5.15(木)
今日は給料日。砂漠にオアシスである。帰宅して妻と小遣いの値上げの交渉をする。給与は全額本人が管理し、毎月一定の生活費を妻に渡している人もいるが、私の場合は、給与は全額妻が管理している銀行口座に振り込まれ、私は妻から毎月一定の小遣いを受け取っている。どちらの形式がよいのかは考え方によるだろう。私の父親は自分で管理する人だった。専業主婦である母親はそのことを不満に思っていて、その不満をよく聞かされていた私は、父親とは違う形式を無意識のうちに選んだのかもしれない。家計は全部妻に任せているので、その意味では楽であるが、小遣いという形で自分の稼いだ金(の一部)を受け取るのは、それが大した額ではないこともあって、情けない気分のときもある。私は酒を飲まず、煙草を吸わず、賭事もせず、女遊びもしない(ということになっている)。しかし、本の購入にお金がかかる。早稲田大学の教員は助手も教授も一律年間40万円の研究費をいただいているが、夏休みの終わる頃には本代であらかた消えてしまう。私は結婚を後悔したことはただの一度もないが、月に一度、給料日だけは、「もしも私が独身であったら・・・・」と仮定法過去で考えてしまうのである。
夜半、「社会学研究9」の講義記録(4)を作成し、アップロードする。
5.16(金)
明日の「社会学基礎講義A」の受講生の1人から「100キロハイク」に参加するので授業を欠席しますとのメールが届く。演習や卒論指導の学生から欠席のメールが届くことはよくあるが、大人数(「社会学基礎講義A」の受講生は180人)の授業では初めての経験である(もちろん私はその学生を知らない)。なんだか新鮮な感動を覚えましたね。しかし、もしこれが新しいスタンダードになったら、大教室での授業の前日のメールは大変なことになるだろう。
5.17(土)
朝、駅に向かう途中、Kさんの奥さんと立ち話をする。彼女は私の小・中学校時代の同級生である。やはり同級生でKさんと仲のよかったTさんの娘さんが今年早稲田の文学部に入ったのよ、という話を聞かされる。へぇ、そうなんだ。実は、やはり同級生で私の親友だったY君の姪ごさんが去年文学部に入って、今年私の授業をとっているんだと話すと、Kさん目を丸くして驚いていた。いや、世間は狭いです。そして、同級生の子供が大学生になるということは、われわれもそういう歳になってしまったということだ。ところで、Kさんとの会話中、私がいささか落ち着かなかったのは、Kさんが私のことを「孝治君」と呼ぶためだった。私、来年50歳になるんですけど・・・・。いや、それでもね、小・中学校時代、私がKさんに「孝治君」と呼ばれていたなら、そのときの呼び方が時間と空間を超えて蘇ったのだと一応の説明はつきますけども、当時、私は「大久保君」と呼ばれていたはずで、「孝治君」なんて同級生の女の子から呼ばれた覚えはないんです。それがなんでいまになって「孝治君」なのかと。今日はたまたま「社会学基礎講義A」で「名前と規範」について話をすることになっていたので、この朝のエピソードをさっそく授業で使わせてもらいました。
夜、「社会学基礎講義A」の講義記録(第3回)を作成し、アップロードする。
5.18(日)
終日、原稿書き。
5.19(月)
今日も、終日、原稿書き。・・・・と2日続けてこれで済ますのは「フィールドノート」の読者(といってもどれほどの方に読まれているのか私には全然わからないのですが)に対して申し訳ないので、ちょっとだけ書きます。原稿書きで机の前に座りきりというのは精神衛生上よくないので、こういうときは、昼食を外に食べにいくことにしている。このとき2つの関門がある。第一の関門は妻であり、第二の関門は同居している母である。妻は私が家にいるので、私のために昼食を作るつもりでいる。したがって、いかに妻の機嫌を損ねないで昼食を食べに出かけるかという問題が生じる。「はい、はい。どうせ私は料理が下手ですよ。」などと拗ねられたりしたら最悪である(世の常として妻は家事をいかに手抜くかを始終考えているくせに夫に手抜きを指摘されると憤慨するのである)。一方、母は嫁がいるのになんで息子は昼食を食べに出かけるのかをいぶかしく思うに違いない。したがって、昼食に出かけるのではなく、ただの散歩に出かけるフリをしなくてはならない。「ウチの嫁は息子に食事も作ってやらない。なんてひどい嫁だこと。」などと誤解されたりしたら最悪である(世の常として姑は嫁の欠点を見つけて吹聴することを生きがいとしている)。2つの関門のうち、妻に関しては、最近になってようやく私の行動様式というかライフスタイルを理解させることに成功したので(長い歳月であった)、「いま、原稿に追われていてね・・・・」というだけで話が通じるが、問題は母である。嫁が作らないなら自分が作ると言い出す人である(それも嬉々として)。であるからして、「ちょっと散歩に出てくる」というだけでは不十分で、食事を済ませてすぐに帰宅しては散歩でないことがばれてしまう。したがって、今日は、近所のラーメン専門店「青葉」で特製中華そばを食べてから、原稿書きで一分一秒が惜しいにもかかわらず、古本屋を1軒と新刊本屋を1軒回ってから帰宅した。数日前の「フィールドノート」で、給料日は独身者が羨ましいというようなことを書いたが、今日のような日も独身者を羨ましく思う。
5.20(火)
芥川龍之介に「子供の病気」という短編がある。2歳になる次男の多加志が急に具合が悪くなって入院したときのことを書いた彼にしては珍しい身辺雑記である。それを読んでいて、次の箇所に目がとまった。「その日は客に会ふ日だつた。客は朝から四人ばかりであつた。自分は客と話しながら、入院の支度を急いでゐる妻や伯母を意識してゐた。」やはり芥川も「面会日」というものを設けていたんだ、と私は思った。その日、たまたま客があったのではない。週の決まった曜日を「面会日」として設定し、面会を希望する人は「面会日」に来てもらうとい方式は、戦前の売文業者(作家や評論家)にとって一般的なものだった。そうしないと集中して仕事ができなかったからであろう。
で、ここからが、今日の本題(?)なのだが、大学の教員にも面会日あるいは面会時間を設定している人がいる。これはアメリカの大学では「オフィスアワー」といって一般的な方式である。私も一度この方式を試みたことがあるのだが、あまり効率的な方式ではないと感じたので、すぐにやめた。第一に、授業の関係でこちらが設定した「オフィスアワー」に来られない学生がいること。第二に、複数の学生が面会に来た場合、一人が終わるまで、他の学生には廊下で待っていてもらわねばならないこと。第三に、「オフィスアワー」として公表している以上、その時間は学生が来ようと来まいと研究室にいないとならないこと。というわけで、現在は、固定した「オフィスアワー」というものは設定せず、面会を希望する学生はメールで申し込んでもらい、日時を相談の上、研究室に来てもらっている(メール上で用件が済んでしまう場合も多い)。しかし、「飛び込みの面会お断り」というこの方法を窮屈なもの、敷居の高いものと感じる学生はいるようで、先日もある学生から、事前の申し込みなしでは面会してもらえない理由は次のうちどれですか、「1.研究室にいるからといって時間が取れるとは限らない」、「2.忙しくても断りにくい」、「3.学生はそんなに簡単に教授に面会できるものではない」・・・・、とメールで質問されて苦笑した。社会学者の清水幾太郎が、若い頃、「面会日」を設定したら「大家ぶりやがって」という風評が立ったという話を自伝の中で書いていたのを思い出した。
5.21(水)
演習の学生たちと話をしていたら、一人の男子学生が盛んに「アツイ」という言葉を使う。たとえば、私が彼らの求めているようなデータの載っている本を紹介すると、「あっ、それ、アツイです」と言う。「いやそんなに厚い本ではないよ」というと、「あっ、先生、うまい」と言われた。どうやら「アツイ」は「熱い」で、「ベリー・グッド」の意味らしい。私も「アツイ」という言葉は使うことがあるが、それはたとえば、将棋を指していてライバルに連敗したときなどに、「アツイ」と言う。つまり、「頭に血がのぼる」という意味である。昔、「煮詰まる」という表現を「そろそろ結論を出す段階に来た」という意味ではなく、「行き詰って膠着状態になる」という意味で使う人がいることを知ったとき以来の驚きであった。
夜、「社会学研究9」の講義記録(第5回)を作成し、アップロードする。
5.22(木)
いま23日の午前6時になるところ。徹夜でどうにか原稿を1本書き上げる。ふぅ、やれやれ。・・・・でも、まだ3本原稿残っている。今日は午後から大学院の演習と、アドバイザーをしている二文の学生との面談があって、夜は私の調査実習ゼミの一期生たち(そろそろ30歳になろうとしている)との飲み会がある。とりあえず、少し寝ます。ああ、そうそう、昨日の二文の基礎演習では面白いことがあった。対人関係をテーマにしたグループ発表だったのだが、質疑応答のとき、一人の男子学生が「僕は実は32歳で・・・・」と一種のカミングアウトを行ったのだ。彼は現役か一浪といっても十分通用する容貌の持ち主で、私も、他の学生たちもそうだと思い込んでいたので、教室全体が「エッー!」という感じで驚いた。彼は新歓コンパに出たとき、20歳の「先輩」から「大学の4年間なんてあっと言う間だから、しっかり勉強しろよ」と説教されたそうで、そのときのなんとも言えない気持ちを切々と語るのだが、それがなんとも可笑しくて、教室中に何度も爆笑が起こった。しかし、彼の場合ほど極端ではないにしろ、年齢と学年の「ねじれ」という現象は二文では日常茶飯で、コミュニケーション場面で年齢の上下を優先するか、学年の上下を優先するか(具体的には相手を何と呼ぶか)でけっこうみんな苦労している。私は放送大学で教師をしていたから、自分より年齢が上の学生なんて珍しくもなんともないので、そこでは私は学生のことは全員「さん」付けで呼んでいましたね。・・・・さあ、本当にもう寝よう。
5.23(金)
本日の大学院の演習(近現代日本における「人生の物語」の生成)は小津安二郎の「一人息子」の鑑賞会。私が所有しているビデオテープを社会学演習室のテレビで観る。映画を観るときは、お煎(餅)にキャラメル、あるいはコーラとポテトチップと昔から決まっている。大学に来る途中、コンビニで草加煎餅、森永のミルクキャラメル、カルビーのポテトチップス(塩味)、ペプシコーラ(新発売のレモンツイスト)、ウーロン茶を購入。それらを演習室に持参する。映画は難しい顔をして観るものではない。
夜、高田馬場の「土風炉」で、「大久保ゼミ」(社会学専修では3年次の調査実習のクラスを「○○ゼミ」と呼ぶ慣習がある)一期生である卒業生6人と会食。研究者が2名、地方公務員が2名、NGO・NPOの職員が2名で、いわゆる普通の会社勤めをしている人が今日は一人もいない。全員、30歳前後という人生の時期にあるが、直面している人生の局面はさまざまである。I市役所に勤めるS君は、独身で、ずっと同じ部署で働いている。K市役所に勤めるK君は、すでに一児の父親で、いまの職場は4つ目で、さならる転職を模索中である。N大学で非常勤講師をしているT君は大学院の指導教官との関係がうまくいっていない。J女子大学で非常勤講師をしているH君は女子学生の魅力に屈することなくクールに授業を進めている。ホロコースト教育関連のNPOで働いているNさんは去年父親を亡し、今年結婚したが、大学の助手をしている夫の就職問題が心配だ。環境問題のNGOで働いているIさんは組織の中での自分の役割について思案することが多い。一次会の後、「ルノアール」で閉店の11時までお喋りを続けた。そして、東西線、西武新宿線、山手線内回り、山手線外回り、それぞれの電車に乗って各自の場所に帰っていった。
5.24(土)
歳を取ると、運動をした筋肉の痛みが翌日、翌々日と遅れてやってくる。それと同じことだろうか、一昨日の徹夜の疲れが今日になって出た。1限の「社会学基礎講義A」は歩きながら喋り、喋りながら板書をする授業なのでウトウトしている余裕はないが、その後の卒論ゼミでは学生の報告を聴きながら眠気と闘った。午後2時からの博士論文研究会は、予定されていた報告者が都合で2人から1人に変更になったこともあって、早めに終わったからよかったものの、夕方まで続いていたら絶対に途中で居眠りをしていたであろう。
「ヤマノヰ本店」で古本を2冊、文学部生協店で新刊本を5冊購入。
(1)本田喜代治『コント研究』(芝書店)
昭和10年の出版。清水幾太郎が東大文学部社会学科の卒論(昭和6年)のテーマにオーギュスト・コントを選んだときのことを振り返って、自分だけが時代に見捨てられたコントの著作を研究するのだということが、一種の高揚感を彼に与えていたと自伝の中で述べている。しかし、実は、コントを研究していたのは清水だけではなかった。田辺寿利は『フランス社会学史研究』(昭和6年)の中でコントを論じていたし、新明正道も『オーギュスト・コント』(昭和10年)を、本田喜代治も本書を出版していた。清水はマルクス主義の言語でコントの学説を切って捨てたが、本田はコントの「人と思想」を丁寧に扱っている。後年(昭和53年)、清水が『オーギュスト・コント』(岩波新書)でコントの「人と思想」を共感をもって論じたのには、コントを大根でもスッパリ切るように扱ってしまったことへの悔恨のせいに違いない。
(2)宝月誠『逸脱論の研究』(恒星社厚生閣)
「社会学基礎講義A」で何回か先に逸脱論について話す予定なので、その参考資料として。
(3)『村上春樹全作品1990~2000 4 ねじまき鳥クロニクル1』(講談社)
例によって著者自身による「解題」を読むために購入。彼は「総合小説」(たとえば『カラマーゾフの兄弟』みたいな)を書くことを作家としての人生の最終的な目標としているらしい。そのために初期のクールな都会小説的作品を自己模倣することを、この作品の頃から意識的に避けて、彼自身の限界を外に押しやる努力をし始めたのである。
(4)伊藤氏貴『告白の文学』(鳥影社)
著者は第一文学部の文芸専修の出身で、現在35歳。日大芸術学部の講師。昨年度の『群像』新人文学賞(評論部門)を受賞している。この作品は5年前の彼の博士論文で、森鴎外『舞姫』から三島由紀夫『仮面の告白』までを、近代の行為である「告白」という視点から論じたもの。「あとがき」に指導教授の名をあげて感謝している箇所があるが、なんとその名前に誤植があったようで、上から修正の紙が張られているのがご愛嬌である。誤植を発見したときはさぞかし飛び上がったことであろう。
(5)西川祐子『借家と持ち家の文学史』(三省堂)
「近代日本文学の歴史とは、自分の身の置き場所を求めて、引っ越しや移築をたえずくりかえす物語だった」というユニークな視点から、島崎藤村『家』から小島信夫『うるわしき日々』までの日本文学を論じたもの。確かに市井の人々の人生の課題の1つは自宅をどうするかですよね。まぁ、私自身は2年前に自宅を新築して、さしあたりこの課題はクリアーしたつもりですけどね。
(6)佐藤泉『漱石 片付かない〈近代〉』(NHKライブラリー)
いま電車の中で夏目房之介『漱石の孫』(実業之日本社)を読んでいるのだが、超有名人の子供や孫って大変だよね。ああ、よかった、大久保利通のひ孫じゃなくて。
(7)『岩波講座 文学3 物語から小説へ』
こういう講座ものは岩波書店と東大出版会の得意とする商売である。しかし、いいなりになって機械的に全巻購入するつもりはもちろんありませんからね。
5.25(日)
正午まで寝ている。次回の大学院の演習の課題文献である、御厨貴「軽井沢はハイカルチャーか」と園田英弘「近代日本の文化と中産階級」に目を通す(『近代日本文化論』の3巻と5巻に所収)。
「軽井沢で避暑」は長く庶民の憧れのライフスタイルであったし、いまもそうかもしれない(その意味で、最近、早稲田大学が「追分セミナーハウス」を「軽井沢セミナーハウス」と改称したのは、早稲田大学の庶民性を如実に示した行為であるといえよう)。御厨のエッセーは、その「軽井沢で避暑」を実践していた5人の人物、馬場恒吾(ジャーナリスト)、鳩山一郎(政治家)、朝吹登水子(翻訳家)、白州次郎(カントリー・ジェントルマン)、玉村豊男(エッセイスト)を取り上げて、彼らが軽井沢に見出したハイカルチャーは、彼らが自分の思い(人生)を軽井沢という場所に託したという意味において、バーチャルカルチャーでもあったことを論じたもの。ところで、庶民の軽井沢への憧れを加熱したものとして必ず言及されるのは、皇太子明仁と正田美智子の「テニスコートの恋」(昭和33年)であるが、もう一つ忘れてはならないのは、堀辰雄の小説『風たちぬ』(昭和12年)である。今週の通勤電車の読書はこれに決定。
一方、園田の論文は、村上泰亮が『新中間大衆の時代』(1984年)において、高度経済成長以降に中流階級が「溶解」し、「新中間大衆」が出現したと指摘したとき、戦前期には「山の手階級」のような確固とした中流階級が存在していたことを疑っていなかったことを問題にし、「新中間大衆」の歴史的前身は中流階級というより、階級としての構造化の弱かった上流・中流エリートであり、日本がいち早く「大衆化」に向かう素地は戦前期の中流階級の「階級的弱さ」にあったことを論じたもの。とりわけ『華族家庭録』(1936年)という資料を使って華族がいかに有閑階級ではなかったかを証明し、上流階級が確固として存在していない社会的条件の下では中流階級全体の望ましさの規範を代表する「アッパー・ミドルクラス」(上層の中流階級)が成立しにくいことを論じた下りは興味深かった。
頭を使う読書の後には、お気に入りの作家の文章を読むのがいい。嵐山光三郎編『山口瞳「男性自身」傑作選熟年編』(新潮文庫)の中の数編を、飼い猫と一緒に寝転びながら読む。山口瞳が死んでから今年で8年目になる。
5.26(月)
今日も正午まで(正確には12時半まで)寝ている。とくに外出する用事のない日曜と月曜は髭を剃らないことが多い。洗面所の鏡を見ると、かなりむさ苦しい顔になっている。私の顔はいわゆる「醤油顔」ではない。色も黒い(地が黒いのではなく、日焼けしやすいのである。夏の海水浴と冬のスキー、そして日々の散歩で、日焼けの引く間がないのである)。視力は良好でメガネは掛けていない。ただでさえインテリには見えないが、今日のように無精髭を生やしていると、路上の生活保護の必要な人のように見える。夕方、無精髭のまま、ちょっと散歩に出る。本屋で万引きを疑われるといけないので、よく磨いた靴を履き、マリオヴァレンチノのシャツを着て出る。「書林大黒」の100円本のコーナーで神吉拓郎の短編小説集『私生活』(1983年下半期の直木賞受賞作)を購入し、「シャノアール」に入って冒頭の数編を読む。ウェイトレスに珈琲を注文するときの口調や、読書の姿勢が紳士らしくあるように気をつける。無精髭も楽じゃない。自宅に戻って、書斎のパソコンの前に座っていたら、ちょっと大き目の、しかも長く揺れる地震があった。最近、地震が多いような気がする。
夜、「社会学基礎講義A」の講義記録(第4回)を作成し、アップロードする。
5.27(火)
今日は授業も会議もない日なのだが、二文の基礎演習のグループ発表の相談の予約が入っているので大学へ出る。午後1時から3時までびっしりとやる。その後、遅い昼飯をとりに高田牧舎に行く。一昨日、『山口瞳「男性自身」傑作選熟年編』の嵐山光三郎の「解説」を読んでいたら、山口瞳はオムライスが好きで、「地方旅行をしていて、どこかの食堂で昼食というときに注文する」と書いてあった。実は私もオムライスが好きで、これを読んだときから、オムライスが食べたくなっていたのである(私はたいてい家を出るときからその日の昼食を決めている)。高田牧舎のオムライスはケチャップがかかったオムライスで、私はデミグラスソースのかかったものよりも、どちらかというとこの方が好みである。デミグラスソース自体は好きなのだが、その濃い味にケチャップライスの味が負けてしまうのである。
帰りの電車の中で、堀辰雄の「美しい村」を読む。「風立ちぬ」を読むつもりだったのだが、持参した文庫本(新潮文庫)にこの2編が入っていて、文庫本のタイトルが『風立ちぬ・美しい村』だったので、その順番どおり最初に「風立ちぬ」が置かれているものと勘違いして、読み始めてしばらくしてから「美しい村」であることに気がついた。でも、どちらも軽井沢を舞台にした小説であることに変わりはないので、まあ、いいか、と読むことにした。文庫本の奥付には「昭和四十六年六月十日五十一刷」とある(定価は100円)。昭和46年は1971年である。当時、私は高校2年生で、この本を買ったのはたぶん蒲田駅東口の商店街の中ほどにあった「大和書房」である。まだ堀辰雄は文学少年・少女によく読まれていて、新潮文庫には7冊が入っていた(『風立ちぬ・美しい村』のカバーにそう記されている)。どの文庫本も表紙は難波淳郎という人の明るい風景画であった。おそらく17歳の私は、リリカルなタイトルと表紙に惹かれてこの文庫本を買ったのだと思う。しかし、インターネット(bk1)で調べてみたら、いま新潮文庫で入手できる堀辰雄のものは、『風立ちぬ・美しい村』、『菜穂子・楡の木』、『大和路・信濃路』の3冊だけで、『燃ゆる頬・聖家族』、『かげろう日記・曠野』、『幼年時代・晩夏』、『妻への手紙』の4冊は絶版ないし品切れになっている。関口夏央は『本よみの虫干し』(岩波新書)の中でこう書いている。「一九四〇年代半ばから一九七〇年代半ばに至る堀辰雄の人気は(いまも形骸化して「広告業界」には残るが)、「進歩」への不安を動機とした成長への拒絶感、その無意識の表現ではなかったか、と私はにらんでいる。」なるほどね。とすると、現代の拒食症の少女たちは堀辰雄ファンの文学少女の末裔ということになるかもしれない。老いることも太ることも醜悪なことなのである。
5.28(水)
水曜日の昼食は、たいてい3限の「社会学研究9」が終わった後、文学部横の「メーヤウ」でカリーを食べることが多い。今日もそうだった。しかし、今日はいつものタイ風レッドカリー(辛さを表示する★印2.5個)ではなく、1つ上のインド風ポークカリー(★印3個)を注文してみた。日常生活はマンネリズムとの闘いである。で、そのインド風ポークカリーだが、実に美味しく、そして実に辛い。ライスを普通盛にしたことをすぐに後悔した。辛いのでルーの減るスピードよりご飯が減るスピードの方が速く、最後はルーだけが残ってしまい、その辛いルーをルーだけ飲むことになってしまった。食事中、私はずっと水を飲み続けていた。いつものタイ風レッドカリーの場合は、水を飲めば口の中から辛さは消えるのだが、今日のインド風ポークカリーの場合は、水を飲んでも飲んでも喉のヒリヒリ感が消えないのである。私はそのヒリヒリ感を抱えたまま、研究室に戻って演習のグループ発表の相談に臨んだが、相談を始める前に、学生に断ってキャラメルを一粒舐めた。それでなんとか辛さを中和することができた。
このところ地震が多いせいか、私の研究室に来る学生たちは異口同音に「いま地震が来たら危ないですね」と言って壁を見上げる。書架の本のことを言っているのである。どの教員も同じだろうが、私もとにかく本の置き場所には苦慮していて、備え付けの書架の上に近所の家具屋で買ってきたベニヤ合板のラックを置いて、天井まで本を積み上げている。当然、そこにある本には手が届かないので、研究室には折り畳み式の梯子が置いてあって、それを使って必要な本を取っている。ラックは固定されているわけでないので、大きな地震が来ると落ちてくる可能性はある(ただし一昨日の地震では1冊の本も落ちなかった)。だから、研究室のテーブルで学生と話をするときには、「そこの席は一番危ないよ」とまず注意を促してから本題に入ることにしている。そうすると学生はあまり長っ尻をしないで、帰っていく。
夜、本日の「社会学研究9」の講義記録を作成し、アップロードする。
5.29(木)
私は前期、講義を2つと、演習を4つもっている。講義の準備は時間がかかる。1週間前から頭の中で次回の授業の組み立てをあれこれ考え、授業の前日、3時間ほどかけて講義ノートと講義資料を準備し、話が授業時間内に終わるよう、時間配分を考えつつ頭の中で講義のシュミレーションをする(このシュミレーションは当日の朝の電車の中まで続く)。そして授業の後は、できるだけその日のうちに、講義記録を作成してホームページにアップロードする。講義記録の作成に要する時間は3~4時間である。したがって1週間に担当可能な講義は3つが上限である(3科目×2日=6日)。また2つでも、同じ日に2つは無理で、2日続けてというのも難しい(1つの講義記録の作成ともう1つの講義の準備を同じ日にしなくてはならないから)。実際の私の講義の担当日は水曜と土曜なのでこの点は問題ない。一方、演習は基本的に学生の発表を軸に展開し、教師は聴き手とコメンテーター(および準備段階における助言者)を演じればよいので、楽といえば楽である。しかし、授業運営という点では演習の方がずっと難しい。講義は一から十まで自分の独断でできるが、演習は教師と学生との共同制作である。笛吹けど踊らずと教師が歯ぎしりすることもあれば、逆に学生のやる気に教師が水を注してしまうこともある。昨日は一文の社会学調査実習があり、今日は二文の基礎演習があった。明日は大学院の演習があり、明後日は一文の卒論演習がある(二文の卒論指導は月に1度)。どの演習もまずまずではあるが、どれもまだ軌道に乗ったとはいえない。一文の社会学調査実習は先にいくほど作業が大変になることが目に見えているので、この時期は少し抑え目のテンションでちょうどよいのだが、与えられた課題を無難にこなしているだけでは調査員にはなれても研究員にはなれない。25人の中から何人の研究員が生まれるだろうか(育てることができるだろうか)。二文の基礎演習は出席状況が良好なのは感心だが、発表する学生の頑張りに比べると、聴き手の学生がいまひとつ消極的である(聴き方にも積極的と消極的があるのだ)。せっかく出席しているのだから臆せず発言してほしい。大学院の演習は和気藹々なのはよろしいが、プロの研究者をめざす人はもっと研究というものを楽しまなくてはいけない。手間隙かけて楽しんでほしい。一文の卒論演習は「就活」を発表の準備不足の言い訳にすることを恥じていない人が多いのが気になる。そういう言い訳を聞かされていると、二文と同じように卒論は選択にした方がいいのではないかと思ってしまう。それでも、本気で取り組んでいる人が何人かはいるので、いずれ他の人に影響が及ぶはずであると経験上楽観的に構えてはいますけどね。
今日もメーヤウで昨日と同じインド風ポークカリーを食べた(ただし今日は夕食)。実に美味しい。しかし、驚いたことに、早くも私の体はその辛さに適応しているのである。昨日は辛さと戦いながら食べたような感じだったが、今日は辛さと友だちになれた気がした。この調子で進化していったら、そのうちスーパーサイヤ人にだってなれそうな気がする。
5.30(金)
コピーを取りに近所のコンビニに行ったら、ちょうど買物に来ていたクリーニング屋さんのおばさん(といっても息子さんが私の小学校の同級生だから80歳近い)に「あら、孝治ちゃん、今日はお休み?」と声をかけられた。先日、ご近所の奥さん(小学校時代の同級生)に「孝治君」と声をかけられたばかりで、ようやくその「孝治君」ショックから立ち直りかけていた矢先に、今度は「孝治ちゃん」である。思わずいまの一言を誰かに聞かれやしなかったかと周囲を見回してしまった。いくらなんでも「孝治ちゃん」はないでしょう。どうやら私の住む地域社会の時計は40年前に止まってしまったらしい。
今日の大学院の演習のテーマの1つは「軽井沢」というハイカルチャーだったが、私は自宅の書庫から高校2年生のときに買った『立原道造詩集』(角川文庫)を持参した(裏表紙の隅に「17才秋」と記してある)。堀辰雄が「高原の小説家」とすれば、立原道造は「高原の詩人」である。高校生だった私は彼の詩のいくつかを諳んじていた。詩を諳んじるという行為は当時の文学少年・少女の間では一般的な行為であったが、演習の学生に尋ねたところ、いまではそれはもう死滅した行為らしいことがわかった。教育とは文化の伝達である。私は『立原道造詩集』の中から「黄昏に」という一篇を朗読して聴かせた。
すべては 徒労だった と
告げる光の中で 私は また
おまへの名を 言はねばならない
たそがれに
信じられたものは 美しかつた
だが傷ついた いくつかの
風景 それらは すでに
とほくに のこされるばかりだらう
私は 身を 木の幹にもたせてゐる
おまへは だまつて 背を向けてゐる
夕陽のなかに 鳩が 飛んでいる
私らは 別れよう・・・・別れることが
私らの めぐりあいであつた あの日のやうに
いまも また雲が空の高くを ながれてゐる
高校生だった私は、下校途中の目蒲線の車内で、窓に映る夕陽を見つめながら、「すべては徒労だった・・・・」で始まるこの詩を小さな声で諳んじた。もちろんそのときの私には別れを考えるべき相手などいなかった。文学少年とは恋愛をする前に失恋の詩を読んでしまう人間である。
5.31(土)
今日で定年退職される一文の柏原事務長の送別会に出席。柏原さんが事務長を勤められた4年間は、私が二文の学生担当教務主任をしていた2年間と重なっている。面と向かっては「柏原さん」「事務長」と呼んでいたが、心の中では「おやじさん」であった。映画『冬の華』で加納秀二(高倉健)が坂田良吉(藤田進)を「おやじさん」と呼ぶ、あの「おやじさん」である。18歳で職員になって、以来42年間、早稲田大学一筋のたたき上げの職業人であった。お世話になりました。いつかまたどこかでお会いできる日まで、お元気で。
本日の「社会学基礎講義A」の講義記録(第5回)を作成し、アップロードする。