9.16(金)
午後、ジムへ。ランニングマシンの速度を時速8キロから9キロに上げてみる。たった1キロの違いなのに、けっこうきつい。でも時速8キロも最初はきつかったのだ。何回か走れば慣れてくるはずだ。ジムからの帰り道、街の風がひんやりしている。長袖シャツでもいいくらい。もう秋なんだ。
インターネットで「清水幾太郎」を検索していたら古本屋ヤマノヰ本店のサイトに行き当たる。私がよくチェーシューメンを食べる「メルシー」の側にある教育関係の本を専門に扱っている古本屋で、主人はかなり高齢の方だ。「店主の思い出話」というコーナーがあって、読んでみると、「お客様にも大変恵まれとても可愛がって頂きました。特に清水幾太郎先生とは疎開の荷物をリヤカーで五日市までご一緒に運んだこと。私の家が空襲で焼失したとき先生ご夫婦のお部屋に1週間泊めていただいた思い出は一生忘れられません」と書かれていたからびっくりした。あのリヤカーを引いたのがこの人だったのか! どうしていままで気づかなかったのか。私はすぐに本棚から清水の最初の自伝『私の読書と人生』(1949年)を引っぱり出してその箇所を開いた。滑稽かつ悲哀に満ちたエピソードである(長めの引用になるが興味のある方だけ読んで下さい)。
山野井武蔵が自分の家財も一緒に預かつて貰ふといふ條件で、その運搬を引受けてくれた。その朝、山野井は私の家へやつて来た。正直のところ、私も彼も、どういふ訳か、五日市といふ土地が吉祥寺の近くであるやうに思ひ込んでゐた。地図も見ずに、吉祥寺に着いたら、その辺で聞いて見ようと呑気に考へてゐた。梅が咲いてゐる頃であつた。荷物はリヤカーに積み込んだ。八十貫はあると言ふ。山野井は、先生は荷物の上に寝ころんで、四辺の景色を眺めてゐて下さい、久振りでのんびりしませう、と言ふ。私も、今日は楽しい一日だ、と考へた。更に山野井は言ふ。常盤台から一直線に荻窪へ出れば、近いことは確かに近いが、非常に道が悪い、あまり揺れては、先生も寝ころんでゐられないでせうから、一旦池袋まで出て、新宿から甲州街道を行きませう、立派な舗装道路だから揺れません。私は一々頷いた。私の家から川越街道までは道が悪いので、山野井は、私にリヤカーの後を押してくれ、と頼む。私は喜んで押した。川越街道へ出た。先生、済みませんが、少し調子が出るまで押して下さい、と再び山野井は言ふ。私は押した。併し調子はなかなか出ない、何しろ八十貫。山野井がペダルを踏んでも、自転車は動かぬ。彼は自転車を下りて、丁度荷車を引くやうに、ハンドルを押して歩いてゐる。調子が出ないうちに、私たちは到頭池袋まで来てしまつた。私はもうヘトヘトである。家を出てから二時間近く経つてゐる。併し今更家へ戻る訳にも行かぬ。私たちは漸く新宿に出て、それから都電の線路に沿って荻窪へ出た。方々で建物の強制疎開が行はれてゐる。若い将校が何人かの兵隊を指揮して、まだ家財道具が完全に運び去られてゐない家の柱にロープを結びつけ、大勢でこれを引つばつて、家を倒すのである。家族は手に土瓶などを持つたまま、自分の家が傾き、そして崩れて行くのをボンヤリと見てゐる。ロープを引くと、屋根の瓦が雨のやうに落ちる。壁が壊れて、一面の土煙が上る。私達は土煙にむせた。むせながら、私は自棄になつて、リヤカーを押してゐた。荻窪駅に近い道傍で昼飯を食べた。やがてその近くに五日市があるはずの吉祥寺へ来た。「五日市街道に至る」といふ矢印が立つてゐる。だが誰に聞いて見る必要もなかつた。町角の里程標は、五日市が遠い遠い彼方にあることを示してゐる。それは、私たちが今まで歩いて来た道より遙かに遠いのである。私と山野井とは里程標の傍に坐り込んで、黙つてしまつた。夕方までに帰宅するつもりであつたから、弁当も昼の分しか持つて来なかつたし、それはもう食べてしまつた。夕暮は眼の前に迫つてゐる。併し私たちはやはり行くことにした。私は荷物の上に寝ころんで、景色を眺めてゐる予定であつたが、実は汗を流してリヤカーを押し続けてゐる。立川の手前で自転車がパンクした。自転車屋で修理をして貰ひ、序に頼み込んで握飯にありついた頃、完全に夜になつてしまつた。自転車屋は、五日市に着いたら夜が明けるでせう、と言ふ。私たちはまた歩き出した。私も黙つてゐる。山野井も黙つてゐる。二人とも懸命になつてリヤカーを押した。竹薮の間を通つてゐる時、空襲警報が鳴つた。間もなく頭の上をアメリカの飛行機が飛んで行く。私たちは待避する気にもならず、そのままリヤカーに取りついてゐた。やがて東京の空が眞赤になつた。東京が燃えてゐる。私が自分の家族を気づかつたのと同様に、山野井も彼の家族を気づかつたであらう。併し二人とも怒つたやうに黙りこくつてゐた。坂を上つたり、橋を渡つたりした。眞夜中の町を通る時は、生きた人間が住んでゐるとは思はれぬ気味の悪さを感じた。
つひに私達は五日市の駅の前に到着した。十二時を過ぎてゐる。人影のない駅の建物は夢のやうに見える。私も夢の中にゐるやうな気持である。山野井は急に気が緩んだに違ひない。道路に寝てしまつた。細い声で「先生、もう駄目です。」と言ふ。「あちらの人を連れて来て、荷物と僕を運んで下さい。」と言ふ。あちらの人、とは目指す農家のことだが、私は略図を書いた紙片を持つてゐるだけで、五日市に着いたら、その辺で尋ねて見ようと考へてゐたのである。併し眞夜中で、尋ねる家はない。月が出てゐないので、紙片を見ることも出来ぬ。私は、家を出発する時に見た略図を思ひ浮べながら、リヤカーと山野井とを道路に残して、ひとり歩き出した。気を張つてゐても、思はずよろめく。谷川の音が聞えて来る。梅の香が漂つて来る。私は花兄といふ言葉を意味もなく思ひ出した。何軒かの家の戸を叩いて見たが、物騒と思つて、相手にしてくれぬ。それでも、最後に戸を開けてくれた家で教へられた通りに、私は川に沿つて道を上り、危い橋を波り、それから丘の中腹にある農家まで、どうして行き着いたのか、今でははつきりと記憶してゐない。ただがむしやらに突進したのだ。目的の農家は探し当てた。併し仕事はまだ半分しか片づいてゐない。荷物を積んだリヤカーと道に倒れてゐる山野井とがある。私は頼み込んで人手を借り、また駅の近くまで引き返した。山野井は道傍に高く積んだ藁の山に寄りかかつて寝てゐた。私たちが農家に荷物を運び込んだのは三時。半鐘が鳴り始めた。空襲警報である。東京の空はまだ赤い。そのうち一層赤くなつた。東京は燃えてゐる。
「山野井武蔵」。そうフルネームでしっかり書かれているではないか。ヤマノヰ本店では何冊か本を買っていて、一番値が張ったのは『学制百年史』(文部省)であったと思う。店主とは何度か言葉を交わしてもいる。あの人が山野井武蔵だったとは・・・・。今度行ったときにお話を聞かせてもらうことにしよう。
9.17(土)
96票対94票(無効2)。民主党代表選挙でメディアの予想を覆して前原誠二(43歳)が菅直人(58歳)を破って新代表に選ばれた。トニー・ブレアが労働党の党首になったのは41歳のときで、労働党はそれから3年後、1997年の選挙でジョン・メージャー(54歳)率いる保守党に勝利し、政権を奪った。ギデンズはこう分析する(ギデンズは労働党の政策立案に深く関わっており、ブレア首相のブレインの一人である)。
労働党はトニー・ブレア党首を、若々しい行動力のある改革志向の人物というイメージでうまく売り込んだ。それにたいして保守党は、不正取り引き疑惑に苦しみ、保守党の内部もヨーロッパにおける英国の役割といった重大な争点をめぐって意見が分裂しているように思えた。ジョン・メージャーとトニー・ブレアに関する新聞報道の分析は、注目がふたりの政治家としての力量よりも、むしろパーソナリティに集まったことを示している。このことは、ジョン・メージャーに不利に働いた。メージャーは、一方で正直で勇敢な人物として頻繁に描写されたが、指導者として手際が悪く不適任であると厳しく非難された。それにたいして、ブレアの支持者も非支持者も、ブレアを、情熱的で意思強固な人物とみなした。それまで選挙で保守党の主張や政治家を支持してきた新聞も、一九九七年の選挙ではむしろ労働党を応援した。
党首のイメージが選挙においていかに重要であるかは今回の衆議院選挙でも明らかである。「ジャニーズ系新代表前原は苦学の元高校球児」(読売新聞)。「民主党:前原新代表、高校では野球部の投手」(毎日新聞)。メディアの紹介の仕方も好意的である。東スポ的に言えば、「元投手」が「新党首」になったのである。前原を代表に選んだことで民主党は土俵際でかろうじて踏みとどまったとみるべきだろう。小泉首相の後継者候補は一番若い安倍晋三でも50歳である。4年後の衆議院選挙のときまで前原が民主党代表を続けることができたら、いい勝負になるかもしれない。
夜、『女王の教室』の最終回を観る。昨日は『ドラゴン桜』の最終回だった。週末の楽しみだった2本のTVドラマが終わってしまった。夏も終わってしまった。
9.18(日)
朝起きてすぐに机に向かい論文Cの執筆。丸一日を執筆に当てられる日は今日を含めて7日である。貴重な1日なのだ。少し書いてから朝食(ホタテのバター焼き、大根の味噌汁、ごはん)。再び机に向かう。今日は妻は友人と銀座に行っているので、昼食は自分でベーコンエッグを作る。ちょうどいい焼き加減。醤油で食べる。自分で作って食べることの利点は、食べたくなったときに食べることができるということだ。食器とフライパンを洗って、また机に向かう。今日は快晴らしいが、一歩も外に出ていないのでわからない。気分転換に近所のコンビニにアイスクリームと『TVガイド』を買いに出る。ほんとだ、いい天気だ。『TVガイド』を買ったのは秋のドラマをチェックするためだ。期待度第一位は、日本テレビ・水曜10時の「あいのうた」(脚本:岡田恵和、出演:菅野美穂、玉置浩二、小日向文世、和久井映見ほか)。岡田恵和の脚本で、玉置浩二が8年ぶりのドラマ出演となれば、期待しないわけにはいかない。第二位は、TBSテレビ・木曜10時の「今夜ひとりのベッドで」(脚本:龍居由佳里、出演:本木雅弘、瀬戸朝香、佐々木蔵之介、羽田美智子ほか)。本木雅弘は独特の存在感のある俳優である。彼が入ると演劇空間がひきしまる感じがする。第三位は、日本テレビ・土曜9時の「野ぶた。をプロデュース」(脚本:木皿泉、出演:山下智久、桐谷修二、堀北真希ほか)。なんだか内容のよくわかなないドラマだが、「女王の教室」の岩本仁志の演出に期待。ドラマではなく、特番だが、9月27日(火)の「踊る踊る踊る!さんま御殿!!史上最強3時間夢の共演スペシャル!!」に島田紳助率いる「行列のできる法律相談所」の面々が出演する。さんまと紳助のトーク合戦はさぞかし見物だろう。風呂、夕食(ステーキ、パスタのスープ、アボガドとトマトとレタスのサラダ、ごはん)、執筆。深夜、執筆の合間にベランダに出て、月を眺める。今夜は中秋の名月。びっくりするほど明るい。
9.19(月)
大学院の修士課程の入学試験。採点のため午後から大学へ出る。社会学専攻の受験生は昨年に続いて今年もやや少なめか。私が受験したときは70数名もいて、受験会場で、「この人たち、みんな社会学を受けるの?!」とびっくりした記憶がある。当時は今よりも卒業後の人生の選択肢が少なかったのだろうか、あるいは不況だったのだろうか、それとも学者的生活に魅力があったのだろうか・・・・。大学院に進んだからといって大学に職を得られるかどうかはわからないという状況は今も昔もそれほど変わらない。不確かな将来を承知で大学院へ進もうと思う者が昔はけっこういて、今は少ないということだろう。人生設計が堅実になったということだが、それは諸々の社会制度が不安定になっていることの反映だろう。夕方から、委員になって最初のカリキュラム委員会。4時間近くかかる。思った通りかなりのエネルギーを必要とする委員会だ。安藤先生と「紅閣」で食事をして帰る。昨日の中秋の名月が今日はいくらか歪んでいる。
9.20(火)
午後、ジム。筋トレ50分、有酸素運動60分。帰り道、花屋に寄って両親に贈る花束を作ってもらう。一日遅れの敬老の日のプレゼントである。花束を持って店の外に出ると、ちょうど夕方の散歩に出かけるところの両親と出くわした。路上で花束贈呈というわけにもいかないので、「夕食のときにね」と告げてその場は別れる。夕食は鉄板焼肉。しばらく焼肉を食べる機会がなかったので(昨日は焼き肉屋「紅閣」で夕食を食べたのだが、焼肉ではなく、私はカルビうどん、安藤先生はユッケビビンバを注文した)、牛タンが店頭から消えているということを、今夜、妻の報告で初めて知った。で、今夜のメニューは、カルビ、ロース、レバー、そして豚タン。豚タンて小さいんだね。ただでさえ小さいのに焼くとさらに縮んで、情けないというか、いじましいというか・・・・。考えてみると、日本人は牛タン(タン塩)が大好きだが、舌という部位は牛一頭から少量しかとれないわけだから、あれだけ消費していれば、そしてこれだけ米国からの輸入制限が続いていれば、不足しないほうがどうかしている。品種改良して二枚舌の和牛でも作るしかないのだろうか。
話は変わるが、昨日、安藤先生と帰りの地下鉄の中で話をしていて、私が本に書き込みをするタイプなのに対し、彼は付箋を貼るタイプであることがわかった。本に書き込みをすることと付箋を貼ることは必ずしも相互排他的な行為ではないが、実際には、書き込み派と付箋派に分かれるように思う(前者はさらにシャープペン派とボールペン派に分かれる。私はシャープペン派である)。書き込みの利点は本と筆記用具があればよい(付箋という三つ目のアイテムを必要としない)ことである。たまたま筆記用具が手元になくて本に書き込みができないときは、該当するページの端をちょっと折り曲げて(英語ではこれを「犬の耳」と呼ぶ)応急処置とするが、そういうときはめったにない。しかし、付箋派を貫くためにはいつもポケットに付箋を忍ばせておかなくてはならないわけで、必須アイテムが1つ増えればそれだけ不足(不測)の事態が発生する確率は高まるだろう。しかも、私が思うに、付箋派の人は本という「もの」を書き込み派よりも大事に扱う性癖があるので、応急処置としてページの端を折り曲げるという変形行為にはためらいがあるはずである。その結果、手元に付箋がないために、身を入れて本を読むことができないということになりはしないだろうか。一方、付箋の利点は後から本のページをめくって該当箇所を探す手間が省けるということである。書き込みをした箇所を論文で引用しようと思い、しかし、書き込みをした箇所が思い出せず、引用を断念したという経験は書き込み派なら誰でもあるだろう。だからあらかじめ後から引用することがかなりの確率で予想される場合は、別途、ノート(あるいはワープロのファイル)に抜き書きをしておくことになる。問題は抜き書きの基準をどの程度に設定するかである。あまり低いところに設定すると抜き書きの労力が大変である。かといってあまり高いところに設定すると取りこぼしが多くなる。なかなか悩ましいところであるが、私は高めに設定してある。記憶力に自信があるからではなくて、思い出せなかったらそれはそれで仕方がない、元々縁がなかったのだと諦めることにしているのである。書き込み派と付箋派は人生観も違うのかもしれない。淡泊対粘着(付箋だけに)。もっとも本を(資料として)読む習慣のない人から見れば、大同小異、同じ穴のムジナなんでしょうけどね。なお、図書館の本にはもちろん書き込みはできない。だから本は、一般の書店や古本屋で購入可能なものは極力購入して自分の所有にする。入手不可能な場合は、図書館の本をコピーしてそれに書き込みをする。付箋派の人はコピーにも付箋を貼るのだろうか。貼るのだろうね、たんぶ。
9.21(水)
午後、大学病院で定期検診。CTスキャンを受けたところ、1年前に手術で尿管結石を除去したのと同じ場所にまた結石ができていることが判明。いまのところ自覚症状はないのだが、だんだん大きくなるのは確実で、自然に排出されることはまずないので、いずれ手術で除去しなくてはならない。医師と手術の方法と時期について相談し、11月の上旬(その頃なら体育祭や学園祭やらがあるので授業への影響は最小限ですむ)に予約を入れる。石ができやすいのは体質で、したがって持病になりやすいのだが、一昨年の年末に受けた検査手術を入れるとこれで3年連続の手術ということになり、やれやれである。せめてオリンピック並に4年に1回とか、百歩譲って織田裕二が司会をする世界陸上並に2年に1回とか、その程度で勘弁してもらえないものだろうか。浮かない顔をしている私を気の毒に思ったのか、医師は、CTとは別に身体の正面から撮った単純X線写真をみながら、「背骨が真っ直ぐですね。こんなに真っ直ぐな背骨は珍しいです」と感心した口調で言った。人を慰める仕方にもいろいろあるものである。
病院から帰宅し、遅い昼食(挽肉のそぼろ御飯)を食べ、散歩に出る。栄松堂で、村上春樹『東京奇譚集』(新潮社)、林淑美『昭和イデオロギー 思想としての文学』(平凡社)、御厨貴・中村隆英『聞き書き宮沢喜一回顧録』(岩波書店)、三浦展『下流社会 新たな階層集団の出現』(光文社新書)、杉山尚子『行動分析学入門 人の行動の思いがけない理由』(集英社新書)を購入。村上春樹の『東京奇譚集』は雑誌『新潮』に連載した短篇4本と書き下ろしの短篇1本から成る。書き下ろしの1本はもちろんだが、連載の4本のうち2本も未読である。さっそく読み耽りたいところだが、いまは論文Cの執筆が佳境(苦境?)に入っているところなので、そうもいかない。論文の構想についてあれこれ考え、資料を読みあさっている段階なら、論文と関係のない小説を読むことはよい息抜きになるのだが、執筆の真っ最中(〆切まで残り10日!)となると、話は別である。論文の方が気になって小説を心底楽しめないということのほかに、小説の文体が論文に影響する恐れがあるのである。いま書いている論文Cは戦後間もない時期の清水幾太郎を太宰治との関係において論じる評論風のものなので、余計そうなのである。文体への影響といっても、「私は」が「僕は」になるといった類のことではなく、文章(思考)の途中での息継ぎの仕方とか、問題の核心に切り込んでいくタイミングとか、おそらく書いている本人にしかわからないような微妙な部分への影響である。すでに半分近くは書いているので、それが途中から変わっては論文の構造にきしみが生じる。論文を書き終えるまでの我慢である。でも、短篇集だしな、ちょっとくらいならいいかな、とついつい考えてしまうのである。なんで10月1日の刊行にしてくれなかったんだろう。
9.22(木)
午前中に妻と鶯谷にある大久保家の菩提寺の墓参りをすませてから大学へ出る。「五郎八」で昼食(天せいろ)を食べ、目白押しの会議に臨む。社会学の教室会議では来年度の時間割の相談が始まった。教授会はいつものように盛りだくさん。夕方までかかる。さらにその後、新学部の論系・コースの運営準備委員長が出席する全体会にカリキュラム委員としてオブザーバー参加。7時半終了。「メーヤウ」で夕食(インド風ポークカリー)を食べ、あゆみ書房を覗いたら、長谷先生と遭遇。一緒に地下鉄で帰る。「論文Cは書き上がりそうですか」と聞かれたので(このフィールドノートのことはご存じなのである)、「ええ、なんとか」と答えたら、「こっちはまだ2本目で止まっていて・・・・」とぼやかれた。長谷先生は社会学専修主任であると同時に、文化構想学部の論系運営準備委員長の1人でもある。来年度の社会学専修の時間割も考えなくてはならないし、再来年度からの文化構想学部のカリキュラムも考えなくてはならない。かなり消耗されているご様子である。長谷先生の書くものにはある種の狂気が含まれていて、それまでこんなことを考えた人はいないんじゃないかと読み手を興奮させるところが持ち味なのだが、そういうものを書くにはかなりのエネルギーが必要である。大学改革はそれに参画する教員から多くのエネルギーを奪う。それが大学改革の一番のジレンマである。これは現状では夢物語だが、もしすべての教授に1人の有能な助手を付けることができたら、それだけで早稲田大学の教育・研究水準は飛躍的に高まるであろう。9時帰宅。今日は疲れたので、これから論文Cに取り組むことは無理である、という言い訳を自分にしつつ、シャワーを浴びてから、村上春樹『東京奇譚集』所収の一篇「どこであれそれが見つかりそうな場所で」を読む。読了後、基本構想委員会の宿題(明後日まで!)となっているレポートを書いて委員長にメールで送る。
9.23(金)
終日、自宅で論文Cの執筆。清水幾太郎は戦時中、読売新聞の論説委員をしていて、社説を担当していたのだが、終戦後も数ヶ月の間、社説の執筆を続けた。戦中と戦後で社説の文章にどのような変化が見られるのかを確認するため、大学図書館に保管されている読売新聞のマイクロフィルムからコピーした資料に目を通す。字が小さい上に不鮮明ときているので、拡大鏡を使って読んでいると、妻がやってきて、「老眼だと大変ね」と言った。天真爛漫なのか、喧嘩を売っているのか、判然としない。「普通の人でも拡大鏡なしでは読めないと思いますけど」と私が言うと、資料を一枚手に取り、スラスラと声に出して読み始めた。依然として、天真爛漫なのか、喧嘩を売っているのか、判然としない。そうやって一段落ばかり読んでから、「ほらね」と勝ち誇ったような表情で私に資料を返した。どうやら天真爛漫という好意的な解釈は無用のようである。今度同じことをしたら妻の視力と体重をここに記すことにする。
9.24(土)
論文C、終日机に向かっていたが、思ったほどはかどらず。丸一日使えると思うと、かえってああでもないこうでもないと迷いが生じるのだ。今日負けてもまだ後があると考えて生彩に欠けた相撲を取ってしまった琴欧州のようである。明日は背水の陣(レベル5)で机に向かわねばならない。朝食から昼食までの間にどれだけ書けるかがポイントである。立ち会いの踏み込みが肝心なのだ。
9.25(日)
今日も一日、書斎のパソコンの前に座って論文Cと取り組む。この3日間、髭を剃っていないので、髭面になっている。しかもかなり白いものが混じっている。このままホームレスの集落に移り住んでも違和感がない気がする。夕方、髭面のまま散歩に出る。栄松堂で、清水真木『友情を疑う』(中公新書)、香山リカ『いまどきの「常識」』(岩波新書)、『女王の教室 The Book』(日本テレビ)、ジェリー藤尾・小田豊二『ともあれ、人生は美しい 昭和を生きたジェリー藤尾の真実』(集英社)、『ポール・オースターが朗読するナショナル・ストーリー・プロジェクト』(アルク)を購入。
清水真木(広島大学助教授・哲学)は清水幾太郎の孫である。母親は幾太郎の一人娘礼子(元青山学院大学教授・哲学)。今日の朝刊で本書の広告を見て、忘れないうちに買っておこうと、夕食前のひとときに散歩に出たのである。『友情を疑う』というタイトルが、幾太郎の著書『戦後を疑う』に由来することは明らかであるが、内容は、哲学者たちの友情論を手がかりとして、友人や友情というものが公共空間と一体のものである以上、公共空間がその本来の機能を失うとともに、友人も友情も消滅してしまうというものである。こうした友情論(というよりも友情消滅論)も興味深いが、なんといっても私にとって一番興味深かったのは「あとがき」の中の次の一節である。
友人や友情の意味を明らかにするという本書の意図に反し、結果的に、これらの言葉が「使えない」ということが唯一の可能な使い方であるという結論に辿りつかねばならなかった・・・・。明るい未来にも希望にも言葉を費やすことなく本書を終えることになるのでろうか。「友人」や「友情」という言葉の取扱説明書には、ただ「使えません」という文字だけが大きく記されている。この状態をそのまま放置せざるをえないのであろうか。しかし、未来というものは、誰にとってもいかなるときにも一種の闇でしかありえないのであり、私たちは、その闇へと後ろ向きに、ポール・ヴァレリーの言葉を使うなら、「あとずさりして」入っていくことしかできないのである・・・・。
ここには祖父の深い影響が見てとれる。「未来」を「闇」に喩えることは後期の清水幾太郎の得意とするレトリックであった。たとえば、たまたま論文Cでその一部を引用しているのだが、清水幾太郎の自伝『わが人生の断片』に、彼が戦時中に近衛文麿首相のブレーン組織「昭和研究会」の一員であったことに触れて次のように述べている箇所がある。
「東亜協同体論」といっても、戦後は、ファッシズムの一種として笑いものになるばかりである。それが何であったかを真面目に調べる人間はいない。しかし、過去というのは、ただ笑いものにしただけでは片づかない、もう少し面倒なものである。私の机の上には、日本青年外交協会編纂『東亜協同体思想研究』(日本青年外交協会、昭和十四年)という本がある。百部限定出版のうちの第二十三号である。巻頭には、三木清の「東亜思想の根拠」という文章があり、その次には、私の「東洋人の運命」という文章がある。続いて、石原純、鹿島守之助、船山常一、長谷川如是閑、蝋山政道、谷川徹三、高山岩男・・・・という人たちの文章が収められ、いろいろの角度から、東亜協同体に関する主張を述べている。(中略)勿論、誰も真空の中で考えたり、論じたりしていたのではない。軍部が政治に圧倒的な力を揮い、中国大陸の戦争が日を逐って拡大して行くという、与えられた条件の中で、せめて、現実を或る望ましい方向へ近づけようという苦しい努力なのであった。それが成功しなかったのを憐れむのは、思うに、各人の自由に属する。しかし、それを憐れむ人々の依拠するイデオロギーも、当時、あまり現実変更の役に立たなかったことを忘れない方がよいであろう。所詮、歴史というものは、それが既に過去となった現在の地点から観察し評価するほかはない。それだけに、観察や評価に当っては、その歴史のうちに生きた当時の人間の身になって考えねばならない。現在の立場から見れば、もう古い過去になっているような期間でも、当時の彼らにとっては、未来の闇だったのである。未来の闇に面していた人間のことは、その同じ時期を判り切った過去のように見下ろす人間には理解出来ないであろう。これは、過去に生きた人間に対する同情というような問題ではない。この注意を怠ると、どんな沢山の資料を揃えても、過去を知ることが出来ず、歴史に学ぶことが出来ず、そもそも、現在の自分の位置を悟ることが出来ないという戒めである。昔も今も、未来は闇である。
清水のこうした歴史観の背景には、自身の振幅の大きかった思索と行動の軌跡についてあれこれ批判的に語られてきたという経験があるわけだが、清水真木は祖父のこの歴史観をそのまま継承している。蛙の子は蛙。蛙の孫も蛙である。もし清水真木(清水礼子でもよい)が、清水幾太郎の思索と行動の軌跡を論じた本を書いたならば、それは天野恵一『危機のイデオローグ 清水幾太郎批判』(批評社、1979)とはまったく対照的な内容のものになるだろう。天野は、「思想家論を書くための最良の条件とはいったい何か」という問いを立てて、「書き手が対象から強い思想的影響を受けていること、そうであるにもかかわらず、書き手が対象に対して断固たる批評意識を保持していること」と答え、しかし、「これから論じる清水幾太郎に対して、私は残念ながらこうした立場は持ち合わせていない」「批判意識ばかりが先行して、およそ共感が薄いのである」と自身のスタンスを述べている。この点は、天野よりはソフトであるが、小熊英二の『清水幾太郎 ある戦後知識人の軌跡』(神奈川大学ブックレット、2003)にも当てはまるだろう。これに対して、もし清水真木が清水幾太郎論を書いたならば、大いなる共感があるかわりに、批評意識の希薄なものになる可能性が大きいだろう。そして、それ故に、彼が清水幾太郎論を書く可能性は小さいだろう。身内の書いた思想家論がどのようなものになるか、彼には予測できるはずだから。清水幾太郎とは一面識もない(一度、手紙のやりとりがあっただけの)私が、清水幾太郎論を書くことに何か利があるとすれば、それは私が清水に対して共感と批評意識の双方を備えている(と自分で勝手に思っている)点であろう。しかし、実際は、共感と批評意識のバランスをとること、バランスを常に保持しつづけることは、とても難しいことである。今日も一日それで悪戦苦闘しました。〆切まであと5日。はたして間に合うのか。それはわからない。未来はいつも闇であるから。
9.26(月)
ひさしぶりに午前9時前に家を出る。電車の中で村上春樹『東京奇譚集』の一篇「日々移動する腎臓の形をした石」を読む。午前10時からカリキュラム委員会。昼食抜きで午後3時までかかる。研究室で雑用を片付け、帰り支度をして、「メルシー」に食事に行く。チェーシューメンを食べ終え、地下鉄の駅に向かう途中で、ヤマノヰ本店を覗く。主人の山野井武蔵さんから清水幾太郎の話を伺うことができたらと思っていた。店外の100円均一の棚から小山弘健編『安保条約論争史』(社会新報社、1968)を抜き取って、店内に入る。清水の話を伺うきっかけとしては悪くない選択だと思った。ところが帳場に主人の姿が見えない。本の整理をしていた息子さん(といっても私と同年配)とおぼしき方に尋ねると、「父は先週亡くなりました」と言われ、私は言葉を失った。享年87歳。この7月頃までは店頭に出ておられたそうである。そのことを私に話しながら、息子さんは少し涙ぐんでおられた。私は自己紹介をして、実は今日はご主人がお店のホームページで書かれていた清水幾太郎との思い出話について伺おうと思って来た旨を告げた。息子さんも若い頃から父親に付いて清水の研究室や自宅に行ったことがあるそうで、「清水先生には大変お世話になりました」と思い出深そうに言われた。それからわれわれはしばらくの間、あれこれ話をした。店は息子さんが継がれるそうで、システムエンジニアをしているお孫さんにもコンピューターによる在庫管理などを手伝ってもらっているとのことだった。私は店を出て、地下鉄の駅に向かって歩きながら、空を仰いだ。私が山野井武蔵の「店主の思い出話」をネットで見つけて読んだのは先々週の金曜日であった。息子さんは「父は先週亡くなりました」と言った。つまり、そのとき、彼はまだ亡くなってはいなかった。人生の最後の数日を生きていた。私が「店主の思い出話」を読んで、清水の『私の読書と人生』に書かれたエピソードを読み返していたとき、山野井武蔵もまた薄らぐ意識の中でそのエピソードを改めて生きていたのかもしれない。帰りの電車の中で、『東京奇譚集』の最後の一篇、「品川猿」を読んだ。
9.27(火)
今日は昨日よりも早く、午前8時前に家を出る。昨日の電車の混み具合はそれほどでもなかったが(本も読めたし)、今日の電車は鮨詰め状態で読書には不向きであった。頭の中で論文Cの推敲。午前9時から大学院の修士の二次試験(面接)。今回の一次試験合格者は8名で、面接では各自の研究テーマについて語ってもらったわけだが、身体(論)をキーワードにしたものが多かった。昼食は「高田牧舎」のハヤシライス。午後2時からの教授会までの時間、研究室で論文Cの作業。途中、息抜きに生協文学部店に行ったら、調査実習の学生Dさんがいて、卒論のテーマのことで質問を受け、しばし立ち話。候補テーマ(たくさんあるのだ)の1つが「友情」だったので、新書の棚に並んでいた清水真木『友情を疑う』(中公新書)と高橋英夫『友情の文学誌』(岩波新書)を紹介する。それと現物はなかったが、G.アラン『友情の社会学』(世界思想社)。これは図書館には入っている。恋愛ばかりが過剰に論じられるいまの世の中、友情について論じるのもいいだろう。これから教授会なんだと話すと、「先生は教授会の最中に本を読まれるってほんとですか?」と聞かれたので、正直に、「うん、そうだよ」と答えたが、いけなかっただろうか。今日も生協文学部店で購入したばかりの加藤周一『二〇世紀の自画像』(ちくま新書)を読んでいた。ただし、誤解のないように言っておくが、ちゃんと聞くべき説明は聞き、意見を言うべきときには手を挙げて発言していますから。増える会議数、延びる会議時間の中で、それくらいの芸当は自然に身に付くのである。
9.28(水)
終日、論文Cの執筆。現時点の完成度80%。提出期限は30日(金)の午後5時。ただし、30日は午後から2コマ授業(後期の初日の授業)が入っているので、執筆に当てられるのはギリギリ30日の午前中までである(そんなギリギリまで書いていたくはないが・・・・)。聞くところによると、原稿の〆切は30日だが、編集委員会が開かれる来月4日の時点までに原稿が出ていればOKという説もある。その説が正しいとすると、寿命が3日間延びることになるのだが・・・・いかん、いかん、そんなことを考えてはいかん! 明日が最終日。一日をフルに執筆に使えるように今夜はこの辺で(29日午前2時)寝ることにしよう。
9.29(木)
29日のフィールドノートであるが、ただいまの時刻は30日の午前1時である。論文Cはまだ書き上がっていない。分量にすると規定枚数の上限である50枚(400字詰原稿用紙換算)まであと5枚ほど。マラソンレースに喩えれば、ゴールの競技場が眼前に見えている辺りであろうか。さきほど最後の難所をクリアーして、あとは比較的平坦な道である。何をどういう順序で書いて結末に至るかは見えている。1枚に1時間かけて丁寧に書いていっても明け方には書き終わるはずである。徹夜に備えて昼寝を1時間ほどしたので、いまのところ眠気に襲われる心配はない。日の出は午前5時35分。天気予報は晴れのち曇りなので、清々しい朝を迎えられるはずだ。朝食の後、もう一度全体に眼を通し、誤字や脱字のチェックを行う時間は十分にある。午前中に文学研究科事務所へ出向き、原稿を提出したら、「五郎八」で昼食(せいろ)を食べ、3限の大学院の演習に臨む。・・・・そういう人に私はなりたい。
9.30(金)
論文Cを朝の6時に書き上げ、3時間半ほど眠ってから大学へ。昼休みの時間に原稿を事務所に無事提出。「電車男」ならぬ「論文男」のお話もこれでひとまずおしまい。研究中心の生活から授業中心の生活へ切り替えなければならない。3限の大学院の演習は予定では論文Cを下敷きにした講義のはずだったのだが、レジュメを作っている時間がなく、来週回しとする。後期の報告のスケジュールを確認してからみんなで「カフェ・ゴトー」にお茶を飲みに行く。今日講義ができなかったお詫びにみなさん何でも注文して下さいと行ったのだが、ケーキを注文したのはI君だけだった。私は昼飯を食べ損なっていたので、アップルパイと紅茶で昼飯の代わりとする。その後、中央図書館へ。本の返却と調べもの。論文Cの中で田村泰次郎『肉体の文学』(1948年2月)所収の「肉体が人間である」という文章からの引用を行ったのだが、その文章は雑誌に載ったものの再録で、発表されたのは1947年7月であることは記されているのだが、雑誌名が分からないので、田村の執筆目録を調べる必要があったのである。『筑摩現代文学大系62』の付録の年譜から『群像』1947年7月号と判明。さきほど提出したばかりの原稿に加筆しなければ。ついでに別の案件で『中央公論』1964年10月号を調べていたら、戦後日本の進路を決定した十大論文というような特集があって、これがなかなか興味深かった。丸山真男の「超国家主義の論理と心理」を初めとして有名な論文がずらりと並んでいるが、なかにはいまではすっかり忘れ去られている(たんに私が知らないだけか?)もある。腰を据えて読み耽りたい衝動に駆られたが、後に授業が控えているのでそういうわけにもいかない。授業中心、授業中心・・・・。5限の調査実習では今後のスケジュールの説明を行い、ライフストーリー・インタビューとグループ研究の進捗状況について報告してもらった。午後7時半、帰宅。メールをチェックしたら、社会調査士認定機構から「専門社会調査士」の資格審査に合格されましたという通知が届いていた。夕食はポトフ。明日は講義が3つある。すぐに蒲団に潜り込むわけにはいかない。