フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月31日(土) 雨のち曇り

2009-01-31 23:59:48 | Weblog
  9時半、起床。ハムトーストと紅茶の朝食。学生に頼まれた推薦状を書いて、それを速達で投函しがてら、散歩に出る。「シャノアール」で持参した宮川透『三木清(近代日本の思想家9)』(東京大学出版会)を読む。三木は若き日の清水幾太郎が自分の歩くべき人生の数歩先をゆく人物として強く意識していた昭和戦前期・戦中期のオピニオンリーダーである。清水の最初の自伝『私の読書と人生』は三木の「読書遍歴」という文章を意識して書かれたものであるが、その「読書遍歴」の中で三木はこんなことを書いている。

  「あの第一次世界大戦といふ大事件に会ひながら、私たちは政治に対しても全く無関心であつた。或ひは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのは却つてあの「教養」といふ思想である。そしてそれは政治といふものを軽蔑して文化を重んじるといふ、反政治的乃至非政治的傾向をもつてゐた、それは文化主義的な考へ方のものであつた。」

  三木は清水よりも10歳年長の明治30年の生まれで、中学・高校の多感な時代に、いわゆる大正教養主義(個人の人格の完成を人生の至上目的とする考え方、生き方)の影響を受けた。阿部次郎の『三太郎の日記』や倉田百三の『愛と認識との出発』は大正教養主義の代表的な本だが、中学時代の清水は『三太郎の日記』や『愛と認識との出発』の深刻ぶった調子が嫌だったと自伝に書いている。しかし、清水の『倫理学ノート』の末尾で唐突に露になるあの「精神的貴族主義」とでもいうべき思想のルーツは大正教養主義ではなかろうかと、私はにらんでいるのである。

              

  午後1時から、今日封切りの『20世紀少年-第2章-最後の希望』を蒲田宝塚で観た。この映画館にしてはずいぶんな人出であった。場末の映画館でこれなら繁華街の映画館は大入り満員であろうと想像される。昨夜、TVで第一作の総集編みたいな番組をやっていたが(DVDも今日発売だ)、そうした宣伝戦略も功を奏して、大ヒット間違いなしだろう。それにしてもよくぞ原作の中のあれだけのエピソードを盛り込んで、ちゃんと流れのある作品に仕上げてきたものである。職人芸という感じがする。今回の主役、遠藤カンナ役の平愛梨のまなざしの強さは、オッチョ役の豊川悦司のまなざしの強さに負けず劣らず、作品全体にピンと張り詰めた緊張感をもたらしている。ホクロの巡査役の佐藤二朗の微笑の不気味さ、彼に射殺されるニューハーフのブリトニー役の荒木宏文の哀しい健気さ、遠藤カンナの同級生小泉響子役の木南晴夏の情緒不安定なコミカルさ、脇役ではこの3人が強く印象に残った。出番は少なかったが(次回、第三章では重要な役所である)春波夫役の古田新太は原作そっくりの出演者たちの中でも出色のそっくりぶりである。それと、これは作品とは関係ないのだが、女優の片桐はいりさんが映画館の入口でもぎりをやっていたのにはびっくりした。彼女は『キネマ旬報』で「もぎりよ今夜も有難う」というエッセーを連載しているのだが、それと関係があるのだろうか。でも、なんでこんな場末の映画館でなんだ?!「片桐はいりさんですよね?」と声をかけようかと思ったが、万が一、人違いで、たんに片桐はいりさん似の方である可能性を考慮して、声をかけるのはやめておいた。「小雪さんですよね?」と声をかけて、人違いでも、相手は気を悪くしないと思うが、「片桐はいりさんですよね?」となるとね・・・。「テラス・ドルチェ」で遅い昼食(炒飯と珈琲)をとりながら、『三木清』の続きを読んだ。

1月30日(金) 雨

2009-01-31 02:05:42 | Weblog
  8時半、起床。ハムトーストと紅茶の朝食。10時に家を出る。今日は修論の面接試験。私の担当は副査が2本。11時半からUさん(主査は長田先生)、12時15分からS君(主査は長谷先生)。一人あたり45分という時間は、主査と二人の副査がそれぞれに講評を述べ質疑応答をしていると、あっと言うまに終ってしまう。最後の組が1時に終わり、「秀永」に昼食を食べに出る。木須肉(ムースーロー)定食。食後の珈琲を喫茶店で飲んでいる時間はなく、教員ロビーの自販機の珈琲を飲んで、2時からの判定教室会議に臨む。3時前に終わり、後は夕方まで研究室で卒論を読む。帰りの電車の中では、熊野純彦『レヴィナス入門』(ちくま新書)を読む。期末試験の答案も含めて、学生の書いた文章ばかり読んでいると、息抜きにプロの書いた文章が読みたくなる。
  ところで、今日、文化構想学部の1年生の進級希望論系の第二次(最終)の申請の集計が発表された。わが現代人間論系は一次の193名から2名減の191名である。思いのほか減らなかったのは、一次のときに希望を出さず二次で初めて希望を出した学生が45名もいたからだろう。論系定員は168名なので、倍率は1.17である。健全な倍率かと思う(現代人間論系を希望する学生の88%は希望が叶うわけであるから)。
  今日は一日中、冷たい雨が降っていた。明日も同じような天気らしい。

1月29日(木) 曇り

2009-01-30 02:48:15 | Weblog
  8時、起床。ベーコン&エッグ、トースト、紅茶の朝食。午前中は副査を担当している修論に目を通す。昼から大学へ。昼食は「ごんべえ」のカレー南蛮。3限は大学院の演習の最終回。これで今年度の授業はすべて終了する。今日、修士論文の概要を報告したS君にとっても(彼は就職が決まっている)学生生活最後の授業である。
  夕方、出張で早稲田大学に来ている弘前大学の高瀬君とキャンパスの入口で待ち合わせて「カフェ・ゴトー」へ行く。「カフェ・ゴトー」は新年になって今日が初めて。1月中に来られてよかった(読書が目的のときは「シャノアール」か「フェニックス」へ行く。ここに来るのは人と話をするとき)。チーズケーキと紅茶を注文し、1時間ばかり四方山話。店内はほどよく混んでおり、男女のカップル、女性同士の客、女性の一人客、われわれが男性同士の客と一通り揃っているが、男性の一人客はいない。たまたまではなくて、めったに見ない。そういう雰囲気のカフェなのである。
  夜、『ありふれた奇跡』の第4話を観る。翔太(加瀬亮)の家は池上にある。翔太と加奈(仲間由紀恵)が一緒に池上駅の改札を出て、本門寺通り商店街を歩くシーンがあった。私にはお馴染みの場所である。

         
                    二人はここを歩いていた

  それにしても、加奈の母親である桂(戸田恵子)が愛人と別れるシーンは、まるで舞台の芝居を観ているようだった。戦慄を覚えましたね。山田太一ワールド全開である。
  3月上旬に金沢に行く計画を立て、インターネットで去年と同じホテルを予約する。去年は文化構想学部と文学部の入試の合間(2月中旬)に出かけたのだが、今回は入試関連の業務はあらかた終っている時期である。もう雪は止んでいるだろうか。

1月28日(水) 曇り、一時小雨

2009-01-29 02:21:44 | Weblog
  8時、起床。卵焼き、トースト、紅茶の朝食。今日は修論を読む日。鉛筆で書き込みをしながら読んでいく。これが手書原稿だとそういうわけにもいかないが、印字原稿はコピーと同じだから、躊躇なく書き込みができる。書き込みをしながらでないと読んだ気がしない。昼食は、卵焼き、里芋煮、ほうれん草の胡麻和え、大根の味噌汁、ご飯。少し昼寝をしてから、散歩に出る。「テラス・ドルチェ」で珈琲を飲みながら修論を読む。切りのいいところまで読んでから、栄松堂へ行き、以下の本を購入。

  野村美月『〝文学少女〟と死にたがりの道化』(ファミ通文庫)
  朱川湊人『本日、サービスデー』(光文社)
  日高義樹『不幸を選択したアメリカ』(PHP)

  『〝文学少女〟と死にたがりの道化』はいわゆるライトノベル(中高生を中心とした若者層を対象にした娯楽小説)である。手に取るのは初めてだが、いま読んでいる修論がライトノベルを扱ったものなので、実際に読んでみないことには話になるまいと思ったからである。いままでほとんど気にしていなかったが、ライトノベルの棚は売り場の中でけっこうな面積を占めている。その中から一冊を選ぶのは、初心者の私には難しいことに思えたが、幸い、帯に「このライトノベルがすごい!2009 作品部門第1位」と印刷された作品があったので、購入することにした。それが『〝文学少女〟と死にたがりの道化』である。表紙にキャラクター(天野遠子)のイラストが描かれているのはライトノベルの特徴の一つであるが、私のような年恰好の者が、これをレジに持っていくのは多少の度胸がいる。「進め!社会学者!」と心の中で念じつつ、でも、これ一冊ではいくらなんでもなぁと思い、カムフラージュの意味合いもあって、他の二冊と混ぜる。レジの女性から「カヴァーをおつけしますか?」と二度も聞かれる。通常は、「カヴァーをおつけしますか?」「いいえ、けっこうです」「おそれいります」というやり取りが一度あるだけであるが、今日は、「おそれいります」に続いてクレジットカードでの支払い手続きがあって、その後、再び、「カヴァーをおつけしますか?」と聞かれた。えっ、さっき「けっこうです」といったよね。聞いてなかったの。どうもこの店員はこの本にカヴァーをしたくてしかたがないみたいなのである。カヴァーをしないで公衆の面前でこの本を読むことはあんたのためになりません、悪いことはいいませんからカヴァーをしなさい、そう言いたいみたいである。隣のレジの女性の店員がこちらをチラチラと見ている。この本を買うのはいい、それはおじさんの自由だ、おじさんにはこの本を購入する権利がある、しかし、権利には必ず義務が伴う、この場合、本にカヴァーをつけることはおじさんの義務だ、そう言いたげなまなざしである。「カヴァーはけっこうです」と再び私は言った。目の前の店員は観念したように「わかりました」と言い、隣のレジの店員はやれやれという感じで小さく溜息をついた。

         

  同じフロアーの新星堂で、今日発売のブルース・スプリングスティーンのニュー・アルバム「ワーキング・オン・ドリーム」と、同じく彼の初期(1975年)のアルバム「明日なき暴走」を購入。ロックだぜ。

         

1月27日(火) 晴れ

2009-01-28 02:25:46 | Weblog
  8時、起床。クリームシチュー、トースト、紅茶の朝食。フィールドノートの更新をすませてから、答案の採点。昼食は親子丼。少し昼寝をしてから、大学へ。5限の「質的調査法特論」は今日が最終回。4時20分からの授業だが、空はまだ明るい。日が少しずつ長くなっているのがわかる。5人が報告をしてぴったり授業時間内に収まる(収めた)。
  教室の鍵を返却にしに教員ロビーにいくと、美術史の肥田先生がいらしたので、しばし雑談。肥田先生は特別研究期間で一年間授業を担当されていなかったので、4月から授業のある生活に適応できるかしらとおっしゃっていた。とくに初めて担当される基礎演習のことを気にしておられたので、アドバイスというほどのものではないが、自分が2年間経験してきたことをお話させていただく。大学院の演習、大教室での講義、学部の演習、それぞれに違った難しさがあるが、基礎演習の難しさはまた格別である。他の授業は講義要項を読んで「私の授業」を履ろうと思って来ている学生を相手にするわけだが、基礎演習は自動登録なので、私と学生との出会いはまったくの偶然である。授業の内容も私の専門分野とは関係がない(論文の読み方、プレゼンテーションの仕方、レポートの書き方)。アウェーとまでは言わないものの、少なくともホームでの試合(授業)ではない。2年務めて、来年度は休ませてもらうつもりでいたが(ゼミの立ち上げにエネルギーを注ぎたいので)、願い叶わず、来年度も担当することになった。もしも文化構想学部と文学部の専任教員全員が基礎演習を担当することにしたら、1クラスの定員は10名ほどになり、きめ細かい指導ができるのにと思う。現行の30人はどう考えても多い。報告の機会を全員に回すだけで精一杯である。10人が贅沢ならせめて20人。導入教育をきちんとやろうとしたらその辺りが上限であると思う。
  今日は往き帰りの電車の中で、谷崎潤一郎の小説「美食倶楽部」(大正8年)を読んだ。メーテルリンクの『青い鳥』(明治41年)の第4幕第9場に登場する「太りかえった幸福たち」、とりわけその中でも「ひもじくないのに食べる幸福」の化身のような人間たちが主人公である。彼らの美食に対する欲望をこれでもかこれでもかといわんばかりに描写する谷崎の文章は圧巻である。

  「とたんにAは、舌と一緒に其の手へ粘り着いて居る自分の唾吐が、どう云ふ加減でか奇妙な味を帯びて居る事を感じ出す。ほんのりと甘いやうな、又芳ばしい塩気をも含んで居るやうな味が、唾吐の中からひとりでにじとじとと沁み出しつつあるのである。唾吐がこんな味を持つて居る筈はない。さうかと云つて、勿論女の手の味でもあらう筈はない。・・・Aはしきりに舌を動かして其の味を舐めすすつて見る。舐めても舐めても、尽きざる味が何処からか沁み出して来る。遂には口中の唾吐を悉く嚥み込んでしまつても、やつぱり舌の上に怪しい液体が、何物からか搾りだされるやうにして滴々と湧いて出る。此処に至つて、Aはどうしても其れが女の指の股から生じつつあるのだと云ふ事実を、認めざるを得ないのである。彼の口の中には、その手より外に別段外部から這入つて来たものは一つもない。さうして其の手は、五本の指を揃へて、先からぢつと彼の舌の上に載つて居る。それ等の指に附着して居るぬらぬらした流動物は、今迄たしかにAの唾吐であるらしく思われたのに、脂汗の湧き出るやうに漸々に滲み出て居るのであつた。」

  食欲と性欲の親和性を如実に示すエロチックで変態じみた描写である。ただし谷崎の変態さというのは、これは『瘋癲老人日記』の場合もそうだが、いかにも変態じみているために病的な感じがしないのである。わかりのよい変態さ、標本箱に収まっているような変態さなのである。変態の標本。だからそんなに不気味ではない。「ああ、変態だ」と頭で理解できてしまうのだ。広津和郎が「四五の作家に就いて」(大正7年)という評論の中でこんなことを書いていた。

  「人が悪さうで案外頗る人が善く、アブノオマルのやうで案外頗るノーマルなところに、非常識のやうで案外頗る常識的なところに、潤一郎氏の根本の弱みがあるのだと思ふ。」

  「美食倶楽部」は『編年体大正文学全集』第八巻(ゆまに書房)に収められいるものを読んだのだが、編者のいたずらだろうか、この作品の後には小川未明の小説「飢」が配置されている。続けて読むと、サウナ風呂から水風呂に飛び込むような心地がする。