12.15(水)
今日から3日間、卒論の提出期間である。昼休み、去年の調査実習の学生で、いましがた卒論を提出してきたばかりのHさんが、「この後、先生の授業にもぐりにいきます」というので、「また同じような話を聴いてもしょうがないだろう」と言ったら、「もう大学生活も終わりなので、ひさびさに大久保節を聴きにうかがおうと思いまして」とのこと。「大久保節」ね。浪速節みたいだな。せめて「大久保先生の語り」と言ってくれないかな。そういえば、清水幾太郎は講演の名手として知られていて、聴衆の知・情・意に同時に働きかける独特の話しぶりは「清水節」と呼ばれていた。私は清水の講演を生で聴いたことはないが、それが活字になったものはいくつか読んでいるので、想像はつく。まさにアジテーターである。Hさんがそんなことを知っているとは思えないが、「大久保節」という言い方をされるということは、たぶんアジテーター的なところが私(の講義)にはあるのだろう。実際、出席カードの裏に「涙がこぼれて仕方ありませんでした」といった感想が書いてあることもある。『世界の中心で、愛をさけぶ』の帯に印刷されている柴咲コウの感想みたいじゃありませんか。感想といえば、今日の授業の出席カードの裏にこんなことが書かれていた。「この前、文カフェで先生を見ました。先生は学校が大好きなんだーとうれしく思いました」。う~ん、と私は思わず唸りました。「文カフェ」というのは文学部の学生食堂のことで、私は外に食事に出る時間がないときによく利用するのだが、それが「愛校心」の表出として受け取られていることに驚いた。申し訳ないけれど、拙者、早稲田大学校歌を三番まで間違わずに歌える自信がありませんから・・・・(切腹!)。ちなみに今日のお昼も文カフェで食べました。鍋焼きうどんとお稲荷さんでしたが、ちゃんと愛校心を漂わせて食べることができたでしょうか。
12.16(木)
7限の授業の始まる前、研究室で本を読んでいると、携帯電話が鳴って、お寺の住職さんのところへインタビューに行っていたK君から調査終了の連絡が入った。昼過ぎから開始したはずなので、6時間もかかったのかと聞いたら、インタビューの途中で住職さんに急な用事が入り、お帰りを待っていたのだが時間がかかりそうだったので、予定を変更して住職の奥様にインタビューしましたとのこと。住民票からランダムサンプリングで対象者を選んだのなら絶対にありえない展開だが、今回の調査は学生自身がその人のライフストーリーを聞きたいと思う人を対象者にするよう指示を出しているので、こういう展開もありである。いや、むしろ面白いかもしれない。お寺の住職さんと結婚するというのは、サラリーマンと結婚するのとは明らかに違うだろう。もし私の娘がお寺の住職さん(の跡取り)と結婚するといいだしたら、「な、なんですと?!」と思うに違いない。「住職の奥さん的人生」とはいかなる人生であるのか。私もぜひ聞いてみたい。
12.17(金)
3限の大学院の演習の後、私が副査を担当している修士2年のKさんの修論の途中経過を研究室で聞く。最終章の着地点がいまひとつはっきりしていない。体操競技と同じで着地がピタリと決まるかどうかは大切だ。年末年始、あとひとふんばりが必要である。彼女と入れ替わりに4年生のH君が留年の相談に来る。今日が卒論提出の最終日だが、彼は提出を断念した。自分自身が想定する到達水準に内容が達していないのと、就職が未定であることが理由である。そういうことならば、戦略としての留年は妥当だろう。そんな話をしていることろへM君とY君が卒論を提出しましたという報告にやってきた。2人にはH君の留年という話は初耳で、卒論演習でいつも水準の高い報告をしていたH君が卒論の提出を断念したことに驚いていた。M君は東京に本社のある新聞社に、H君は大阪に本社のある放送局に就職が決まっている。大きな組織の中に入って、自分のやりたい仕事がしたいのであれば、組織の意思決定が行われている場所へ接近していかねばならない。平たく言えば、出世しなければならない。大きな組織の周辺で自分のやりたい仕事と巡り会うということもないわけではないが、最初からそういう幸運は期待しない方がよい。最初は、やらされる仕事ばかりであろう。しかし、やらされる仕事をきちんとこなせる人間であることを証明しなければ、やりたい仕事をさせてはもらえない。目の前の仕事(やらされる仕事)にまずは全力で取り組むことです。と同時に、夢(やりたい仕事)を忘れないことです。・・・・なんて話をしていたら、M君が「自分が将来、家庭欄の担当になったときは、先生に人生相談の回答者をお願いしたいと思います」と言ったので、「依頼に応えられるように、毎朝、人生相談の欄に目を通してトレーニングを積んでおくよ」と答えておいた。
12.18(土)
大学へ出る途中、渋谷駅近くのギャラリー・ル・デコで開催中の写真展「MOMENT4」を見物する。15人のカメラマン(プロもいればアマチュアもいる)が毎年この時期に開催している写真展(今年で4回目)で、メンバーの1人に社会学専修の卒業生がいて、いつも案内のメールをくれるのである。私は写真が好きで、とくに人物写真、といってもポートレートのようなものではなく、木村伊兵衛のような市井の人々のスナップショットが好きである。だから、今回の写真展でも、風景写真や都市の造形写真よりも、人物写真の前で立ち止まることが多かった。自然な表情というのは、ただ単純にカメラを人間に向ければ撮れるというものではない。むしろカメラを向けられれば表情が不自然になるのが人間というものである。だから、自然な表情の人物写真を見ると、小さな奇跡に遭遇したような気分になる。
大学で2、3の案件を片付け、夜、年賀状の文面を考え、印刷する。図版の印刷は妻の仕事だ。明日から調査実習の合宿で鴨川セミナーハウスに行く。
12.21(火)
合宿の最終日、7時半起床。9時から12時まで演習タイム。今回の合宿で予定していたライフストーリー・インタビュー調査の詳細なケース報告(20件)はすべて消化することができた。昼食(海鮮丼)をとり、午後1時半にセミナーハウスを立つ。鴨川セミナーハウスは、施設がきれいで、食事は美味しく、管理人さん夫婦や従業員の方々も親切である(これでロビーに設置されているパソコンのインターネットの速度が遅くなければいうことはない)。来年もまたお世話になろうと思う。鴨川駅前午後2時発の高速バスに乗り、午後4時半に東京駅八重洲口着(有明インター付近の渋滞で予定より30分ほど遅れた)。一行はそこで解散。冬休み中にインタビューの予定のあるS君、T君、もう一人のT君には研究室まで来てもらい、ICレコーダー等を貸し出す。目標の50件まであと4件である。
今日は冬至で文学部前の穴八幡神社は一陽来復のお守りを求めに来た人たちで賑わっている。露店もたくさん出ている。これから7限の授業(二文の基礎演習の補講)があるので、お札を求めがてら、ここで腹ごしらえをすることにした。まずは上州名物焼き饅頭(300円)。中に何も入っていない7,8センチ大の薄い饅頭を4個竹串に刺して、甘辛の味噌だれを刷毛で何度も塗りながらコンロで焼く。実に香ばしい。子供の頃、母の実家(群馬県勢多郡粕川村)に遊びに行ったときは、いつも食べていた。次にチキンステーキ(300円)。鶏の10センチ四方大の胸肉を鉄板で焼いて、塩胡椒で味付けしたもの。シンプルで旨い。続いて広島風お好み焼き(500円)。「広島風」という言葉に引かれたのだが、これはいま一つだった。自分で作る方がずっと旨い。隣の露店のソース焼きそばにすべきであった。最後はデザートに大判焼きを一個(100円)。満腹である。
7限の補講は休講の穴埋めではなく(休講はしていない)、グループ発表を消化するためである。いつもより出席者が少ない。けしからん。発表者に対して失礼だとは思わないのだろうか。自分が発表者の立場だったら・・・・という想像力に欠けているのだ。講義形式の授業と演習形式の授業の基本的な違い(出席することと参加すること)が理解できていないのだろう。大学での4年間の授業でどれほどのものが身に付くか、それは授業にどれだけ出席したかではなく、どれだけ参加したかによって決まるのである。本日の発表は、部分部分はまずまずの出来であったが、部分間の連結(流れ)に問題があった。連結がスムーズにいくためには、各部分が自己完結的に独唱をしては駄目で、自分が担当する部分が全体の中でどういう役割を果たしているのかということにもっと自覚的にならないといけない。そのためにはメンバーひとりひとりが熱心というだけでは不十分で、混沌に秩序を与えるリーダーシップが存在しないとならない。ところが「リーダーシップをとる」という振る舞いがいまの学生は苦手だ。演習でグループ分けを行って、各グループの班長を決めるように言うと、たいていジャンケンやくじ引きで班長を決めている。自薦他薦で班長が決まるということはほとんどない。集団の中で、目立つこと(責任を負うこと)を嫌う気持ち、あるいは目立つことを許さない圧力が存在するのであろう。「私にやらせて下さい」と言って立ち上がる・・・・『プロジェクトX』ではおなじみの光景だが、そういう光景が教室から消えてずいぶんになる。
授業を定刻(9時10分)に終え、研究室の片づけをしてから(明日、インタビューでここを使う学生がいるので)、大学を出る。10時半ごろ帰宅。長い一日だった。
12.22(水)
夜、高校時代からの友人であるKとOと会食。バドミントン班で同じ釜の飯を食った間柄である。班長だったKは東大を出て国際協力事業団(JICA)に就職し、職場結婚をして、現在に至っている。趣味はチェロの演奏で、横浜管弦楽団の一員である。私とダブルスを組んでいたOは農工大を出て小野測器株式会社に就職し、高校時代の同級生の女の子と結婚して、現在に至っている。趣味は山登りで、自宅を新築したとき居間の壁で岩登りの練習ができるように設計したほどである。2人とも子供が3人いるが、全員男の子だ。「いいなぁ、君たちは。娘がいると、いろいろ心配なことがあるんだ・・・・」とこぼしながら、2人の羨ましそうな顔を見るのは私の楽しみとするところである。3人で会うのは数年ぶりだが、高校時代の友人のよいところは、久しぶりで会っても全然ブランクを感じさせないことである。下らない冗談を言い、本音の愚痴を語り、大きな声で笑うことができる。新しい友人はこれからもその気になれば作ることができるが、旧友はもう作れない。
12.23(木)
昼食の後、眠気に襲われ、横になったらそのまま夕方まで寝てしまった。先週来の、いや、後期の疲れがドッと出た感じで、目覚めたらスッキリした。待望の冬休みである。年末年始の慌ただしさと穏やかさのコントラストが冬休みの魅力である。今日は年賀状を書く日だ。宛名と基本的な文面は印刷だが、それをそのまま投函するのではダイレクトメールのようで味気ない。一枚一枚に簡単なコメントを手書きする。もう何年も会っていない人が多い。最後に会ってからの期間が一番長いのは、中学3年のときのクラス担任だったH先生だ。卒業式以来だから、35年にもなるだろうか。当時、H先生はおいくつだったのであろう。30代くらいに見えたが、それはあくまでも中学生だった私の目から見てのことで、大人の女性の年齢というのはわかりにくいものであった(学年が2つ上の女生徒がすごく大人っぽく見えたりもした)。だいぶ前にご定年を迎え、いまは八王子の方にお姉様とお二人でお住まいであると伺っている。H先生の担当科目は国語で、定家の「駒とめて袖うち払ふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮」を解説して、この歌の鮮やかさの陰に微かに感じられる空虚さは本歌取りの故であると熱っぽく説かれたことが印象に残っている。後に、文学部の学生になった私は、故藤平春男先生の中世和歌論の講義を聴いて、H先生が「空虚」と否定的にとらえたものを藤平先生は「虚構」としてとらえ、虚構の美的世界の構築こそが定家の歌業の中心的課題であり、「駒とめて」の歌はその典型的な成功例であるという考え方に出会った。文学的認識として藤平先生の方が奥深いことは間違いない。しかし、虚構を空虚なものと感じるメンタリティーは完全には払拭されずに私の中に残っていて、以来、写実と虚構の間を往来しながら今日までやってきたような気がする。・・・・年賀状一枚でそんなことまで考えているから、なかなか書き上げることができないのである。明日には投函しなければ。
12.24(金)
午前中に年賀状を書き上げて投函したまではよかったが、投函してしまった後で、喪中の方お二人に出してしまったことに気がついた。今年は喪中の連絡をいただいた方が例年より多かったので、気をつけてはいたのだが、失礼なことをしてしまった。ただし、ものの本によると喪中の方に年賀状を出しても必ずしも失礼ではないそうで、また、私の年賀状の文面には「おめでとうございます」というストレートな言葉は使われていないので、ご勘弁いただくことにしよう。
今日はクリスマス・イブ。都立高校は今日で二学期が終了で、息子が通知表を持ち帰ってくる。前日が天皇誕生日なので、毎年のことながら、休日の合間の終業式というのはなんだか拍子抜けする。学校関係者はみんなそう思っているに違いないのだが、畏れ多いことなので、誰も口に出さないのである。しかし、仮に天皇誕生日の前日(22日)を終業式にすると、切りはよいのであるが、天皇誕生日が冬休みに吸収されてしまい、祝日であることのありがたみが失われてしまう。痛し痒しである(という表現は戦中なら不敬罪か?)。ちなみに皇太子の誕生日は2月23日である。大学は春休み中で、かつ入試期間であるから、学生や教職員にとってはありがたみに欠けることお父上の場合と同様である。この点において、昭和天皇は偉大であったとつくづく思う。
12.25(土)
午後、お寺さんへの付け届けを持って、墓参りに行く。師走の墓参りは初めてだが、忙中閑有りという感じがして、よいものである。墓参りを済ませてから、鶯谷駅前の蕎麦屋「公望荘」で昼食(天せいろ)をとり、天気がよいのですぐに電車には乗らず、上野公園の中を通って上野駅まで歩くことにした。
途中、西洋美術館がクリスマスということで無料(おまけに絵はがきと2月末まで有効の常設展の観覧券のプレゼント付き!)だったので、見物することにした。どのような美術館でも常設展というのはよいものである。企画展に比べて、料金が安いし見物人も少ない。気軽にゆったりした気分で見て回ることができる。西洋美術館の常設展は松方コレクションを中心とした中世末期から20世紀初頭にかけての絵画(ならびにロダンを中心としたフランス近代彫刻)の流れを辿る。14世紀シエナ派や15世紀フィレンツェ派の宗教画から始まって、17世紀フランドル派の静物画や風景画を経て、18世紀の新古典主義、そして19世紀の印象派に至る過程は、よりドラマチックで、より明るく、より自由な表現を求める精神の軌跡である。したがって館内を順路に沿って歩いていると自然と解放感を覚え、出口の近くの売店でついつい『国立西洋美術館名作選』(2100円)などを購入してしまう仕掛けになっている。
電車の中にいるときに妻からメールで、K君が夕飯を食べていくことになったと連絡があった。娘とK君は昨日からずっと一緒である。クリスマス・イブの前日、娘が明日は家族と一緒に夕食を食べないといけないかと聞いてきたので、大学生になった娘にそんなことをされたらこっちの気持ちが滅入ってしまう、門限は気にしなくていいと答えたら、一晩中カラオケに興じて、朝帰りならぬ昼帰りで、K君も一緒に家にやってきたのである。帰宅して、風呂を浴び、鮎の唐揚げでビールを飲みながらK君とあれこれ話をする。K君の緊張が解けた頃を見計らって、うちの娘のどんなところにひかれたのかと聞いてみた。しかし、娘が隣に座っている状況では答えづらいようで、何やら口ごもっているのでそれ以上は追求しないことにした。代わりに、今度は娘に向かって、K君のどこが気に入ったのかと聞いてみたが、娘の反応も同様である。ふ~ん、言えないものですかね。まぁ、いいや。飲み屋でおやじが若いカップルにからんでいるみたいだからな(そのものか?)。・・・・というわけで、メリー・クリスマス!
12.26(日)
夜、「M-1グランプリ2004」を見た。優勝したのは今回で出場資格(コンビ結成10年以内)がなくなるアンタッチャブル。テンションの高い、スピード感のあるネタを2本きっちりと揃えてきての完勝だった。ダークホースの南海キャンデーズは1本目は新しいスターの誕生を予感させる傑作だったのだが、2本目が凡庸な自虐ネタで、キャリアの浅さを露呈した。対抗馬となるはずだった笑い飯の低調さはどうしたことだろう。得意のぼけ合戦ネタの切れが悪く、爆笑を誘発できずに終わった。自己模倣を繰り返して熱量が低下しているのであろう。しかし、今回、一番の誤算は審査員に島田紳助が不在だったことだ。たとえば、笑い飯に対してラサール石井が「ネタを二つやっちゃったね」(構成の失敗)とコメントを述べていたが、教授が学生に卒論指導をしているのじゃないのだから、そういう婉曲な言い方は不要だろう。紳助なら率直に「つまらなかった」と言ったであろう。審査員の発言に厳しさが欠如していたために、番組全体の緊張感が低下していたように思う。
12.27(月)
午後、大学に出る。研究室で卒論を数本読む。いつもは1月下旬、授業が一段落してから読むのだが、今回は修論の主査と副査が合わせて3件あるので、それと時期がバッティングしないように、冬休みの間に卒論(12本)を読んでしまおうと考えている。A4判で30~40頁のものがほとんどで、途中経過の報告を何度か聞いて大筋はわかっているので、1時間あれば1本読める。感心したところや、首をかしげたところをメモしながら読む。参考文献の内容をたんになぞっているような箇所は退屈である。本人は勉強した成果を披露しているつもりなのかもしれないが、こちらが知りたい(読みたい)のはそうやって仕入れた知識やアイデアを使って本人が自分の思考をどう展開してみせてくれるのかである。だから引用や紹介だけで何かを論じた気になられると溜息が出る。ラーメンを注文したのにラーメンの材料が出てきたようなものである。それでもあれこれの文献を渉猟してくれているのであれば努力は買おうという気持にもなるが、特定の文献に頼り切りでその引用・紹介に終始されると、だんだん腹が立ってくる。ラーメンを注文したのに日清のカップヌードルが出てきたようなものである。誤解のないように言っておくが、私は日清のカップヌードルは嫌いではない。シーフードヌードルにちょっと醤油を落として食べるとなかなかいけると思う。
12.28(火)
テアトル蒲田で『レディ・ジョーカー』を観た。15:50からの回であったが、観客は10人いるかいないかだった。寂れた映画館というのも悪くないのだが、かつての「映画の街」蒲田に2館しか残っていない映画館の一つなので、土日で挽回して、閉館にならないように頑張ってほしい。高村薫の上下2巻の長編小説を2時間の映画に圧縮するというのは相当の力業である。脚本も監督もベストを尽くしたと思う。しかし、やはり2時間は短い。業界トップのビール会社の社長を誘拐する5人の男たちの背景(そこには戦後の日本社会のさまざまな問題が凝縮されている)をもう少し厚味をもって描くにはやはり3時間は必要だろう。しかし、3時間の映画では一日の興行回数が4回から3回に減ってしまい、テアトル蒲田のような瀕死の映画館の息の根を止めかねない。その意味で、『レディ・ジョーカー』は映画産業の衰退という問題ともかかわっているのである。
映画の始まる前、時間つぶしで立ち寄った南天堂書店で手に取った、つげ義春『新版 貧困旅行記』(新潮文庫)の冒頭の一編「蒸発旅日記」が摩訶不思議な魅力のある文章で、続きは映画を見終わった後で読もうと購入(300円)。昭和43年の秋(医学部の学生処分問題に端を発した東大紛争が激しさを増していた頃だ)、つげ義春は九州に住む彼のマンガのファンで一、二度手紙のやりとりをしただけで面識のない女性と会うために九州へ向かった。
「どんな人かなァ」と私は想像してみた。
「ひどいブスだったら困るけど、少しくらいなら我慢しよう」と思った。とにかく結婚してしまえば、それが私を九州に拘束する理由になると考えたのだった。そしてマンガをやめ、適当な職業をみつけ、遠い九州でひっそりと暮らそうと考えた。「離婚をした女なら気がらくだ」彼女はきっと結婚してくれるだろうと私は一人決めた。
二十数万円の所持金と、時刻表をポケットにつっこんだだけの身軽さで私は新幹線に乗った。私の間借りをしていた部屋はそのままだが、机と蒲団しかないので、私が消えてしまっても家主は困らないだろうと、あとのことは考えなかった。
なんなの、これは? 紀行文という形式を借りた小説(作り話)か? しかし、どうもそうではないようである。だとしたら、なんなんだ、この人は? 明らかに常人の発想ではない。常人の発想ではないが、しかし、凡人の心に響くものをもっている。
広島を過ぎると安芸の宮島を紹介する車内放送があった。そのとき目をあけ窓の方へ視線を移すと、大きな蠅が一匹ガラスにとまっていた。車内は冷房が利きすぎて、蠅は弱っているのかじっと動かないでいた。私は眺める気もなく蠅を見続けていた。
――この蠅は私と同じように大阪から乗ったのだろう。するとこのまま九州へ行くことになる。九州へ行ったらもう戻ることはできない。そうしたら九州でどのような生きかたをするのだろうかーー。
志賀直哉か、と私は思った。『網走まで』+『城崎にて』の世界ではなかろうか。詳しくは書かないが、もっと先にいくと、今度は川端康成かと思う。『伊豆の踊子』の世界(ただし高校生版ではなく成人版)になるのである。「あとがき」に「私は文章を書くのが苦手」とあるが、とんでもない、騙されてはいけない。
12.29(水)
朝から雪である。この冬一番の寒さである。母が近所の年老いた野良猫のことを気に掛けている。私は終日家に籠もっていた。今年の7月に亡くなった永井明の最後の著書『ただ、ふらふらと 酔いどれドクター最後の日誌』(中央公論新社)を読む。実は、彼が亡くなったことを私は最近まで知らなかった。本書の刊行をbk1のメルマガで見て、「最後の日誌」ってどういう意味だ、もしかして・・・・、と思いつつインターネットで調べて初めて知ったのである。享年57歳。死因は肝臓癌で、入院や延命治療を拒否して、意識を失う直前まで本書の原稿を書いていたという(しかし自分の病気のことには一言も触れていない)。彼の『ぼくが医者をやめた理由』が出版されたのは1988年だった。新鮮な文章だった。あの永井明が死んでしまったのか。いつものことだが、今年もまた「あの人が・・・」という人が何人も死んだ。鷺沢萠(35)、野沢尚(44)、中島らも(52)、荻島真一(58)、森村桂(64)、三ツ矢歌子(67)、横山光輝(69)、フランソワーズ・サガン(69)、いかりや長介(72)、芦屋雁之助(72)、島田修二(76)、三橋達也(80)、原田泰夫(81)、林健太郎(91)、・・・・ご冥福をお祈りします。夜、ケーブルテレビで『ラスト・プレゼント』という韓国映画を観た。売れないコメディアンと不治の病にかかった彼の妻の物語だった。死は誰にも必ず訪れる。しかしいつ訪れるのかは分からない。死、その確実で不確定なもの。
12.30(木)
天気はよかったが、風邪気味で、今日も一日自宅に籠もっていた。午後、TVで奈良女児誘拐殺人事件の容疑者逮捕のニュースと、紀宮様の婚約内定記者会見の中継を見た。なんとも対照的な映像であった。
容疑者が越年をせずに逮捕されたことはよかったが、事件後、県警の要請に応えて地元のパトロールに協力していた新聞販売店の関係者の中に容疑者が潜んでいたこと、末端とはいえ事件を報道する組織の内部に容疑者が潜んでいたことは衝撃であった。容疑者が逮捕されてもこうした構造的な不信感は簡単には消えないだろう。今後、宮崎勤の事件のときと同様、容疑者の不幸な生い立ちと犯罪歴と変態性が盛んに語られることになろうが(すでに始まっている)、それによって容疑者と類似のカテゴリーで括られる人々に対する差別が強まることを懸念する。事実、毎日新聞の社長室広報担当者は「販売所に対して従業員の人事管理をさらに強化するよう指導していきます」とのコメントを発表しているが、ここでいう「人事管理」とは犯罪歴のある人間を雇用しないということだろうか。
一方、婚約内定記者会見の中継では、「こういう日本語を話す方が世の中にはいるのだ」と深く感じ入った。天皇家の方々のお話になる日本語が独特のものであることは、小学生の頃から(昭和天皇の「お言葉」をTVで度々拝聴して)承知していたが、民間人とはいえ、皇族と結婚するような方は、やはり独特の日本語を話されるのだと知った(紀子様のときはそのことをそれほど感じなかったが、今回の黒田氏にはそれを感じた)。平たく言えば、住む世界が違う。私の娘も息子も皇族と結婚することはないであろうことを確信した。しかし、こういう感覚も一種の差別なのであろう。人を差別しないというのは簡単なことではない。
12.31(金)
雪の大晦日は東京では21年ぶりとか。ということは1983年の大晦日も雪だったわけだ。私たち夫婦は1983年の12月3日に結婚したので、たぶん雪の大晦日を新鮮な気持ちで迎えたに違いないのだが、実は、よく覚えていない。妻に聞いたら、妻も覚えていなかった。降る雪や昭和も遠くなりにけり。