フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月31日(木) 晴れ

2008-07-31 23:59:16 | Weblog
  午後、散歩に出る。日本工学院の新校舎の建設が本格的になってきた。これまで公道だったところが、その道路に面する土地がすべて日本工学院のものとなり、これから工事車輌が出入りするためにだろうか、廃道となり、通行禁止となった。ただし、「鈴文」ほかいくつかの店舗はまだ営業中のため、その店舗の前まではいけるようになっている。これから初めて「鈴文」に行こうとする人はびっくりするであろう。周囲の建築物がすべて撤去された空間に「鈴文」がポツンと残っているからである。

         

         
                  多摩堤通りから工事現場を見る

  東急プラザの「五右衛門」で夏野菜のスパゲティを食べ、栄松堂で以下の本を購入し、「テラス・ドルチェ」で読む。

  『私のこだわり人物伝 永井荷風/伊丹十三』(NHK出版)
  『短歌研究』8月号(短歌研究社)

  伊丹十三のことを論じているのは、村松友視、浅井慎平、南伸坊、白井佳夫の4人。浅井の話がとくに興味深かった。

  「伊丹さんの性格の大きな特徴として、つねにダンディズムの極地みたいなものを求めることがあります。何に対しても「かくあらねばならぬ」という理想をもうけてしまう。才能にあふれていなければならぬ、賢くあらねばならぬ、小粋でなければならぬ、下手であってはならぬ。そんな「ねばならぬ」を実現することに必死だったような気がします。遠くにある「かくあらねばならぬ自分」に、必死に近づこうとしていた。それが伊丹さんなりの命の埋め方だったとぼくは思っています。
  あるいは、そこには、「人からこう見られたい」と人目を意識する俳優的なさがも関係していたかもしれません。
  しかも、そのための努力も「隠さねばならぬ」だったから、苦しかったはずです。でも、やめられなかったのではないでしょうか。なぜなら、それが伊丹さんの「スタイル」だったからです。
  一般に伊丹さんは器用な人とされています。むろん、普通の意味では器用でしょう。けれども、生き方という意味では、逆に不器用だったと思います。そして、不器用だったからこそスタイルが必要だったのではないかと思います。
  才能のある人というのは、そもそもアンバランスであり、欠けているところがあり、だからこそ、その欠落を埋めたり、バランスをとったりしようとして、何かの表現をせざるをえなくなるのです。スタイルを作らないと生きられないのです。不器用ゆえのクリエティブということがあるのです。凡庸な人はそのこと自体に気づかなかったりしますが、それをやらなければ生きられない、切実な人もいるのです。
 ですから、伊丹さんを「人生を楽しんでいる人」のように見ていた人も多いと思いますが、ぼくにはちっとも楽しそうには見えませんでした。」(105-106頁)

  「生き方を探しているのは、いまの人も同じだ言われるかもしれませんが、たぶん違います。世の中というものが見えにくくなっているから、そう錯覚するだけで、いまの人たちの多くは、見えにくい世の中にどうフィットして生きるかを探しているだけではないでしょうか。
  だから、先にも言った「ライフスタイル」という言葉があの時代に登場したことにはけっこう重要な側面があって、ぼくも伊丹さんも生き方を一生懸命探していたのです。それが一つの文化になっていた。それをかなり先鋭なスタイルの形で示すことができた人間の一人が、伊丹さんだった。だから、伊丹さんは大きな影響力を持ったのです。
  たとえば、伊丹さんのもろもろのモノへのこだわりも、単なる気まぐれや遊びではなく、車も身につけるものも道具への愛着も、何らかの思想を示す文化になっていたとみることができるのです。その点では唯一無二だったし、誰にも有無を言わさない説得力のようなものがありました。」(112-113頁)

  「ちょっと唐突な例ですが、ぼくは焚き火が好きです。なぜかというと、焚き火は饒舌も寡黙も、どちらも似合うからです。そして、友情も焚き火のようなものがいいと思う。饒舌に語り合うときは当たり前のように語り合い、話すことがないときは当たり前のように黙っている。一緒にいるときに沈黙が気になるような相手は嫌なのです。それができるのが、上質な友人だと思う。ぼくと伊丹さんはそんな感じにやや近いものがあった気がします。
  でも、ぼくと伊丹さんは結局、すべて打ちとけた話はできなかったのです。「人間は」「世の中は」「世界は」という話はできたけれども、もう一歩先の「伊丹十三は」「浅井慎平は」というところまでは行けなかった。伊丹さんの性格からして、どうしてもそうなれなかったのだと思います。
  しかし、伊丹さんがその代わりにしてみせたのではないかと思うことがあります。
  それは、伊丹さんがぼくの家に遊びにくるたびにやっていたことで、一つは冷蔵庫を開けること。扉を開けて「ホウ、きょうは○○が入っていますね」なんて言う。もう一つは床に横になって昼寝をすること。いまにして思えば、それは伊丹さんなりの友情の「演出」で、伊丹さんはそういう形によってしか、友情を示せなかったのではないかと思います。
  そんなことをしなくてよかったのに―と、それを思い出すと、ぼくは切なくなる。そして、めったに隙を見せなかった伊丹さんという人の人間臭さみたいなものをうっすらと感じて、懐かしくなるのです。」(115-116頁)

  切りのいいところまで読んで、駅ビルの「御座候」で母への土産に今川焼き(白餡)を買って帰る。

         
                  蒲田駅西口の駅前広場の上空

7月30日(水) 曇り

2008-07-31 02:26:56 | Weblog
  気がづけば7月も末である。暑い、蒸す、そして早い。歳を取るにつれて時が経つのが早く感じられる、とみんな言う。その理由については諸説あるが、それは主観の問題ではなくて、実際、宇宙の時間が速くなっているのではないかという説がある。その証拠に(なるかどうかはわからないが)、中高年だけでなく、若者も子供も時が経つのが早くなっている気がするといっているのだ。時間が早くなっていくペースがゆっくりであれば、われわれはそれに気づかないが、あまりにも早いために、身体の時間感覚がそれについていけず、「なんか早くなっているような気がするんですけど」と訴えているのである。アインシュタインが、晩年、老子の思想を研究しているときに思いついた仮説で、学会で発表しようとして弟子たちに止められたというのは有名な話である(嘘です)。
  明日が締め切りの「早稲田大学男女共同参画推進に関する意識・実態調査(2008)」にWeb画面から回答する。大変よく練られて設計された調査票であるが、一箇所、「?」というところがあった。「介護・看護の経験があるか」を尋ねられて「ある」を選択し、「対象となったのは誰か」と尋ねられて「自分の父親」を選択し、「そのときの主たる介護者は誰か」と尋ねれて「自分の母親」を選択しようとしたらそういう選択肢はないので、「その他」を選択して括弧の中に「自分の母親」と書き込んだ。両親の介護の場合、一般に父親の方が先に亡くなるケースの方が多いが、その場合の主たる介護者は母親であることがほとんどだ。高齢者が高齢者を介護する典型的なケースである。もし介護の対象者が「自分の母親」であった場合は、「あなた」とか「あなたの配偶者」とか「あなたのきょうだい」とかが主たる介護者としてあがってくるのだろうが・・・。質問に回答しながら、2年前のことが思い出された。あれはつらい経験であった。いまでも何かの拍子に思い出すことがあり、苦汁のようなものがこみ上げてくる。(死に至る)介護のつらいことの1つは、それがどれだけの期間続くのか終ってみなければわからないことである。育児の場合は、何年すればどうなるという計算が立てやすい。いまは大変でも何年すれば手が離れるという見通しがつく。しかし介護の場合は、数ヶ月続くのか、数年続くのか、あるいはもっと続くのか、皆目見当がつかない。先行き不透明な中での介護という労働は人をひどく消耗させる。さらに自分が消耗している、イライラし、うんざりしているということを感じるとき、それが自己嫌悪につながるのである。父の晩年、私は親孝行な息子でありたいと願ったが(「孝治」という名前の呪縛)、実際、そうであったかは疑問である。
  夕方から大田区男女平等推進区民会議。9時ちょっと前に終わり、閉店間際の駅ビルのTAKANOでケーキ(桃のレアチーズ)を買って帰る。腹ペコであったので、妻が夕食を作っているのを待つ間に、私はケーキを食べることにした。ケーキはデザートと決まっているが、前菜として食べたのである。美味しかった。腹ペコだから美味しいに決まっているが、問題はその後に夕食(ポークジンジャー)を食べてどうなのかということである。驚いたことに何の問題もなかったのである。「ケーキはデザート」という常識が覆った瞬間であった。「脱日常」「脱常識」を旨とする社会学者としての自分を誇らしく感じながら、私はご飯のお替りをした。

         

7月29日(火) 晴れ

2008-07-30 02:34:33 | Weblog
  午後、有楽町の日劇で「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」を観た。最新作だが、懐かしい映画だった。シリーズ第一作となる「レイダーズ 失われたアーク」を映画館(たぶん東銀座の東劇だった)で観たのは1981年の年末である。私は27歳でまだ独身だった。博士課程の2年生で、前途洋々などという気分は微塵もなかったが、「高学歴ワーキングプア」などという言葉はまだなくて、なんとかなるだろうという気持ちが強かった(そうでなければ2年後に結婚などできなかったに違いない)。開演時間ぎりぎりに映画館に飛び込んで、満席に近い状態であったが、一人だったので、席は確保できた。「やっぱり映画は一人で観るに限るな」と思った記憶がある。この信念はいまも変わらない。「レイダーズ 失われたアーク」はとにかく痛快な映画だった。劇場全体が息を飲んだり、ハラハラしたり、声を上げて笑ったりしていた。その後、シリースは「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」(1984年)、「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」(1989年)と続き、もう新作はないのだと思っていたところに、今回の新作である。私は54歳で妻子がおり、上の子は社会人、下の子は大学2年生だ。映画の主人公ヘンリーと同じく大学で教鞭をとっている。今回の時代設定は1957年。1899年生まれの主人公は58歳になっている。私と大して違わないが、独身のままだ。ハリソン・フォード自身は1942年の生まれだから今年で66歳。早稲田大学ならあと4年で定年だ。よく頑張るよな、まったく。1957年のアメリカは懐かしい。それは「オールウェーズ三丁目の夕日」の世界(昭和33年=1958年)が懐かしいとの同じ意味で懐かしい。アメリカ人には自信にあふれたアメリカであり、日本人には憧れのアメリカである。街角にはロックンロールが流れ、リーゼントの若者たちがたむろしていた。しかし、その一方で、知識人の世界にはマッカーシズムの傷跡が生々しく残っていた。主人公もソ連との関係を疑われ教壇を追われるのである。今回の作品のストーリーはかなりゴチャゴチャしている。そう私が感じるのは主人公たちのたどる地理的移動のルートがゴチャゴチャしているせいもあるかもしれないが、そのためだけではなくて、シリーズ最終作ということで(さすがにそうだろう)、あれもこれもといろいろ詰め込み過ぎているからである。その最たるものは、シリーズ第一作のヒロインだったマリオン(カレン・アレン)の再登場である。あの貨物船の船室のベッドの上での名シーンはいまでも印象に残っている。満身創痍のヘンリーに「痛くないところはどこ?」と尋ね、彼が左腕の肘を示すと彼女はそこにキスをする。次に彼が胸を示すと、彼女はそこにもキスをする。彼が額を指差すと彼女はそこにもキスをする。そして彼が唇を指差して二人はキスをするのである(そのあとのことは知らない)。あのマリオンである。ヘンリーとマリオンは結婚の約束をしたのだが、直前に(結婚式の1週間前に!)ヘンリーが婚約を一方的に破棄して(「結婚生活がうまくいかないことが目に見えていたから」というのがその理由である)、姿をくらましたしまったのだった。そのときマリオンのお腹の中にはヘンリーの子供がいたが、彼はそのことを知らなかった。当然のことだが、映画には若者になったその息子も登場する。そして最後はヘンリーとマリオンは結婚式をあげるのである。エンディングがウェディングなのだ。カレン・アレンは1951年の生まれだから、第一作のときはすでに30歳だったわけで(もっと若いのかと思っていた)、女優さんだから美しいとはいえ、学生時代のとびきり美人の同級生に何十年かぶりで再会したときみたいな感慨があった。・・・というわけで、この映画は二重三重に懐かしさの漂う作品なのであった。

7月28日(月) 曇り

2008-07-29 02:34:10 | Weblog
  今日は夕方から現代人間論系のゼミ説明会&論系ガイダンスがあったのだが、その前に二文の3年生の面談を一件、昼食をとりがてら「フェニックス」で。Mさんは1年生のとき私の基礎演習のクラスの学生だった。9月から半年間、ワーキングホリデーでオーストラリアに出かけるのだという。で、出かける前に、やっておきたいことがいくつかあって、その一つが私と話をすること、というわけだ。あのときのクラスは面白いというか、変わっているというか、個性的な学生がたくさんいて、その中ではMさんは比較的おとなしい学生であったが、ひたむきで、純粋な心の持ち主で、だからMさんの質問には冗談を控えめにして私も答えていたようなことろがあった。今日も卒論の話から始まって・・・(さまざまな話題があって)・・・最後は人間と孤独といったような話で終った。3時から5時まで2時間ほど話した。元気でいってらっしゃい。
  6時から現代人間論系のゼミ説明会&論系ガイダンス。6・7限と同じ教室が使えるものと思い込んでいたら、途中で、7限に定期試験で教室が使われるということが判明し(そんなの聞いてなかったぞ!)、大いに慌てる。各ゼミの説明の時間を5分(時間厳守)でお願いしたが、そう依頼した私が10分しゃべったのは罰金ものであった。パワポの操作に気を取られて、腕時計の文字盤を見誤ったのである(ホントです)。7時半から場所を別の教室に移して、教員への質問を受ける。数人の学生たちと1時間ほど懇談。ゼミに関しては選考の問題が学生の一番の関心事というか不安材料であるようだ。もっともなことである。少人数制(15名程度)ということは、当然、希望しても入れないことがあるということである。それは選考する教員の側にとっても頭の痛いところで、面接をして落とすのはいやだなあと多くの教員は思っている。でも、一方で、面接せずに成績順とか抽選とかで決めるのもどうかなあという思いもあり、悩ましいところなのである。ゼミの第一次選考期間は11月4日から14日である。思案の秋になりそうだ。安藤先生と「秀永」で食事をして、一緒の電車で帰った。  

7月27日(日) 曇り

2008-07-28 02:41:38 | Weblog
  8時、起床。一日かけて以下の作業を粛々とこなす。

  (1)午前中、基礎講義のレポートへのコメント書き。現時点でコースナビにアップされているものはすべてコメントを書いた。明日、事務所経由でアップされるもの(コースナビの不具合で直接コースナビにアップできなかった学生のもの)が追加されるが、たいした数ではない(はずである)。今日で山は越えたと思われる。トータルで150本分ほど書いたろうか。去年が70本だったから倍増である。自分で言い出したこととはいえ、きつかった。読むだけなら試験の答案よりも楽(というか面白い)が、コメントを書くとなると、答案の採点の3倍くらいの時間がかかる。
  (2)午後、基礎講義のレビューシートへのコメント書き。一時、レポートへのコメントを優先していてレビューシートの方は中断していたのだが、レポートの方が片付いたので、中断中に届いたレビューシート(現代人間論系基礎講義1(論系紹介)が50枚ほど、現代人間論系基礎講義6(自己イメージと他者)が70枚ほど)にも全部コメントを返すことにした。トータルで「1」が766枚、「6」が603枚になった。なんだか文化構想学部の1年生の大部分とメールをやりとりしたような気分だ。
  (3)夜、担当している基礎演習の学生たちに、夏休みの課題(レポート)について説明した「お知らせ」をコースナビから送信する。レポートの締め切りは9月25日だが、途中で何の音沙汰もなく、夏休みの終わりにいきなり草稿を出されても、ネットからの安易なコピペを多用した箸にも棒にもかからないレベルのものがけっこうあり(去年の例)、そうならないために、8月中に各自が考えているテーマ(案)についてBBSに書き込むように指示する。卒論でいえば、仮指導のようなものを夏休み中に一度メールでやっておけば、草稿の質も大分違うはずで、こちらの添削作業も楽になるはずという読みであるが、さて、どうなるかな。
  (4)夜、明日の現代人間論系ゼミ説明会で使う資料(パワーポイントのスライド)の作成。全部が終ったのが深夜。フィールドノートを更新したら就寝だ。

  昼間は蒸し暑かったが、いま、窓から入ってくる外気はひんやりしている。ちょっと外に出てみたいが、またおまわりさんに職務尋問をされそうで・・・。