8時半、起床。
サラダ(+ソーセージ)、牛乳、紅茶、パウンドケーキの朝食。昨日に続いてパンを切らしているので、パンがないならないでいいかと、その代わり、パウンドケーキを食べる。「パンがないならケーキを食べればいいのに」と言ったマリー・アントワネットのように。
使っている箸置きは卒業生のユカさん(論系ゼミ4期生)からいただいたものだが、その彼女が今度の土曜日に結婚式をあげる。私はそれに出席するため神戸に行く。祝辞を頼まれているが、それは前日(明日)考える。これまで祝辞で大きな失敗をしたことはないが、だからと言って油断はできない。たまに祝辞の最中に新郎新婦の名前を忘れてしまう夢を見る。これは怖い。新郎の名前は馴染みがないので、ちゃんと確認するのでかえって忘れないが(今回はノリヒロさんだ)、新婦の名前はど忘れする恐れがある。忘れないまでも、ユカさんだったよね、いや、ユウカさんだったっけ、と漢字の読みに自信がなくなくかもしれない。ユカ、ユカ、ユカ。ユカタン半島のユカだ。いや、こういう連想をしていると、うっかり「新婦ユカタンは・・・」と言ってしまうかもしれない(まさかね)。
昼前に家を出て大学へ。
今日は鞄にデジカメとスマホを入れるのを忘れる。最初、別の鞄で行くつもりで、そちらの方に入れておいて、移すのを忘れてしまったのだ。普通、両方を同時に忘れることはなく、デジカメを忘れたときはスマホのカメラで写真を撮るのだが、今日はそれもできない。
3限は大学院の演習。比屋根照夫「大田昌秀ー原点としての沖縄選」と、野上元「水木しげるーある帰還兵士の経験」を取り上げる。戦争体験というのは男女によって、老人・壮年・青年・子どもかによって、いた場所によって多様だが、前線で生死の境をさまよった(そして帰還した)兵士の経験はもっとも鮮烈なものである。今日の二人は沖縄とラバウルでそういう経験をした。戦争体験を語る兵士は生き残った兵士である。生き残ったことは必ずしも手放しでは喜べない。「生き残ってしまった」のである。それも「たまたま」である。「たまたま生き残ってしまった」者が戦争体験をどう語るか、そして戦後の生をどう語るか、そこにはいくつかの共通項が見られるように思う。そしてそれが戦後(復興期および高度成長期)日本のエートス(時代精神)の核を形成しているように思う。
演習を終えて、昼食は研究室で崎陽軒の赤飯弁当(写真に撮ってあげられなくてごめんね)。
4限の空き時間を使ってI君の修士論文の相談。
5限は講義「日常生活の社会学」。ここ数回は、「性別」「年齢」「名前」という人が他者や自分自身を認識(定義)するときの主要な概念を取り上げて、その規範性について考察している。
7時半過ぎに帰宅。
夕食はハヤシライス、サラダ(+ゆで卵)。
カレーライスのときは牛乳を飲むが、ハヤシライスのときは麦茶だ。甘味のあるルーには苦味のある麦茶が合う。
今日は木曜日。いつも夕食をとりながら『プレバト』(録画)の俳句コーナーを観るのを楽しみしているのだが、今日は『プレバト』はお休みだ。がっかり。特番で時間を拡大してくれるのはいいが、その反動(?)でお休みの週ができてしまっては元も子もない。以前に録画して見ていなかった『名古屋行き最終列車』の藤野涼子が主演の回(今年の3月20に放送)を観る。ハートウォーミングないいドラマだった。藤野涼子は『ひよっこ』の乙女寮のメンバーの一人である(一人で工場に立てこもって工場閉鎖に反対した子だ)。あのときのメンバーがその後こうして活躍してくれている姿を観ると嬉しくなる。頑張ってるなと思う。
2時、就寝。