午後、散歩に出る。日本工学院の新校舎の建設が本格的になってきた。これまで公道だったところが、その道路に面する土地がすべて日本工学院のものとなり、これから工事車輌が出入りするためにだろうか、廃道となり、通行禁止となった。ただし、「鈴文」ほかいくつかの店舗はまだ営業中のため、その店舗の前まではいけるようになっている。これから初めて「鈴文」に行こうとする人はびっくりするであろう。周囲の建築物がすべて撤去された空間に「鈴文」がポツンと残っているからである。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/bb/8cb7e1d95394a02941bf2102ed2df2c3.jpg)
多摩堤通りから工事現場を見る
東急プラザの「五右衛門」で夏野菜のスパゲティを食べ、栄松堂で以下の本を購入し、「テラス・ドルチェ」で読む。
『私のこだわり人物伝 永井荷風/伊丹十三』(NHK出版)
『短歌研究』8月号(短歌研究社)
伊丹十三のことを論じているのは、村松友視、浅井慎平、南伸坊、白井佳夫の4人。浅井の話がとくに興味深かった。
「伊丹さんの性格の大きな特徴として、つねにダンディズムの極地みたいなものを求めることがあります。何に対しても「かくあらねばならぬ」という理想をもうけてしまう。才能にあふれていなければならぬ、賢くあらねばならぬ、小粋でなければならぬ、下手であってはならぬ。そんな「ねばならぬ」を実現することに必死だったような気がします。遠くにある「かくあらねばならぬ自分」に、必死に近づこうとしていた。それが伊丹さんなりの命の埋め方だったとぼくは思っています。
あるいは、そこには、「人からこう見られたい」と人目を意識する俳優的なさがも関係していたかもしれません。
しかも、そのための努力も「隠さねばならぬ」だったから、苦しかったはずです。でも、やめられなかったのではないでしょうか。なぜなら、それが伊丹さんの「スタイル」だったからです。
一般に伊丹さんは器用な人とされています。むろん、普通の意味では器用でしょう。けれども、生き方という意味では、逆に不器用だったと思います。そして、不器用だったからこそスタイルが必要だったのではないかと思います。
才能のある人というのは、そもそもアンバランスであり、欠けているところがあり、だからこそ、その欠落を埋めたり、バランスをとったりしようとして、何かの表現をせざるをえなくなるのです。スタイルを作らないと生きられないのです。不器用ゆえのクリエティブということがあるのです。凡庸な人はそのこと自体に気づかなかったりしますが、それをやらなければ生きられない、切実な人もいるのです。
ですから、伊丹さんを「人生を楽しんでいる人」のように見ていた人も多いと思いますが、ぼくにはちっとも楽しそうには見えませんでした。」(105-106頁)
「生き方を探しているのは、いまの人も同じだ言われるかもしれませんが、たぶん違います。世の中というものが見えにくくなっているから、そう錯覚するだけで、いまの人たちの多くは、見えにくい世の中にどうフィットして生きるかを探しているだけではないでしょうか。
だから、先にも言った「ライフスタイル」という言葉があの時代に登場したことにはけっこう重要な側面があって、ぼくも伊丹さんも生き方を一生懸命探していたのです。それが一つの文化になっていた。それをかなり先鋭なスタイルの形で示すことができた人間の一人が、伊丹さんだった。だから、伊丹さんは大きな影響力を持ったのです。
たとえば、伊丹さんのもろもろのモノへのこだわりも、単なる気まぐれや遊びではなく、車も身につけるものも道具への愛着も、何らかの思想を示す文化になっていたとみることができるのです。その点では唯一無二だったし、誰にも有無を言わさない説得力のようなものがありました。」(112-113頁)
「ちょっと唐突な例ですが、ぼくは焚き火が好きです。なぜかというと、焚き火は饒舌も寡黙も、どちらも似合うからです。そして、友情も焚き火のようなものがいいと思う。饒舌に語り合うときは当たり前のように語り合い、話すことがないときは当たり前のように黙っている。一緒にいるときに沈黙が気になるような相手は嫌なのです。それができるのが、上質な友人だと思う。ぼくと伊丹さんはそんな感じにやや近いものがあった気がします。
でも、ぼくと伊丹さんは結局、すべて打ちとけた話はできなかったのです。「人間は」「世の中は」「世界は」という話はできたけれども、もう一歩先の「伊丹十三は」「浅井慎平は」というところまでは行けなかった。伊丹さんの性格からして、どうしてもそうなれなかったのだと思います。
しかし、伊丹さんがその代わりにしてみせたのではないかと思うことがあります。
それは、伊丹さんがぼくの家に遊びにくるたびにやっていたことで、一つは冷蔵庫を開けること。扉を開けて「ホウ、きょうは○○が入っていますね」なんて言う。もう一つは床に横になって昼寝をすること。いまにして思えば、それは伊丹さんなりの友情の「演出」で、伊丹さんはそういう形によってしか、友情を示せなかったのではないかと思います。
そんなことをしなくてよかったのに―と、それを思い出すと、ぼくは切なくなる。そして、めったに隙を見せなかった伊丹さんという人の人間臭さみたいなものをうっすらと感じて、懐かしくなるのです。」(115-116頁)
切りのいいところまで読んで、駅ビルの「御座候」で母への土産に今川焼き(白餡)を買って帰る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/39/f67ab35f2a399c6394a628365566baa1.jpg)
蒲田駅西口の駅前広場の上空
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多摩堤通りから工事現場を見る
東急プラザの「五右衛門」で夏野菜のスパゲティを食べ、栄松堂で以下の本を購入し、「テラス・ドルチェ」で読む。
『私のこだわり人物伝 永井荷風/伊丹十三』(NHK出版)
『短歌研究』8月号(短歌研究社)
伊丹十三のことを論じているのは、村松友視、浅井慎平、南伸坊、白井佳夫の4人。浅井の話がとくに興味深かった。
「伊丹さんの性格の大きな特徴として、つねにダンディズムの極地みたいなものを求めることがあります。何に対しても「かくあらねばならぬ」という理想をもうけてしまう。才能にあふれていなければならぬ、賢くあらねばならぬ、小粋でなければならぬ、下手であってはならぬ。そんな「ねばならぬ」を実現することに必死だったような気がします。遠くにある「かくあらねばならぬ自分」に、必死に近づこうとしていた。それが伊丹さんなりの命の埋め方だったとぼくは思っています。
あるいは、そこには、「人からこう見られたい」と人目を意識する俳優的なさがも関係していたかもしれません。
しかも、そのための努力も「隠さねばならぬ」だったから、苦しかったはずです。でも、やめられなかったのではないでしょうか。なぜなら、それが伊丹さんの「スタイル」だったからです。
一般に伊丹さんは器用な人とされています。むろん、普通の意味では器用でしょう。けれども、生き方という意味では、逆に不器用だったと思います。そして、不器用だったからこそスタイルが必要だったのではないかと思います。
才能のある人というのは、そもそもアンバランスであり、欠けているところがあり、だからこそ、その欠落を埋めたり、バランスをとったりしようとして、何かの表現をせざるをえなくなるのです。スタイルを作らないと生きられないのです。不器用ゆえのクリエティブということがあるのです。凡庸な人はそのこと自体に気づかなかったりしますが、それをやらなければ生きられない、切実な人もいるのです。
ですから、伊丹さんを「人生を楽しんでいる人」のように見ていた人も多いと思いますが、ぼくにはちっとも楽しそうには見えませんでした。」(105-106頁)
「生き方を探しているのは、いまの人も同じだ言われるかもしれませんが、たぶん違います。世の中というものが見えにくくなっているから、そう錯覚するだけで、いまの人たちの多くは、見えにくい世の中にどうフィットして生きるかを探しているだけではないでしょうか。
だから、先にも言った「ライフスタイル」という言葉があの時代に登場したことにはけっこう重要な側面があって、ぼくも伊丹さんも生き方を一生懸命探していたのです。それが一つの文化になっていた。それをかなり先鋭なスタイルの形で示すことができた人間の一人が、伊丹さんだった。だから、伊丹さんは大きな影響力を持ったのです。
たとえば、伊丹さんのもろもろのモノへのこだわりも、単なる気まぐれや遊びではなく、車も身につけるものも道具への愛着も、何らかの思想を示す文化になっていたとみることができるのです。その点では唯一無二だったし、誰にも有無を言わさない説得力のようなものがありました。」(112-113頁)
「ちょっと唐突な例ですが、ぼくは焚き火が好きです。なぜかというと、焚き火は饒舌も寡黙も、どちらも似合うからです。そして、友情も焚き火のようなものがいいと思う。饒舌に語り合うときは当たり前のように語り合い、話すことがないときは当たり前のように黙っている。一緒にいるときに沈黙が気になるような相手は嫌なのです。それができるのが、上質な友人だと思う。ぼくと伊丹さんはそんな感じにやや近いものがあった気がします。
でも、ぼくと伊丹さんは結局、すべて打ちとけた話はできなかったのです。「人間は」「世の中は」「世界は」という話はできたけれども、もう一歩先の「伊丹十三は」「浅井慎平は」というところまでは行けなかった。伊丹さんの性格からして、どうしてもそうなれなかったのだと思います。
しかし、伊丹さんがその代わりにしてみせたのではないかと思うことがあります。
それは、伊丹さんがぼくの家に遊びにくるたびにやっていたことで、一つは冷蔵庫を開けること。扉を開けて「ホウ、きょうは○○が入っていますね」なんて言う。もう一つは床に横になって昼寝をすること。いまにして思えば、それは伊丹さんなりの友情の「演出」で、伊丹さんはそういう形によってしか、友情を示せなかったのではないかと思います。
そんなことをしなくてよかったのに―と、それを思い出すと、ぼくは切なくなる。そして、めったに隙を見せなかった伊丹さんという人の人間臭さみたいなものをうっすらと感じて、懐かしくなるのです。」(115-116頁)
切りのいいところまで読んで、駅ビルの「御座候」で母への土産に今川焼き(白餡)を買って帰る。
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蒲田駅西口の駅前広場の上空