(炒飯と珈琲)をとりながら、『三木清』の続きを読んだ。
「あの第一次世界大戦といふ大事件に会ひながら、私たちは政治に対しても全く無関心であつた。或ひは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのは却つてあの「教養」といふ思想である。そしてそれは政治といふものを軽蔑して文化を重んじるといふ、反政治的乃至非政治的傾向をもつてゐた、それは文化主義的な考へ方のものであつた。」
三木は清水よりも10歳年長の明治30年の生まれで、中学・高校の多感な時代に、いわゆる大正教養主義(個人の人格の完成を人生の至上目的とする考え方、生き方)の影響を受けた。阿部次郎の『三太郎の日記』や倉田百三の『愛と認識との出発』は大正教養主義の代表的な本だが、中学時代の清水は『三太郎の日記』や『愛と認識との出発』の深刻ぶった調子が嫌だったと自伝に書いている。しかし、清水の『倫理学ノート』の末尾で唐突に露になるあの「精神的貴族主義」とでもいうべき思想のルーツは大正教養主義ではなかろうかと、私はにらんでいるのである。
午後1時から、今日封切りの『20世紀少年-第2章-最後の希望』を蒲田宝塚で観た。この映画館にしてはずいぶんな人出であった。場末の映画館でこれなら繁華街の映画館は大入り満員であろうと想像される。昨夜、TVで第一作の総集編みたいな番組をやっていたが(DVDも今日発売だ)、そうした宣伝戦略も功を奏して、大ヒット間違いなしだろう。それにしてもよくぞ原作の中のあれだけのエピソードを盛り込んで、ちゃんと流れのある作品に仕上げてきたものである。職人芸という感じがする。今回の主役、遠藤カンナ役の平愛梨のまなざしの強さは、オッチョ役の豊川悦司のまなざしの強さに負けず劣らず、作品全体にピンと張り詰めた緊張感をもたらしている。ホクロの巡査役の佐藤二朗の微笑の不気味さ、彼に射殺されるニューハーフのブリトニー役の荒木宏文の哀しい健気さ、遠藤カンナの同級生小泉響子役の木南晴夏の情緒不安定なコミカルさ、脇役ではこの3人が強く印象に残った。出番は少なかったが(次回、第三章では重要な役所である)春波夫役の古田新太は原作そっくりの出演者たちの中でも出色のそっくりぶりである。それと、これは作品とは関係ないのだが、女優の片桐はいりさんが映画館の入口でもぎりをやっていたのにはびっくりした。彼女は『キネマ旬報』で「もぎりよ今夜も有難う」というエッセーを連載しているのだが、それと関係があるのだろうか。でも、なんでこんな場末の映画館でなんだ?!「片桐はいりさんですよね?」と声をかけようかと思ったが、万が一、人違いで、たんに片桐はいりさん似の方である可能性を考慮して、声をかけるのはやめておいた。「小雪さんですよね?」と声をかけて、人違いでも、相手は気を悪くしないと思うが、「片桐はいりさんですよね?」となるとね・・・。「テラス・ドルチェ」で遅い昼食(炒飯と珈琲)をとりながら、『三木清』の続きを読んだ。