4.16(土)
お昼休みを間に挟んで2限と3限で90分フルにしゃべる講義科目が2つ続くというのはけっこうしんどいものがある。特に今日は寝不足気味だったこともあり、3限の授業を終えて研究室に戻るとどっと疲れが出て、そのまま眠りたい気分だったが、面談に来た学生の相手をしていているうちにしだいに眠気が覚め、その後は夕方まで昨日発覚した問題の事後処理にあたる。
フォークシンガーの高田渡が死んだ。公演先の釧路の病院で。56歳だった。なんだ、私と5つしか違わないじゃないか。山之口貘の詩に彼が曲を付けた「生活の柄」という歌を、授業で流したことがあった。いい歌だった。私だけではなくて、何人もの学生がそう言っていた。
『山之口貘詩文集』(講談社文芸文庫)をパラパラとやっていたら、「自己紹介」という短い詩を見つけた。一昨日と昨日、3つの演習でたくさんの自己紹介を聞いたばかりなので、目に止まったのだろう。
自己紹介
ここに寄り集まつた諸氏よ
先ほどから諸氏の位置について考へているうちに
考へてゐる僕の姿に僕は気づいたのであります
僕ですか?
これはまことに自惚れるやうですが
びんぼうなのであります
4.17(日)
大学院の演習、卒論演習、調査実習、二文の基礎演習それぞれの年間スケジュールを立てる(3つの講義科目の方のスケジュールはすでに立ててある)。所詮は絵に描いた餅。途中で、変更・修正を余儀なくされることはわかっているが、それでも、できあがった美しいスケジュール表をながめていると気持がいい。夏休みの計画表を完成させた小学生のような気分である。夜、ハードディスクに録っておいた2つのTVドラマ、草彅剛主演『恋におちたら』と矢田亜希子主演『夢で逢いましょう』の初回をみる。前者は最終回までつきあうことになるだろう。後者は思案中(父娘ものというテーマ設定についてはひとまずおくとして、山田優や上原美佐という伸び盛りの若くて魅力的な女優を脇役に配すると、矢田亜希子の魅力を相対的に低下させて損なのではないか、少なくとも、矢田亜希子に失礼ではないかと彼女のファンとしては思ってしまうわけです)。
4.18(月)
最近、朝早く目が覚める。昨夜は午前3時の就寝だったのにもかかわらず、今朝は6時半に目が覚めてしまった。当然、寝不足であるが、いったん目が覚めてしまうと二度寝は困難で、起きて、机に向かって、パソコンを起動する習性がある。朝食は起床から1~2時間後くらいに食べることが多い。午前中にまとまった仕事ができるのはいいのだが、なんとなく寝不足気味で一日を送る羽目になる。月曜日は大学には出ない日なのだが、そうもいっていられない事情があり、昼から出かける。研究室に2台あるパソコンのうちの1台のソフトの調子が悪いので、リカバリーCDを使って全部のソフトを再インストールする。ハードディスクの初期化を行っているときに、40%くらいを初期化したところで、パソコンが動かなくなってしまったときは冷や汗をかいた。神様に祈りながらもう一度最初からやり直したら、今度は最後まで行ってくれた。生協文学部店で西條剛央『構造構成主義とは何か 次世代人間科学の原理』(北大路書房)、ストラウス『鏡と仮面 アイデンティティの社会心理学』(ミネルヴァ書房)、縮刷版『社会学事典』(弘文堂)を購入。帰路、丸善に寄って、竹内洋『立身出世主義〔増補版〕近代日本のロマンと欲望』(世界思想社)を購入。夜、木村拓哉主演TVドラマ『エンジン』の初回をみる。うん、これは見切るべきドラマだ。『グッドラック』、『プライド』とこのところの彼はまったく脚本に恵まれていない。『僕の生きる道』、『僕と彼女と彼女の生きる道』の草彅剛とは実に対照的だ。そして木村拓哉の不幸はあんなドラマでも視聴率が取れてしまうことにある。
4.19(火)
火曜日は会議の日。今日は3つ。一文の社会学専修の会議、二文の社会・人間系専修の会議、そして教授会。教授会では新任の助手さんたちが紹介された。20人ほどの方がずらりと並んだところはなかなか壮観だったが、何人か欠席の人がいて、その専修の教員たちは「どうしたんだろう?」と顔を見合わせていた。もし忘れているのだとしたら、かなりの大物である。助手の紹介に先だって新任の教員の紹介があり、作家の北村薫さんの姿もあった。私より5歳年長だが、お若く見えた。夜、天海祐希主演のTVドラマ『離婚弁護士Ⅱ』の初回をみた。コミカルな作りで面白かった。これでライバル弁護士役の瀬戸朝香がもうちょっとシャープな印象だといいのだが・・・・。
4.20(水)
自宅で仕事。昼飯を食べながら、昨夜ハードディスクに録っておいた稲森いずみ主演のTVドラマ『曲がり角の彼女』の初回をみる。稲森が実年齢と同じ33歳のOLを演じている。30代前半というのは女性が一番美しい年齢である、というのが私の持論なのだが、もう時間が遅いし(午前3時半になろうとしている)、その理由については書かずに寝ることにする。
4.21(木)
昼間、研究室にK氏という人から電話があった。最初、誰だかわからなかったが、話を聞いているうちに思い出した。20数年前、私がまだ大学院の博士課程に在籍していた頃、M先生の調査実習で山梨県の西南湖(ニシナンゴ)という村落の調査をしたことがあって、私も一緒についていって勉強させてもらったのだが、K君(もうK氏からK君になっている)はそのときの20名の学生の一人だった。現在、テレビ大阪で報道の仕事をされているとのこと。で、電話の用件は、6月に調査実習クラスの同窓会をやりたいので出席してもらえますかという話。もちろん喜んで、とお答えする。当時の学生20名は全国に散らばっているが、にもかかわらず、15名ほどが出席できる見込みとのこと。卒業後20年でのこのまとまりはすごい。ちなみにK君の奥さんは同じ調査実習クラスのNさんで、私の記憶の中では二人はいつも一緒に文学部のスロープを歩いていたのである。
4.22(金)
3限の大学院の演習は私が「自伝の弁明」という題目で講義。明治40年前後の生まれの8人の自伝的著作を取り上げて(清水幾太郎、湯川秀樹、宮本常一、亀井勝一郎、高見順、太宰治、淡谷のり子、水谷八重子、円地文子)、人が自分の人生を世間に向かって語る(出版する)ときの弁明の仕方というものについて考えた。自分の人生を語りたいという誘惑とそれは恥ずかしいこと(あるいは、はしたないこと)であるという躊躇との間で、多くの自伝の著者は「はじめに」や「おわりに」の中で、あるいは本文の冒頭で、なぜ自分の人生を語るのかについての弁明を行っている。その弁明の内容、語り口に着目することで、自分の人生について語るという行為の意味が明らかになるだろうというのが講義のねらいである。資料を準備するのにかなりの時間を費やした。私の場合、いや、多くの教員もそうではないかと思うが、受講生の人数と授業の準備に要する時間というのは反比例するのである。少人数の授業(私の大学院の演習は7名)ほど、授業が双方向的になり、いろいろな方向に展開する可能性を秘めているので、こちらとしてもいろいろな方向に展開できる下準備をしておかないとならないからだ。結果的に、授業で実際に展開される内容は、準備した内容の一部でしかなくなるのだが、日の目を見なかった内容は私自身の養分として蓄積されるからそれはそれで構わないのである。
5限の調査実習では今後のグループ研究のためのグループを決めた。ポピュラーカルチャーの中に見られる「人生の物語」(その社会で支配的な「人生の語り方」)の分析を行っていくにあたり、「映画・TVドラマ」「小説・人生論」「音楽」「ブログ」「商品のキャッチコピー」という5つを対象領域として設定し、各自が所属するグループを決めてもらった。当初、「映画・TVドラマ」と「キャッチコピー」に人気が集中したが、そこはみなさん大人であるから、若干の調整の結果(授業を30分ほど延長しましたけどね)、最終的に各領域に満遍なく人員が配置された。グループの班長も決めてもらったが、女子が3人、男子が2人であった。これだけみると事情を知らない方は「リーダーシップのある女性が増えてきたんだな」と思うかも知れないが、むしろ要因は人口学的変数にあるのであって、受講生27名の男女比は7:20なのである。したがってジャンケンとかあみだ籤とかで班長を選ぶと、74%の確率で女性が班長になるのである。したがって5班のうち3班で女性が班長というのは、むしろ期待値よりも低い(60%)のである。これは班長がランダムに決まったのではなく、「班長は男子」という古風な規範を学生たちがまだいくらか引きずっているためと考えられる。こういう何気ないところにも「人生の物語」の形成要因は存在するのである。
4.23(土)
土曜日に授業が入っていると言うと、「大変ですね」と言われることが多い。週休二日制が定着した現代では、土曜日に働くというのは休日出勤のような印象を与えるのだろう。実際、国立大学(正しくは独立法人だが)には土曜日の授業はない。しかし早稲田大学文学部のようにやたらに科目の多い大学では、土曜日にも科目を配置しないと立ちゆかないのである。それに、学生はどう思っているか知らないが、私自身は土曜日に授業をすることは苦にならない。第一に、通勤の電車が空いている。第二に、キャンパスの空気が平日よりものんびりしている。第三に、大変じゃないのに「大変ですね」と言ってもらえて何だか得をしている感じがする。2限と3限、2つの講義を済ませた後、卒業生のT君が来室。一橋大学の木村元教授が編者の『人口と教育の動態史―1930年代の教育と社会』(多賀出版)という600数十頁もある分厚い新刊書を頂戴する。目次を見ると、T君が相当の分量を書いている。たぶん去年はこれにかかりきりだったのであろう。今年はいよいよ博士論文に取りかかる予定とのこと。週6、7コマの非常勤講師の仕事をこなしながらの執筆は大変だと思うが、頑張ってほしい。「カフェ・ゴトー」は、土曜日のせいだろうか、普段より混んでいて、われわれは最初二人用の小さなテーブルに座ったのだが、途中で大きめのテーブルが空いて、そちらに案内された。苺のタルトと紅茶。一足早い初夏の香りがした。
4.24(日)
今日、学生部学生生活課に以下のようなメールを出した。
担当者殿
文学部の教員の大久保孝治です。
毎年、調査実習でセミナーハウスを利用させていただいております。今年も前期試験終了直後の7月30日、31日、8月1日の2泊3日で鴨川ないし軽井沢のセミナーハウスの利用を申請する予定でおります。ただ、利用できるかどうかは抽選の結果(6月10日発表)しだいですので、毎回その時期はハラハラいたします(一作年度は当たりましたが、昨年度は外れました)。
窓口で伺ったことろでは、抽選にあたっては、授業での利用もサークルその他の利用も区別されないそうですが、「セミナー・ハウス」と言う名称の趣旨からすれば、授業(ゼミ)での利用が優先されてしかるべきではないかという思いがいつもいたします。
学期中に合宿を行いますと、学生たちに他の授業を欠席することを強要することになり、自分が担当している授業を合宿のために休講にするのとは違って、補講という処置もありません。ですので、私はいつも合宿は試験期間終了直後(夏期休暇あるいは冬期休暇に入った直後)に実施しているのですが、抽選という不確実な要素のため、授業計画が頓挫するリスクがいつもあります。
抽選結果の発表は6月10日ですが、申請の締切が5月20日であることを考えると、もう少し早くに発表していだけないものかとも思います。抽選に外れた場合、ただちに代替の施設を探し、申し込まないとならないわけで、そのためには一日でも早く結果がわかるとありがたいのです。セミナーハウスの抽選に外れ、しかし、他の安価に利用できる施設はすでに予約でいっぱいというのがわれわれが一番避けたい事態です。
今後のこともありますので、(1)セミナーハウス利用の授業優先の件、(2)抽選結果の発表時期を早める件、どうかご検討いただきたくお願い申し上げます。
4.25(月)
学生生活課の方から昨日のメールへの返信をいただく。お忙しいところありがとうございました。概ね了解いたしました。
明日、文化構想学部のある論系の準備委員会があり、私も出席するのだが、いつも非常に長時間の会議になるので、私なりに論点を整理した意見表明のメールを準備委員会のメンバーに前もって出しておくことにした。長い、長いメールになった。文化を構想する前に、まずは自分が所属するであろう論系を構想しなければならない。そのメールを書きながら、なんだが維新の志士のような気分になった。
居間の室内ホンがピンポンとなった。私は階下の両親からのものと勘違いして、受話器に向かって「なんだい?」と言ってしまったが、それは玄関で新聞の集金人が鳴らしたものだった。いや、失礼しましたと言いながら、玄関に出て、今月の新聞代を支払う。失礼ついでに「何か展覧会のチケットはありませんか?」と図々しく尋ねる。ものは言ってみるもので、鞄からいろいろな催し物のチケットが出てきた。でも、一種類2枚だけということだったので、損保ジャパン東郷青児美術館で開催中の「魅惑の17-19世紀フランス絵画展(南仏モンペリエ ファーブル美術館蔵)」のチケット2枚を頂戴することにした。モンペリエは社会学の祖といわれるオーギュスト・コントの生地である。もっともそのことのためにこのチケットを所望したのではなく、チケットに描かれたギュスターヴ・クールベの「出会い、こんにちはクールベさん」(1854年)という絵が昔から好きだったのと、東郷青児美術館(新宿の損保ジャパンビルの42階にある)にまだ行ったことがなかったからだ。天気のいい日に行ってみることにしよう。
JR福知山線の列車脱線事故のニュースを見たり、読んだりしていて、印象に残ったことを2つ。第一、「笑っていいとも」の放送中、何度も画面にニュース速報の文字が出て、その度に死者の数が増えていったが、番組は中断されることはなく、いつもと同じ笑いやギャグが展開されていた。溢れる笑いと増加する死者の数値。何かの我慢大会を見ているようであった。第二、脱線事故の直前、JR西日本の指令室はオーバーランで生じた電車の遅れについて運転士を2度無線で呼び出したにもかかわらず、運転士はそれに応答しなかったという。運転士は遅れを取り戻そうと制限速度よりも速い速度で運転していた可能性が強まっているが、JR西日本は「遅れを回復するよう、指令所からは指示していない」としている。この2つの事実は明らかに矛盾している。コミュニケーションには言語的なもの(バーバル・コミュニケーション)と非言語的なもの(ノン・バーバル・コミュニケーション)の2種類がある。われわれの生活において言語的なコミュニケーションはコミュニケーション全体の一部に過ぎず、大部分は非言語的なコミュニケーションなのである。運転士が応答しなかったという指令所からの2度の無線は、「電車が遅れているが、一体どうしたんだ。至急、遅れを回復せよ」というメッセージとして運転士に伝わっていたことは明らかである。言葉でストレートに指示していないから指示はしていないのだという考えは間違っている。フジテレビはニュースの速報性よりも視聴率を優先し、JR西日本は安全運転よりも時間厳守を優先したのである。
4.26(火)
午後、戸山図書館運営委員会と文化構想学部関連の委員会。会議中、突然の雷雨。窓の外をしばし眺める。しかし、会議の方も波乱含みの展開で目が離せない。由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ故意(恋)の道かな。夜、高田馬場の「AND TOKYO」で卒論ゼミのコンパ。この時期、彼らの話題の中心は就活である。一人だけ、卒論におけるオリジナリティの問題で悩んでいる学生がいたので、「どんなに多くの人がすでに論じている問題であっても、あなたがその問題と取り組むという事態は、史上初めてのことなのだ」とアドバイスをする。
4.27(水)
H君から関東地方と東北地方の境目付近にある大学にこの4月から専任講師として就職することになりましたという葉書が届いた。H君は私が早稲田大学で最初に教えた学生の一人で、今年で31歳になる。さっそくお祝いのメールを出したら、すぐに返信のメールがあって、「実は、婚約もしました」と書かれていた(婚約が先で、その後で急に就職が決まったのだという)。もしかして、実は、もうすぐ父親にもなります、って言うんじゃないだろうな。それにしても、定職と婚約者とを同時に手に入れるなんて、この幸せ者が! T君(H君の同級生)、どう思います? でもね、もしかしたらこれがH君の人生のピークかもしれない(笑)。ちなみに彼が就職した大学のホームページの教員紹介に載っているH君の頁を覗いてみたら、〈受験生へのメッセージ〉として「後悔しない人生を送ろう!」と書いてあった。あ、熱い! は、恥ずかしい! 私は早々にその頁を閉じたのであった。
4.28(木)
夏日の一日。ジャケットを着て家を出たものの、ホームで電車を待っているときには脱いで肩に担いでいた。このまま夏休みに突入するのだったらどんなにか素晴らしいだろう。5限の卒論演習では4人の学生が報告。これで春休み中の進捗状況の報告は全員(12名)が終了。連休明けから本格的な報告(毎回2人ずつ)が始まる。各自の報告内容については「講義記録」にアップロードしていく予定。7限の社会・人間系基礎演習4は3回にわたる社会学入門講義が今日で終わり、連休明けからテキスト(ギデンズ『社会学』)を使った講義とグループ発表に入る。全員(33名)ワセダネットのアドレスを取得したが、今日の時点で、クラスのBBSにまだ書き込みができない者が4名、私が出したメールに対して返信がない(メールを開いていないか、返信の仕方がわからない)者が14名いる。BBSとワセダネットの使い方について再度説明する。とにかく連休明けまでに全員がこれらのコミュニケーション・ツールを使えるようになることが、基礎演習を運営していく上での最初の課題である。ここをちゃんとやっておかないと、クラスやグループの活動から孤立する学生が出てしまう。ちなみに今日、自分がチューターを担当する2年生4名の名簿を事務所から渡されたが、その中の一人はいまだにワセダネットのメールアドレスを取得していない。学生にはメールで連絡をお取り下さるようお願いしますと書類に書いてあるが、メールアドレスのない学生にどうやってメールを出したらよいのだろう。
4.29(金)
ゴールデンウィークが始まった。今日も夏日である。まるで夏休みが始まったような錯覚を覚える。ウチはまだ衣替えをしていないので、着る物に困る。しかたがないので半袖のアンダーシャツ一枚で机に向かっていた。例年のことだが、ゴールデンウィークはたいてい自宅で過ごす。何処へ行っても混んでいる時期にわざわざ外出などするものではない。というのは半分強がりで、実際は、連休中に片付けねばならない仕事(本当はもっと早く片付けねばならなかった仕事)が山積しているのである。片付けても片付けても山はなかなか低くならないが、片付けるのを止めると山は確実に高くなるのである。要するに仕事を片付けるペースと新しい仕事が入ってくるペースが同じなのである。よって仕事の山は一種の定数のようにそこに存在し続けるのである。山を低くしたかったら、驚異的なペースで仕事を片付けるか、新しい仕事が入ってくるのを止めるしかないが、そんな無理をしてまで山を低くすることもあるまい。「そこに山があるから登るのだ」とエドモンド・ヒラリーは言った。「飛ばねぇ豚はただの豚だ」と『紅の豚』の主人公は言った(関係ないがちょっと引いてみたかった)。ベランダに腰を下ろして初夏の空を見上げる。
4.30(土)
連休の谷間であるが、休講にはしない。休みたい学生が休めばよいだけのことである。2限と3限の講義を終えて、帰りがけに生協文学部店に立ち寄ると、草野先生がいらしたので、先日頂戴したフレーバーティー(神楽坂にある「Janat」というお店の品)のお礼を申し上げる。片腕に本を5、6冊抱えておられ、「連休中に読む本を物色中なんです」と言いながら、その中から1冊を抜き出して、「これなんかいかがですか?」と私に手渡してくれたのは、J.M.クッツェーの小説『恥辱』(早川書房)だった。タイトルは何やらフランス書院文庫あたりの官能小説みたいだが、クッツェーと言えばノーベル文学賞作家だし、本書も彼自身二度目となるブッカー賞受賞作である。読み応えのある作品に違いない。帯に「52歳。大学教授。離婚歴2回。中年男がたどる悔恨と審判の日々。」と印刷されている。「離婚歴2回」以外はまるで自分のことのようである。せっかくの草野先生のお薦めなので購入することにした。他に、K.J.ガーゲン『社会構成主義の理論と実践』(ナカニシヤ書店)、坂本佳鶴恵『アイデンティティの権力』(新曜社)、細辻恵子『揺らぐ社会の女性と子ども』(世界思想社)、鈴木邦男『新右翼(改訂増補版)』(彩流社)、芦原由起夫『東京アーカイブス』(山海堂)、『伊丹十三の本』(新潮社)などを購入。店内にはモーツァルトのピアノ協奏曲20番が流れていて、心地よい緊張感があった。