8時、起床。暖かいが、湿気もあり、生温い感じだ。卵焼き、鰯の甘露煮、ご飯の朝食。
先日、卒業したばかりのゼミ二期生のT君からメールが届く。出版社への就職が決まったとことの知らせだった。ぎりぎり滑り込みセーフという感じではあるが、T君についてはとくに心配はしていなかった。自分のペースでやっていける能力を有した学生であったからだ。きっといい編集者になるだろう。
左右社の編集者のTさんに原稿が遅滞していることのお詫びのメールを送る。そのうち卒業生の方のT君にも原稿の遅滞のお詫びのメールを出す日が来るかもしれない。「先生、締め切りは守っていただかないと」「す、すみません・・・」という場面が目に浮かんでくる。因果はめぐるだ。
昼から大学へ。1時から面談を一件。それを済ませてから、「maruharu」へ昼食をとりに行く。ホットドッグとコーラ。春らしい気分だ。
教務室に戻って書類の束に判子を押していると机上の電話が鳴る。下の事務所からで、「オープン教育センターから電話がありました。2時半からの会議に先生がまだいらっしゃらないので、いらしてほしいとのことです」と言われる。あっ、いかん、失念していた(新年度の手帳に移行するときにその予定を記入し忘れたのだ)。あわてて本部に向かう。
本部での会議を終え、教務室に戻り、再び書類の束に判子を押す。
今日はいつもよりちょっと早めに仕事を終えて、有楽町の「ピカデリー2」に本日が最終日の『ものすごくうるさくて ありえないほど近い』を観に行く。先日、『ドラゴン・タトゥーの女』も最終日に観たのだが、話題の映画を初日に観るのもいいが、こうして最終日に観るのも悪くない。繁華街の映画館であっても、観客はまばらであるから、好きな席で観られるのがいい。いつものように前方中央の席で、大きなスクリーンを見上げるようにして観る。
9.11で大好きな父親を失い、しかし、その死を受け入れることができず、母親との関係もギクシャクしてしまっている少年が、たくさんの人々との出会いを通じて心のバランスを回復し、新しい人生の地平に歩み出て行くまでの物語。ある日、父親のクローゼットの中で、小さな青い花瓶の中にはいった一本の鍵を少年は見つける。その鍵が入っていた小さな封筒には「ブラック」と書かれていた。人名に違いないと少年は考え、電話帳を調べてニューヨーク在住の472人のブラックさんをピックアップする。そして彼らの元を訪ねて、父親のことや鍵のことを聞こう、そうすればそれが何の鍵で、そこには何が入っているのかがわかるだろう。その何かは父親が自分に残した何かであるはずだ。一日平均2人、毎週土日をその訪問にあてるとして、3年で472人のブラックさん全員を訪問できるできるはずだ。そう少年は考え、リサーチを開始する。見ず知らずの人の家を訪ねるというのは、社会調査の経験のある人にはわかるだろうが、なかなか大変なことである。それも田舎町とかではなく、ニューヨークでだ。普通は門前払いされるところだが、多くのブラックさんは少年の話に耳を傾け、家の中に招き入れてくれる。「9.11で父親を亡くした少年」に対して一般のアメリカ人が抱く気持ちがよくわかるが、実は彼らが少年を受け入れたのには別のある理由がある(それはここでは書かないことにしておこう)。
少年が会ったたくさんのブラックさん。
ありえないほど美しいアビー・ブラック
いつも祈っているハゼル・ブラック
同じ人の絵を描き続けてきたアストリッド・ブラック
元教師なのに脳が死にかけているボリス・ブラック
コインを集めているレイモス・ブラック
庭園に入れないアラン・ブラック
ハグ好きのヘクター・ブラック
「帰れ」とどなったリー・アン・ブラック
3人のベン・ブラック
絵をくれたエレイン・ブラックと5人の騒がしい子どもたち
耳が不自由なミスター・ブラック
ロッカウェイ半島のジーン・ブラック
泣き出しそうなローナ・ブラック
男で女の人
ありえないほどボロボロの建物に住んでいる人
絵を一緒に描く双子
奥さんの死後、音を聞かない人
・・・・などなど
この映画の脚本の一番よいところは、少年の回復の物語を家族の物語の内部だけで展開しないで、ニューヨークに生きるたくさんの人たちの物語と絡ませたことである。ふだん都会に暮らすわれわれは、日々、たくさんの他者と出会う。たとえば、電車の中で、向かいのシートに座った人の生活や人生に思いをはせることがある。でも、実際に話しかけて、その人の生活や人生について話を聴くことはない。この映画の主人公の少年はそれをやっているのである。儀礼的無関心やただの無関心に支配された毎日を送っているわれわれには、これは都会の御伽噺である。ユートピアの物語といってもいい。 こんな風に他人と言葉を交わせたらどんなに素晴らしいだろう。
もしリサーチする人の名前が、ブラックではなく、スミスとかアンダーソンであったら、物語の寓意性は薄らいだだろう。ポール・オースターの二ユーヨーク三部作の1つ『幽霊たち』は、探偵のブルー、依頼人のホワイト、被調査者のブラックが登場する。ニューヨークの住人にはブラックという名前が相応しい。都会に生きることの匿名性をその名前がよく表しているからだ。少年が一人一人のブラックさんの元を訪れることで、匿名的・記号的存在だった彼らが、一人一人個性的で内実のある人生を生きている人たちであることが明らかになるわけである。その意味では、この映画はニューヨーク賛歌でもある。素晴らしきかな人生。素晴らしきかなニューヨーク。アメリカ映画らしいアメリカ映画であると思う。
「玉屋」でいちご大福と道明寺とみたらし団子を買って帰る。
今日一日の終わりに伊吹唯さんの「一日」という歌を聴く。