7時、起床。ハム、レタス、パン、牛乳の朝食。
今日は大学で長谷先生の新著『敗者たちの想像力 脚本家 山田太一』(岩波書店)の刊行記念イベントがある。2時からだが、その前に「すず金」で鰻重を食べようと早めに家を出た。しかし、店内に人の列が出来ていて、とても時間がかかりそうだったので、「五郎八」で蕎麦を食べることにした。
「五郎八」を出て、大学に向かって歩いていると、地下鉄の駅のあたりで、見知らぬ人から戸山キャンパスへ行く道を尋ねられた。「山田太一さんのシンポジウムに行かれるのですか?」と聞いたら、「そうです」とのことだった。「私もこれから行くところです」と言ったら、「では、ご一緒にお願いします」と言われた。「たしか長谷先生という方の本の刊行を記念したイベントときいています」と言うので、「この本ですね」と私が『敗者たちの想像力』を鞄から取り出したら、何を勘違いされたのか、「あなたが長谷先生ですか?」と聞かれた。「いえいえ、私は長谷先生ではありません。仲はいいですけど」と答える。でも、あのとき、「はい、そうです」と答えておくのも面白かったかもしれない。すぐにばれる嘘だから。
36号館382教室は300人収容の教室だが、盛況だった。下の写真は始まる前に撮ったものだが、始まってからも人がどんどん人が入って来て、満席状態になった。
何人もの方が登場したが、やはりメインは長谷先生と山田太一さんのやりとりである。
キーワードである「敗者」という言葉が、当然ながら、何度も出てくる。長谷先生も、山田太一さんも、自分を「敗者」であると語っている。大学院の学生やシナリオライターを目指している人には、「冗談でしょ?」という感じがすると思うが、そうすると「勝者」は一体どこにいるのだろう。山田太一さんは「人間はみな敗者なんです」と言った。そうか、「勝者」はどこにもいないのか。長谷先生がこの意見に同意するのかどうかを知りたいと思ったが、話は先に進んでしまった。
改めて考えてみると、「人間はみな敗者なんです」ということの意味は、「大きくなったら何になる?」という質問をシャワーのように浴びながら育つ近代社会の子供たち(その延長としての大人たち)にとって、人生とは可能性の喪失の過程、挫折の連続の過程であるということを含意している。陸上100メートルの世界記録(9秒58)保持者のボルトだって、8秒台で走ることを夢見ているとしたらやはり敗者なのである。才能に恵まれた人は恵まれた人のレベルで夢や目標を抱くわけだから、やはり敗者になってしまうのである。夢や目標を設定してその実現に向かって努力するという生き方が奨励され強制される社会では、たしかに、「人間はみな敗者なんです」ということになる。
だが、「人間はみな敗者なんです」という言い方は、そうだよなと同意する一方で、どこか拍子抜けというか、肩透かしを食らった感覚を伴うものでもある。山田太一の作品は、敗者を描いたものというよりも、(すべての)人間を敗者という側面から描いたものということになるのだろうか。長谷先生の意見が聞きたいと思ったが、質問用紙には書かなかった。山田太一さんの発言に異を唱えるような感じの質問は今日の集まりにはふさわしくなく、後日、長谷先生に個人的に聞けばよいと思ったからである。
本の帯にはこう書かれている。
敗者を敗者であるがままに、いかに輝かすか。「勝者」への復帰という未来の希望においてではなく、「敗者」であることを受け入れることがそのまま幸福になり得るという現在の可能性が、微風のようにドラマを横切っていく・・・
つまり、山田太一の作品はセラピー文化の系列に位置づけられるということだろうか。セラピー文化において、自己は弱いものであり、社会は抑圧的なものである。だから、そうした社会に適応しようとして頑張るのではなく(それは過剰適応という一種の病理である)、開き直ってというか、自分は弱い人間であることを自覚し、開示し、そうした自分を承認・肯定してくれる(いまのままのあなたでいい)他者との関係を作っていくことが重要であると説かれる。こうした思想は70年代くらいからあり、山田太一の作品をこうした系譜の中に組み込むことは、可能だと思うものの、あまり目新しい見方とはいえなくなってしまうのではないか。すでに言われてしまっていることを言うのは長谷先生の流儀でないから、きっと、こうした見方には、「いや、そういうことじゃなくて」という反論が予想されるのだが、具体的に反論の内容はどんなものになるだろう。
一つのポイントは「敗者」は「弱者」と同じ意味で使われているのかというところにあるように思う。事実、本書の中では「弱者」という言葉もよく出てくる。両者は同じものなのか? 同じであるとすれば、セラピー文化的な見方である。だが、私の言語感覚では、両者は違うものである。「敗者」というのは戦った結果である。戦わない者は「敗者」になることができない。しかし「弱者」は戦わずとも「弱者」になれる、いや、「弱者」とみなされてしまう(もちろん戦った結果、「弱者」と判定されることもある)。では、「敗者」は「弱者」の一部なのか。特定の(戦った経験のある)「弱者」が「敗者」なのか。その場合、「敗者」は戦った経験(打ちのめされた経験)があるという点においてそうでない「弱者」よりもアドヴァンテージを有している、つまり「強者」であるということになるのではないか・・・。
あれこれ考えながら聴いていたら4時間という時間は短いものだった。どうもありがとうございました。
これからも私たちを夢中にさせるTVドラマを書いて下さい。