気が付けば大晦日である。紅白歌合戦を観ながらフィールドノートを書いている。いま小林幸子が火山のような衣装で歌っている。
『社会学評論』(日本社会学会の機関紙)の最新号が送られてきて、目次を見たら、長谷先生が「研究動向」欄で最近の文化社会学の傾向を分析している。最初の章を読んでなんだか面白そうだったので、昨日購入したばかりのバッグに入れて散歩に出て、シャノアールで読む(7章まであるのだ)。一言でいうと、「ポストモダンの社会学」から「責任と正義の社会学」へ、ということらしい。ふ~む、長谷先生からそう言われると、確かにそうだなという気がしてくるから不思議だ。「ポストモダンの社会学」は高度に知的な遊びである。一方、「責任と正義の社会学」(と長谷先生が呼ぶのもの)はこのろくでもない社会をどうしたらいいのか、このろくでもない時代をどう生きていけばいいのか、そういう真面目な問題意識と、何らかの提言を伴う(少なくとも志向する)社会学的研究である。そういうシフトを生じさせ、加速させた諸要因は、冷戦(という名前の危機をはらみながらもそれなりに安定していた世界システム)の終結、バブル経済(という名前の爛熟した消費社会的状況)の崩壊、オウム事件と阪神淡路大震災、そして9.11テロである。「ポストモダンの社会学」から「責任と正義の社会学」へという補助線を引くことで、混沌とした言説空間の見晴らしが一挙によくなった。私自身のいる場所もよくわかった(ような気がする)。戦後知識人論は「ポストモダン派のように社会をシステム論的に(無時間的に)記述するよりも、戦後という歴史的偶有性のなかで生きていた知識人の姿を時間的厚味のなかで描き出そうとすることに力点を置いている」のである。「ポストモダン期にはむしろ批判され無視されていた戦後知識人たちが、こうして現代に再び召還されたのは、むろん彼らが歴史のなかでの自分たちの『責任と正義』を取ろうとした真面目な知識人だったから」である。なるほどね。本論文は来年度の社会学演習ⅠBで読むテキストの一つに決定。「歴史」の重要性を再認識した私は、くまざわ書店で、ウォーラーステイン『脱商品化の時代 アメリカン・パワーの衰退と来るべき世界』(藤原書店)を購入して、帰宅した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/3f/29d21678368686ffc98f4816ce223838.jpg)
面白い論文が載ることもある
紅白歌合戦は白組の圧勝で終わった。終盤、徳永英明「壊れかけのRadio」と秋川雅史「千の風になって」と会場全体が水を打ったようにして聴き入る歌唱が2曲続いたのが大きかったのでないかと思う。DJ OZAMのダンサーの女性たちの突然のボディースーツには私もびっくりした。一瞬、本当に裸になったように見えた。でも、カメラがそのまま彼女たちを映し続けたので、ハプニングではなく予定の演出なのかと思ったら、後から紅白歌合戦のホームページに「NHKはこのような姿になることは放送まで知りませんでした」という掲示が出ていた。誰かが責任をとらされることになるのだろう。気の毒に。絶対に抗議の電話が殺到だろうなと思っていたら、案の定、途中でアナウンサーが説明とお詫びをしたが、それが「千の風になって」の直後だったのはせっかくの余韻に水をさすものだった。にぎやかな歌の後にしてほしかった。女性陣でよかったのは、アンジェラ・アキ「HOME」。DJ OZAMの直後の騒然として雰囲気をたちまち収拾してみせた歌唱力はただ者ではない。藤あや子「雪深深」は序盤で使ってしまうにはもったいない歌である。終盤にもってきていたらボール2つは違ったのではないか。そんなことを考えながら、2007年を迎えた。今年もよろしくお願いいたします。
『社会学評論』(日本社会学会の機関紙)の最新号が送られてきて、目次を見たら、長谷先生が「研究動向」欄で最近の文化社会学の傾向を分析している。最初の章を読んでなんだか面白そうだったので、昨日購入したばかりのバッグに入れて散歩に出て、シャノアールで読む(7章まであるのだ)。一言でいうと、「ポストモダンの社会学」から「責任と正義の社会学」へ、ということらしい。ふ~む、長谷先生からそう言われると、確かにそうだなという気がしてくるから不思議だ。「ポストモダンの社会学」は高度に知的な遊びである。一方、「責任と正義の社会学」(と長谷先生が呼ぶのもの)はこのろくでもない社会をどうしたらいいのか、このろくでもない時代をどう生きていけばいいのか、そういう真面目な問題意識と、何らかの提言を伴う(少なくとも志向する)社会学的研究である。そういうシフトを生じさせ、加速させた諸要因は、冷戦(という名前の危機をはらみながらもそれなりに安定していた世界システム)の終結、バブル経済(という名前の爛熟した消費社会的状況)の崩壊、オウム事件と阪神淡路大震災、そして9.11テロである。「ポストモダンの社会学」から「責任と正義の社会学」へという補助線を引くことで、混沌とした言説空間の見晴らしが一挙によくなった。私自身のいる場所もよくわかった(ような気がする)。戦後知識人論は「ポストモダン派のように社会をシステム論的に(無時間的に)記述するよりも、戦後という歴史的偶有性のなかで生きていた知識人の姿を時間的厚味のなかで描き出そうとすることに力点を置いている」のである。「ポストモダン期にはむしろ批判され無視されていた戦後知識人たちが、こうして現代に再び召還されたのは、むろん彼らが歴史のなかでの自分たちの『責任と正義』を取ろうとした真面目な知識人だったから」である。なるほどね。本論文は来年度の社会学演習ⅠBで読むテキストの一つに決定。「歴史」の重要性を再認識した私は、くまざわ書店で、ウォーラーステイン『脱商品化の時代 アメリカン・パワーの衰退と来るべき世界』(藤原書店)を購入して、帰宅した。
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面白い論文が載ることもある
紅白歌合戦は白組の圧勝で終わった。終盤、徳永英明「壊れかけのRadio」と秋川雅史「千の風になって」と会場全体が水を打ったようにして聴き入る歌唱が2曲続いたのが大きかったのでないかと思う。DJ OZAMのダンサーの女性たちの突然のボディースーツには私もびっくりした。一瞬、本当に裸になったように見えた。でも、カメラがそのまま彼女たちを映し続けたので、ハプニングではなく予定の演出なのかと思ったら、後から紅白歌合戦のホームページに「NHKはこのような姿になることは放送まで知りませんでした」という掲示が出ていた。誰かが責任をとらされることになるのだろう。気の毒に。絶対に抗議の電話が殺到だろうなと思っていたら、案の定、途中でアナウンサーが説明とお詫びをしたが、それが「千の風になって」の直後だったのはせっかくの余韻に水をさすものだった。にぎやかな歌の後にしてほしかった。女性陣でよかったのは、アンジェラ・アキ「HOME」。DJ OZAMの直後の騒然として雰囲気をたちまち収拾してみせた歌唱力はただ者ではない。藤あや子「雪深深」は序盤で使ってしまうにはもったいない歌である。終盤にもってきていたらボール2つは違ったのではないか。そんなことを考えながら、2007年を迎えた。今年もよろしくお願いいたします。