大晦日である。毎月の最後の日を晦日、最後の月の最後の日を大晦日という。「今日で3月も終わりか」「今日で8月も終わりか」と晦日はそれぞれに感慨深いが、大晦日は1年の終わりでもあるから、感慨もひとしおである。終わりよければすべてよし。大晦日をどう過ごすかは重要である。恋人とのクリスマスイブをどう過ごすかと同じくらい重要である。
9時半、起床。昨日で大掃除は終わっている。すっきりした書斎は気持ちがいい。とくにドアを入ってデスクのところまで何も踏まずに歩けるのがいい。こんなに気持ちがいいなら、毎月の晦日に大掃除をしてもよいくらいだ。
紀要に載せる原稿の再校をチェックし、ポストに出しがてら散歩に出る。工学院通り商店街にまた一つ空地が出来た。お好み焼きの「サザン」の隣の無残な空地。いつもは唸り声を上げている工事現場のクレーン車たちも今日は静止している。巨神兵の休日。近所のビルの外階段から工事現場の全景を見てみる。かつてここにたくさんの飲み屋があり、簡易旅館があり、煙草屋があり、和菓子屋があり、雀荘があり、ラーメン屋があり、薬局があり、ラブホテルがあり、コンビニがあり、歯科医院があり、美容院があり、工務店があり、ダンス教室があり、とんかつ屋があり、花屋があった。店舗だけでなく、アパートがあり、民家があった。つまり、人々の日々の暮らしがあった。いまは、グランド・ゼロだ。63年前の焼け野原に戻った。歴史の消滅。地上げというのはそういう行為なのだ。
「テラス・ドルチェ」で昼食(炒飯と珈琲)をとりながら、加藤周一『日本その心とかたち』(徳間書店)を読む。彼の代表作『日本文学史序説』で文学作品を素材として行った日本人の精神史の分析を、美術や建築の分野で展開したものである。加藤周一は今月5日に89歳で亡くなった。哀悼の気持ちを込めて、今年最後の読書はこの本と昨日の夜から決めていた。大部の本なので全部は読めない。終わりの二章、「東京・変わりゆく都市」と「日本の20世紀」を読む。
「東京という都市の第三の特徴は、都市計画というものの不在である。丸の内や新宿副都心など部分的な計画はあるが、基本的には東京は計画性のないまま自然発生的に拡大する。無秩序な区画の上に高層コンクリート建築が建ち、新幹線が走り、その脇の細い路地には木造平屋の家がひしめいている。このような二つの要素が共存しているのは東京だけのことではないが、東京に特徴的なことである。そこには積極的意味もある。都市がすべて高層建築と碁盤状もしくは放射線状に走る広い道路のみから成っているとすれば、その印象は冷たいものになるだろう。人は路地を歩いて、なにかを発見したり、だれかに出会ったりするものだ。路地には人のぬくもりや生活の匂いがある。それはその街で生きている人間にとって決定的に大事なものだろう。」(264頁)
「第六の特徴は、変化の速度にある。東京の街は絶えず大きく変化している。その変化の速さは、この街の経済的「ダイナミズム」と、建築が周囲との美的調和という観点からほとんど規制を受けないことに起因している。東京は過去にこだわることなく万事を更新する。新しいもののためには古いものを壊さなければならず、それこそが都市の「進歩」だと考えられているかのようである。・・・(中略)・・・都市景観に持続性がなければ、一世帯の記憶さえも結びつく場所を失う。その意味で、東京は記憶喪失症の都市である。・・・(中略)・・・私たちが心すべきことは、都市の変化の速度がある限度を越えれば、たとえそればよりよい変化であったとしても、市民の心理やその文化の性質に大きな作用を及ぼすに違いないということである。そしてたとえば、進むことを考えて振り返ることを知らない文化の一種の浅薄さ、心理的不安定と神経症の流行が目立ってきたとしても、それはおどろくにはあたらない。すなわち一つの都市としての東京の美的感覚は、経済の活力を示すものではあるが、一方でその消費社会の表層性や近視眼を映してもいるのである。」(265-267頁)
『日本その心とかたち』の出版は2005年だが、元になっているのは、1987-88年にかけ10回に分けて放送されたNHK特集「日本 その心とかたち」で加藤が話した内容である。バブル崩壊前の、東京のそこかしこで地上げが行われていた時代である。いまのわれわれには「進歩」に対する素朴な信仰はもはやない。明日が今日よりもよくなっているというふうに考える人を見つけることは困難だろう。「進歩」に対する懐疑はしばしば「懐旧」の情を生む。「あの頃はよかった」と。しかし、消費社会のメカニズムはそうした「懐旧」の情さえも商品化しながら、あいかわらず表層的かつ近視眼的に東京という街を変貌させ続けている。
栄松堂で以下の本を購入し、「カフェドクリエ」で読書の続き。
フィッツジェラルド『若者はみな悲しい』(光文社古典新釈文庫)
筒井清忠『西條八十』(中公文庫)
『ポケットダイアリー(1ページ1日タイプ)』(高橋書店)
夜、一階の居間の掘り炬燵で「紅白歌合戦」を観る。心に沁みたのは、木山裕策「home」、秋元順子「愛のままで」、いきものがかり「SAKURA」、前川清「東京砂漠」、ジェロ「海雪」、森山直太郎「生きていることが辛いなら」、アンジェラ・アキ「手紙~拝啓十五の君へ~」、平原綾香「ノクターン」、中島美嘉「ORION」、石川さゆり「天城越え」などだが、一番はMr.Children「GIFT」。最初は、どうして別スタジオで歌うのだろう、メインステージで歌えばいいのにと思って聴いていたのだが、スタジオの壁全部(360度)をスクリーンに使った、コロシアム型の観客席を設けた演出が見事だった。白組圧勝の立役者といっていいだろう。「紅白」を観終って、恒例の女塚神社への一家での初詣。冬の星空が、東京にしては、美しかった。
9時半、起床。昨日で大掃除は終わっている。すっきりした書斎は気持ちがいい。とくにドアを入ってデスクのところまで何も踏まずに歩けるのがいい。こんなに気持ちがいいなら、毎月の晦日に大掃除をしてもよいくらいだ。
紀要に載せる原稿の再校をチェックし、ポストに出しがてら散歩に出る。工学院通り商店街にまた一つ空地が出来た。お好み焼きの「サザン」の隣の無残な空地。いつもは唸り声を上げている工事現場のクレーン車たちも今日は静止している。巨神兵の休日。近所のビルの外階段から工事現場の全景を見てみる。かつてここにたくさんの飲み屋があり、簡易旅館があり、煙草屋があり、和菓子屋があり、雀荘があり、ラーメン屋があり、薬局があり、ラブホテルがあり、コンビニがあり、歯科医院があり、美容院があり、工務店があり、ダンス教室があり、とんかつ屋があり、花屋があった。店舗だけでなく、アパートがあり、民家があった。つまり、人々の日々の暮らしがあった。いまは、グランド・ゼロだ。63年前の焼け野原に戻った。歴史の消滅。地上げというのはそういう行為なのだ。
「テラス・ドルチェ」で昼食(炒飯と珈琲)をとりながら、加藤周一『日本その心とかたち』(徳間書店)を読む。彼の代表作『日本文学史序説』で文学作品を素材として行った日本人の精神史の分析を、美術や建築の分野で展開したものである。加藤周一は今月5日に89歳で亡くなった。哀悼の気持ちを込めて、今年最後の読書はこの本と昨日の夜から決めていた。大部の本なので全部は読めない。終わりの二章、「東京・変わりゆく都市」と「日本の20世紀」を読む。
「東京という都市の第三の特徴は、都市計画というものの不在である。丸の内や新宿副都心など部分的な計画はあるが、基本的には東京は計画性のないまま自然発生的に拡大する。無秩序な区画の上に高層コンクリート建築が建ち、新幹線が走り、その脇の細い路地には木造平屋の家がひしめいている。このような二つの要素が共存しているのは東京だけのことではないが、東京に特徴的なことである。そこには積極的意味もある。都市がすべて高層建築と碁盤状もしくは放射線状に走る広い道路のみから成っているとすれば、その印象は冷たいものになるだろう。人は路地を歩いて、なにかを発見したり、だれかに出会ったりするものだ。路地には人のぬくもりや生活の匂いがある。それはその街で生きている人間にとって決定的に大事なものだろう。」(264頁)
「第六の特徴は、変化の速度にある。東京の街は絶えず大きく変化している。その変化の速さは、この街の経済的「ダイナミズム」と、建築が周囲との美的調和という観点からほとんど規制を受けないことに起因している。東京は過去にこだわることなく万事を更新する。新しいもののためには古いものを壊さなければならず、それこそが都市の「進歩」だと考えられているかのようである。・・・(中略)・・・都市景観に持続性がなければ、一世帯の記憶さえも結びつく場所を失う。その意味で、東京は記憶喪失症の都市である。・・・(中略)・・・私たちが心すべきことは、都市の変化の速度がある限度を越えれば、たとえそればよりよい変化であったとしても、市民の心理やその文化の性質に大きな作用を及ぼすに違いないということである。そしてたとえば、進むことを考えて振り返ることを知らない文化の一種の浅薄さ、心理的不安定と神経症の流行が目立ってきたとしても、それはおどろくにはあたらない。すなわち一つの都市としての東京の美的感覚は、経済の活力を示すものではあるが、一方でその消費社会の表層性や近視眼を映してもいるのである。」(265-267頁)
『日本その心とかたち』の出版は2005年だが、元になっているのは、1987-88年にかけ10回に分けて放送されたNHK特集「日本 その心とかたち」で加藤が話した内容である。バブル崩壊前の、東京のそこかしこで地上げが行われていた時代である。いまのわれわれには「進歩」に対する素朴な信仰はもはやない。明日が今日よりもよくなっているというふうに考える人を見つけることは困難だろう。「進歩」に対する懐疑はしばしば「懐旧」の情を生む。「あの頃はよかった」と。しかし、消費社会のメカニズムはそうした「懐旧」の情さえも商品化しながら、あいかわらず表層的かつ近視眼的に東京という街を変貌させ続けている。
栄松堂で以下の本を購入し、「カフェドクリエ」で読書の続き。
フィッツジェラルド『若者はみな悲しい』(光文社古典新釈文庫)
筒井清忠『西條八十』(中公文庫)
『ポケットダイアリー(1ページ1日タイプ)』(高橋書店)
夜、一階の居間の掘り炬燵で「紅白歌合戦」を観る。心に沁みたのは、木山裕策「home」、秋元順子「愛のままで」、いきものがかり「SAKURA」、前川清「東京砂漠」、ジェロ「海雪」、森山直太郎「生きていることが辛いなら」、アンジェラ・アキ「手紙~拝啓十五の君へ~」、平原綾香「ノクターン」、中島美嘉「ORION」、石川さゆり「天城越え」などだが、一番はMr.Children「GIFT」。最初は、どうして別スタジオで歌うのだろう、メインステージで歌えばいいのにと思って聴いていたのだが、スタジオの壁全部(360度)をスクリーンに使った、コロシアム型の観客席を設けた演出が見事だった。白組圧勝の立役者といっていいだろう。「紅白」を観終って、恒例の女塚神社への一家での初詣。冬の星空が、東京にしては、美しかった。