フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月30日(金) 曇り

2024-08-31 13:46:14 | Weblog

7時45分、起床。

一階の雨戸を開けると、チャイが出窓のところに座った。「これでよろいですか?」

チーズトースト、目玉焼き、ソーセージ、サラダ、牛乳、珈琲の朝食。

本日の朝ドラ。航一の娘が怒鳴り、泣き、心を開く。連鎖反応で義母も真情を吐露した。これで星家の問題は解決した。

最近、必要があって清水幾太郎『社会的人間論』を読み返したのだが、その中で、家族集団についてこんなことが書かれていた。

「家族集団の内部にある暗さが存在する場合、それがいかに微妙なものであっても子供に影響せぬことはまれであると言わねばならぬ。(中略)一般に他の人間の内部を洞察することができず、あるいは逆に他の人間によって自己の内部を理解されぬ場合の苦悩が問題になるにもかかわらず、真に深い苦悩は相互にその内部を理解しうる場合に生じるものである。他の人間の内部が明らかに洞察されかつそこに自己の欲求とは反対の動きが見られ、しかも強い愛情をもってこの人間と結びつけられている時、他の人間の内部は自己に対して環境としての重圧を帯びてくることを避けえない」。

社会学者ジンメルを彷彿とさせる哲学的な文体であるが、考察の内容は田山花袋が『生』三部作で描いたような家族の重く暗い側面である。家族は卑近と言えばこれ以上ないほど卑近なものであるが、人生問題の大半はここに発するのである。

卒論の参考文献として大学3年生の頃に読み、そのときの書き込みの残っている角川文庫版で読み返したのだが、活字が小さい小さい。よくこんな小さな字を読んでいたものである。

1時を回った頃、昼食を食べに出る。

下丸子の「喜楽亭」に行くことにする。月イチで行っているのだが、今月はまだ行っていない。

ホームに置かれている東急沿線情報誌『SALUS』の最新号を手に取る。

下丸子に住んでいる人や職場のある人で駅の改札の横のこの建物を知らない人はいないだろう。でも、「喜楽亭」の暖簾をくぐったことのある人は少ないだろう。レトロというよりも廃屋の雰囲気が漂っているからだ(笑)。

注文をしてからテーブルの上で『SALUS』を開く。「沿線街さんぽ」のコーナーは大井町線の「上野毛・等々力」だった。6月に卒業生のユリカさん(with長女ホノカちゃん)とカフェ巡りをした街である。

いつものチキンカツ定食(1100円)。

いつものようにご主人とおしゃべりをしながら食べる。

普通の食堂なら30分ほどで店を出るところだが、「おしゃべり食堂」なので滞在時間は1時間。私にとってはカフェみたいな食堂である。

蒲田に戻って、今日が今季のピーチメルバの提供される最後の日である「まやんち」に顔を出してみようかとも考えたが(予約はしていないのでベンチに座って待つことになるだろう)、駅の構内で売っている「梅園」のあんみつを2つ買って帰ることにした。

台風の直接の影響ではないが、雨模様の空である。

昼寝をしていた妻に声をかけて、あんみつを食べる。「ピーチメルバを一人で食べるより、あんみつを二人で食べる方がいいかなと思って」というと、妻は涙ぐんだ(嘘です)。「私も家族の一員ですよ」とチャイがテーブルの上に上がって来た。

あんみつは「組み立て式」である。

チャイは黒蜜の容器をなめている。

夕刊の一面が再び「金」の記事になった。パラリンピックが開幕したのだ。

夕食はカツオのたたき、玉子豆腐、豚汁、ごはん。

戻りカツオの季節になった。

食事をしながら『新宿野戦病院』第9話(録画)を観る。聖まごころ病院ではめったにしないカンファレンスで、各医師が担当したケースが報告されるという形式の回だった。「戦士たちの休息」のひと時という雰囲気であったが、ドラマの最後で時代が「2025年」に飛び、新たな感染症(コロナよりも恐ろしいルミナ)が日本を襲う日々が描かれることが予告される。新宿で「ルミナ」ですか。そのネーミング、大丈夫なの?(笑)

原稿は一頁(A4)進んだ。明日で第二章が書き終わるだろう(だといいな)。

風呂から出て、今日の日記は付けず(それをしていると2時を回りそうだったので)、寝ることにした。

1時50分、就寝。


8月29日(木) 曇り、夕方から雨

2024-08-30 12:44:43 | Weblog

8時、起床。

一階の雨戸を開けに行く。チャイは和室のテーブル(掘り炬燵」の上に寝ていた。

雨戸を開ける(3か所ある)。

あくびをする。

かわいこぶってみる。

思いきり伸びをする(猫背の矯正)。

「今日も生きて行くニャン」

「今日も生きて行くケロ」(カエルは私が器の水を取り替える間もその場所を動かない)

朝食の前にチャイを抱っこして玄関先に出て、道行く人たちとずいぶん挨拶や会話を交わした。お向かいに住む小さな女の子とお母さん、同じく小さな男の子とお父さん、ご近所の中国系のご婦人。インドかパキスタンが出自と思われる若い女性(彼女は「チャイ!」とチャイに話しかけて頭を撫でるが、私は彼女の名前を知らない。勝手に「サラ」と思っている)。

今日も生きて行くために、チーズトースト、目玉焼き、ソーセージ、サラダ、牛乳、珈琲の朝食。

今日の朝ドラ。突然(でも予想通り)、星一家に変化が。まず息子が心を開いた。でも、娘の方は頑なだ。

今日のブログを書く。

村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をキンドルで購入。新潮文庫の上下合本版で1661円。出版されたとき(1985年6月)にすぐに読んだが、以来40年、読み返したことはない。短編小説のよいところは気軽に読み返せるところだが、長編小説となるとそうはいかない。それは定年後の楽しみにとっておいたのだが、書庫に眠っている本たちはいまの私には活字が小さくて読み難い。宝の持ち腐れとはこのことだ。そこにキンドルという救世主が現れた。しかし、新たに購入しなおさなくてはならなくなったのは、老後の年金生活にとっては大きな誤算であった。文庫本価格で買えるとしても、文庫本そのものが昔に比べてずいん高くなっている。

1時半ごろ、昼食を食べに出る。

矢向の「ノチハレ珈琲店」へ行こう。

駅前の八百屋兼果物屋は閉店してしまった。お隣の二階建ての店舗(何だったかな)のシャッターも下りたままだ。いずれビルが建つのだろうが、この小さな駅に高いビルは似合わないだろう。

古い矢向の商店街を歩く。横断歩道は塗り替えの途中である(ですよね?)。

「ノチハレ珈琲店」には水曜日に来ることが多いが、昨日は自宅でコンビニおにぎりを食べながら王位戦を観戦していたので、今日になった。

空いているカウンター席に座る。キンドルを置いて、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読み始める。村上春樹の小説では知らない人から電話がかかってくるという場面がよくあるが、この傍らの電話は飾り物で、鳴ることはない。でも、かかってきたら面白いだろう。「もしもし。大久保孝治さんですか」「はい。どちらさまですか」「羊男です」とかね。

店内の冷房は弱めだったので、バッグから扇子を取り出して使う。大田区のゆるキャラ「はねぴょん」が隠れている。卒業生のユウコさんからいただいたものだ。重宝しています。

マヨたまトーストと梅ソーダ。これ以外の注文は考えられない。梅ソーダにレモンの輪切りを入れて飲むと美味しいというのはここで知ったのである。

デザートは何にしようかと考え、結局、デザートではなく、季節のジャム(ラズベリー)のトーストとアイス珈琲を注文した。パンが美味しいのである。

 「エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた。おそらくエレベーターは上昇していたのだろうと私は思う。しかし正確なところはわからない。あまりにも速度が遅いせいで、方向の感覚というものが消滅してしまったのだ。あるいはそれは下降していたのかもしれないし、あるいはそれは何もしていなかったのかもしれない。ただ前後の状況を考えあわせてみて、エレベーターは上昇しているはずだと私が便宜的に決めただけの話である。ただの推測だ。根拠というほどのものはひとかけらもない。十二階上がって、三階下り、地球を一周して戻って来たのかもしれない。それはわからない」(「1 ハードポイルド・ワンダーランド(エレベーター、無音、肥満)より)。

 主人公(ハードボイルド・ワンダーランド」篇の)がエレベーターに乗っているシーンから物語が始まるということは覚えていた。でも、覚えているのはそれだけで、主人公がエレベーターの中でズボンの左右のポケットに入っっている小銭の数(金額の合計)を左手と右手で同時に数えているシーンや、エレベーターのドアが開いて若くて美しくて太った女に先導されて廊下を歩いてゆくシーンのことは、全く覚えていなかった。

 「秋がやってくると、彼らの体は毛足の長い金色の体毛に覆われることになった。それは純粋な意味での金色だった。他のどのような種類の色もそこに介在することはできなかった。それは純粋な意味での金色だった。他のどのような種類の色もそこに介在することはできなかった。彼らの金色は金色として世界に生じ、金色として世界に存在した。すべての空とすべての大地のはざまにあって、彼らはまじりけのない金色に染められていた」(「2 世界の終わり(金色の獣)」より)。

 「世界の終わり」篇が主人公の住む街に生息する一角獣の話から始まることを私は覚えていなかった。しかし、その語りには既視感があった。去年出た村上春樹の最新長編『街とその不確かな壁』の世界がそこに広がっていたからだ。先日、『村上春樹 雑文集』で読んだ筆者自身の解説では、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』はアクションに満ちた都会の物語と高い壁に囲まれた静謐な街の物語が交互に語られる小説なのだが、私にとっては、それに加えて、新しい(すっかり忘れていた)物語と親しみのある物語が交互に語られる小説になるだろう。

入ったときは混んでいたが、出るときは私の他に客はいなかった。支払いは1920円だった。

矢向駅の構内に貼られた観光ポスター。「秋は短し 旅せよ岩手」。岩手の秋は短い(すぐに冬になる)ことを詠んだキャッチコピーだが、近年は日本全国秋が短いのではないだろうか。

帰りに品川の駅ナカ(エキュート)で鳩サブレーを買って帰ろう(なんと川崎には売っている店がないのだ)。

品川駅のエキュートはエリアが分かれている。豊島屋が入っているのは、こっちではなく(ダロワイヨのマカロンはこっち)、

こっち。

10枚入り(簡易包装)をゲット。

帰宅して袋から鳩サブレーを取り出すと1枚割れていた(左上)。袋はいりませんと言ってバッグの中に入れたのだが、何かに当たって割れたのだろう。箱なしで買うときは袋に入れてもらったほうがよいという教訓だった。群れで生きる生き物たちは集団全体が生き残るために犠牲になる個体がいるものだが、それを思い出した。割れた鳩サブレは供養だと思ってすぐに食べた。

夕食はサーモンのソテー 野菜クリーム掛け、鮪と昆布の佃煮、蕪の味噌汁、ごはん。

食事をしながら『プレバト』を追っかけ再生で観る。俳句のレギュラー陣と小中学生の対決。高校生の俳句甲子園の優勝校との対決を以前やっていて、あれはなかなか面白かったが、こちらは面白くない。作品そのものもそうだが(器用ではあると思うが大人びているというだけのこと)、大人たちが小中学生を持ち上げているところが興ざめだった。

デザートは巨峰。

原稿(論文)はあまり捗らなかった。今回の台風と同じで速度が遅い。

風呂から出て、今日の日記を付ける。

2時半、就寝。


8月28日(水) 晴れ

2024-08-29 12:30:43 | Weblog

9時、起床。

目が覚めた時、耳鳴りが大きくなっていた。今回の潜在期は12日間続いた。いつもこんなものである。これから顕在期がいつまで続くのかというと、これは2カ月から4カ月とばらつきがある。冬の長い地域での生活のようである。ただ、直近の顕在期は3週間ほどと短かった。これにはちょっと驚いた。この調子で、潜在期と顕在期の差が小さくなってくれたらありがたいのだが、さて、今度の顕在期はどのくらい続くだろうか。

チーズトースト、目玉焼き、ソーセージ、サラダ、牛乳、珈琲の朝食。

王位戦五番勝負第二局の二日目である(午前9時から対局再開)。30分単位で解説と聞き手が交代するが、いまの時間帯は田村康介七段と加藤結季愛(ゆりあ)女流二段。ずいぶと体のサイズが違う。

盤面は後手渡辺の手番。形勢はAIの判断では先手藤井がいくらか指しやすい。金で角取りになっているが、4四角とは引けない(2四飛で角取り桂取りの十字飛車)。AIの予想手は7三桂と繰り出す手(実際そうなった)。

対局を観戦しながら昨日のブログを書く。

先手藤井が5四歩と打ったところで昼食休憩に入る。

近所のコンビニい昼食を買いに行く。

おにぎり2個とデザートに白玉クリームぜんざい。おにぎりは紙で包装されて高級感があるが、取り出してみると海苔で包まれていないのである。これはちょっとがっかり。

クリームはなくてもいい。

合計626円。昨日は鰻重で3100円したが、二日間の平均は1863円。贅沢と倹約、こうやって何とか帳尻を合わせているところがある。

「昼食代1863円はまだ高いのではないかと思いますが・・・」

盤面は先手藤井が飛車を切った直後に6四歩と打ったところ。4二角を推奨していたAIはこれを緩手とみて形勢は互角に戻った。

しかし、後手が5二銀と引いた手に、先手の9六角が攻防に利かした手で、やむを得ぬ8五歩に7四銀と打って再び藤井の指しやすい局面になる(次に8三銀と打って飛車を捕獲するねらいがある)。おそらくここで渡辺は負けを覚悟したと思う。

渡辺は2八飛と打ち、8三銀打ちには同飛、同銀成と飛車銀交換に甘んじて、5七銀と攻め合いを目指したが・・・。

藤井は冷静に3九角と打った。飛車銀取りである。ここから5八銀不成、2八角、6九銀不成の王手には8八玉と交わした。後手は金を3枚手にしたが、先手の玉は詰まない。

盤面は先手が7四桂と打ったところ。

ここで渡辺は投了した。これで藤井の4勝1敗となり、タイトル防衛が決まった。同時に、五連覇で永世王位の資格も得た。永世王位はこれまで3人しかいない。大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、羽生善治十九世名人である(十七世名人の谷川浩司、十八世名人の森内俊之は永世王位ではないのだ)。藤井聡太がいずれ二十世名人の座に就くことがこれで確実に予告されたようなものである。

「きりん珈琲」に珈琲豆を買いに行く(事前に電話で焙煎をお願いしておいた)。

きりんブレンド180グラム(1100円)。中煎りである。

夜風に吹かれての散歩が気持ちよい。

夕食は親子丼、味噌汁。

食事をしながら『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だったんだ』第3話(録画)を観る。やっぱり河合優実はいい。昨年、BSで放送したものの地上波放送だが、今期の夏ドラの中に入れるとすると、トップを争う作品である。

デザートはルビー・グレープフルーツ。赤いものは、オレンジの場合はブラッドだが、グレープフルーツだとルビーと呼ぶそうだ。

「きりん珈琲」の店主さんからは「焙煎後2日寝かせてからお飲みになるのがベストです」とアドバイスされたが、もう珈琲豆は切らしているので、さっそく淹れる。一杯分の豆は10グラムで、「きりん珈琲」では180グラムを単位で購入しているので、18回分かというとさにあらずで、180グラムというのは生豆の重さで、焙煎すると150グラムくらいになるので、15回分くらいなのである。

挽くのは機械で。

お湯を注いでふっくらと盛り上がる感じがなんとも言えずいい。

ポテチをお供に。

原稿(論文)を書く。今日はA4一頁分書けた。まずまずかな。

風呂から出て、今日の日記を付ける。

2時半、就寝。う~ん、1時間遅い。


8月27日(火) 晴れたり曇ったり

2024-08-28 13:49:15 | Weblog

7時半、起床。

理想的な起床時間だ。すぐに一階の雨戸を開ける。これで駅に向かう人たちが出窓にいるチャイを見ることができる・・・かというと必ずしもそうではない。チャイは縫いぐるみでも置物でもないから、いつも出窓のところにいるわけではない。だからチャイを見られると「ラッキー」なのである。動物園のパンダみたいなものである。道行く人たちがチャイを見ることのできる一番確実な方法は、毎朝、一定時間、私がチャイを抱っこして玄関先に立っていることであるが、そういう「猫地蔵」みたいなマネはできそうもない。「猫地蔵」ならまだご利益がありそうだが、「妖怪猫爺(じじい)」なんてことになったら目も当てられない。いまだってすでに近所の子供たちには「猫を抱っこして散歩しているおじさん」として認識されているのである。好感度は高いようだが、そのうち、「ダメ、みちゃいけません」と母親が子供に小声で注意したりするようになるかもしれない。人気なんて水ものなのだ。

チーズトースト、目玉焼き、ソーセージ、サラダ、牛乳、珈琲の朝食。

今日の珈琲カップはいつもよりも一回り大きい。珈琲豆が中途半端に残りそうだったので、全部使ってマグカップに淹れたのだ。作家は同じ田中一光。マグカップの方が青味が強い。マグカップは2個あるので、お盆休みに娘が来たときに1個あげようかと思ったら、娘はさらに大きなスープカップを持って行った。

朝刊に三鷹市が太宰治の直筆原稿を購入したという記事が載っていた。三鷹は太宰が晩年、住んでいた土地である。「雀」という短編小説で200字詰め原稿用紙38枚。購入価格は880万円とのこと。9月1日から29日まで三鷹駅前の市美術ギャラリーで展示されるそうだ。38枚全部を並べる形で展示するのだろうか(だといいけど)。200字詰めの原稿用紙(「半ペラ」と呼ばれていた)というのは私たちにはあまり馴染みのないものだが、作家や記者などがよく使っていた。400字詰めに較べて広げるスペースが狭くて済むし、書き損じて丸めて捨てるときも小さな無駄ですんだ。それに執筆がはかどる感じ(今日は何枚書いた)もよかったのかもしれない。いまはみんなパソコンで原稿を書いている。A4の書式で書くと、一頁はワードの初期設定では40字×36行で、400字詰め原稿用紙換算で3.6枚に相当する。一頁分書くのはなかなか大変なのだ。

今日は王位戦5番勝負の第5局の一日目。アメバTVの中継を観ながら、昨日のブログを書く。

一日目の午前中だか、いきなり激しい展開になった。盤面は後手の渡辺が8六銀と打ち込んところ。先手には歩がないので、同歩、同歩と進むと、8八歩と受けることができない。なので6六銀と交わして攻め合いを目指すか(飛車がこのままでは攻めに参加できないので、どこかで2八飛の一手が必要になる)、8八銀打ちあるいは7八銀打ちとガッチリ受けるか(ただし千日手の可能性が出てくる)の判断を迫られている。形勢は互角。このまま昼食休憩に入った。

私も昼食を食べに出る。

近所の蕎麦屋「吉岡家」に行くので、Tシャツ、半パン、サンダルである。

床屋の前を通ると「夏休みやる事ないなら散髪へ!!!」と書かれた黒板が出ていた。社会人の夏休み(お盆休み)はもう終わったよね。

久しぶりの「吉岡家」。

注文を済ませて、キンドル・スクライブをバッグから出して、『村上春樹 雑文集』を読む。いよいよ読み終わる。

ランチセット(750円)から、もり蕎麦、目玉焼き(半熟)、ごはん(軽め)の組み合わせをチョイス。

主菜にはアジフライとか唐揚げとかいろいろあるのだが、目玉焼きを選んでいる客はめったに見かけない。もしかしたら私ぐらいかもしれない(そんなことはないとは思うが)。

半熟で焼いてもらって、ごはんの上に載せて、醤油をかけて食べるのが好きなのである。こういう食べ方をしている客は、これは間違いなく、私しかいない。お店の方は見て見ないふりをしている。武士の情けみたいな感じで。

帰り道、パン屋と電気屋があった空き地が更地になって、囲いができている。マンションが建つのだろう。

将棋の方は、昼食休憩前の局面から、先手藤井が8八銀打ちと受け、後手の7七銀に同玉と顔面で受けた。一目、後手からの8六歩が怖いが、同歩、同角に7八玉と引いて受かると読んでいる。

以下、5五角、6六歩、5四金(!)、2八飛、6四歩と進み、ここで先手藤井が次の手を封じた。残り時間は同じで、形勢は藤井が少し指しやすい(AIの判定)。

皮膚科に吹き出物(ニキビ)の様子を見せに行く、塗り薬+飲み薬を一週間続けたが、大して小さくなっていない。切るか(形成外科)か液体酸素で取るかですねと言われる。そうまでしなくてもと思ったので(医師もそう思っているようである)、しばらく様子を見て、考えますと答える。

夕食はサンマの塩焼き、蓮根と挽肉の炒め、ポテトサラダ、味噌汁、ごはん。

初さんまである。二尾で500円したそうだ。目黒のサンマ祭りでも塩焼きを振舞うのは(コロナ禍依以来)中止になっているそうだ。さんまの価格の他に祭りの実行委員の高齢化ということがあるようだ。秋刀魚焼く昭和も遠くなりにけりである。

食事をしながら『ブラック・ペアン』第7話(録画)を観る。今回も医師会会長選挙がらみの公開オペ。シーズン2は公開オペの連続で、いささか食傷気味である。なにより患者がよく同意するものである。

原稿(論文)を書く。昼間も対局中継を無音で観ながら、書いてはいたが、捗らなかった。それは気が散っていたからではなく(それもあったかもしれないが)、今日は「書く」フェーズではなく「考える」フェーズだったからである。明日は「書く」フェーズになると思うが、対局も二日目(勝負の決する日)だからな・・・。原稿を書く私と対局を観る私、二人いるといいのだが。昭和の子どもなら「パーマン2号がほしい」というところだ。

風呂から出て、今日の日記を付ける。

1時半、就寝。


8月26日(月) 晴れ

2024-08-27 12:39:28 | Weblog

7時50分、起床。

出勤で駅に向かう途中で我が家の前を通るとき、出窓にいるチャイを見るのを楽しみにしている人たちがけっこういるようなので、7時半くらいに起きて、一階の雨戸を開けたいと思うのだが、なかなか起きられない。妻は私より早く起きて、玄関先の薔薇に水をやったりしているから、そのときに雨戸も開けてくれるといいのだが、「一階の雨戸を開けるのはたかじさんの役目」と言って聞いてくれない。いつからそういう役割分担ができたのかわからないのだが、雨戸全部ではなくせめて出窓のところだけでもとお願いするのだが、ダメなのである。頑なであり、お役所的である。

チーズトースト、目玉焼き、ソーセージ、サラダ、牛乳、珈琲の朝食。

今日の朝ドラ。星家での同居生活が始まった。「家族らしさのない家族」である。「家族らしさ」を意識的に避けている雰囲気がある。とくに二人の子供がそうである。小さな頃から「家族らしさ」を経験してこなかったので(たぶんそれは航一が「父親らしさ」に欠けていたからだろう)、家族らしく振舞うことにわざとらしさを覚えてしまうのだろう。われわれは皆それぞれの家族でホームドラマを演じているのだが、ものごころついたときにはもう「子役」として舞台に立っているので、不自然さを感じないだけである。それでも思春期になれば、「家族って何?」「うちの家族って変じゃない?」と自分が演じているホームドラマに違和感や反発を感じるものである。家族の演技性に気づくのである。星家のギクシャクは、本来、そう簡単にはなくなるものではないが、朝ドラなので、これを毎朝観るのはつらいから、「劇的に」解消される可能性がある。

昨日のブログを書く。

一服してから、原稿(論文の第二章)の執筆を始める。一山越えた直後なので、順調に進む。先週の停滞が嘘のようである。

今日も雲の動きは大きいが、基本的に青空の多い空である。

2時過ぎに昼食を食べに出る。「寿々喜」で鰻重を食べようと思う。夏バテ対策だが、鰻を食べようと思う時点でそれほど夏バテはしていないのではないかと思わないではない。「寿々喜」は7月8日以来である。毎月、一度は訪れたい店である。ちなみに今年の土用の丑の日は7月24日と8月5日だった。そのあたりは混むので、あえて近寄らない。

お昼時を外したこともあり、店内に客はいなかった。赤重を注文して、焼けるのを待つ間、キンドル・スクライブで『村上春樹 雑文集』を読む。飲食店に入ったときに少しずつ読んできたが、そろそろ終わりに近づいている。最後のセクション「小説を書くということ」に入っている。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のロシア語版のための序文の中でこんなことを書いている。

 「僕は二つの世界を並行して、かわりばんこに書き進めていった。つまり奇数章に「ハードボイルド・ワンダーランド」を書き、偶数章に「世界の終わり」を書き、ということだ。今にして思うと、僕はそれぞれの章を書くときに、身体の中の別々の部分を使っていたような気がする。(中略)たとえば「世界の終わり」を書くときは僕は自分の右側の幻想の中に沈潜する。これはひどく静かな話だ。物語は高い壁に取り囲まれた狭いひっそりとした場所で進行していく。人々は寡黙に通りを歩み、あたりの音はいつもくぐもっている。それに比べると、「ハードボイルド・ワンダーランド」の部分はアクションに満ちている。スピードがあり、暴力とユーモアがあり、鮮やかな都会生活の光景がある。その世界は僕の左側の幻想の中にある。これらのまったく異なった世界を代わりばんこに書いていくというのは、僕にとって(僕の意識の運営にとって)きわめて心地よいことだった。(中略)そのようにして毎日、左右の脳と筋肉を動かしつつふたつの対照的な物語を書き進めているうちに、だんだんそのふたつの物語が共振性を帯び始めてくるのがわかった。つまりひとつの物語の中に存在する何かが、もうひとつの物語の中に存在しているべつの何かと、自然で自発的な結びつきのようなものを持ち始めてきたのだ。これは僕にとってとてもスリリングで楽しい成り行きだった。うん、これでなんとかいける、と僕は確信した。」(「自分の物語と、自分の文体」より)

「赤重」が運ばれてきた。「赤重」はこの店独特の符丁で、「鰻重の上」の意味である。多くの客がこれを注文する。3100円は鰻重の上としては安い。

うまい。ペロリと食べてしまった。

鰻を食べた後は「テラス・ドルチェ」で珈琲を飲むのだが、今日はまっすぐ帰宅した。

昼寝をする。

それから夕食までの間、原稿を書く。

夕食は豚肉生姜焼き、サラダ、タラコ、味噌汁、ごはん。

食事をしながら『降り積もれ孤独な死よ』第8話(録画)を観る。顔に傷のある男の正体はわかった(わかってしまった)ような気がする。そういう視聴者は多いのではないかしら。

チャイの毛玉取りをした後、妻が買ってきたソフトなパウンドケーキを食べる。

夕食後も原稿書き。今日はずいぶん捗った。しかし、明日はそうはいかないような気がする。考える→書く→考える→書くというサイクルなのだが、明日は考えることの多い日になるだろう。

風呂から出て、今日の日記を付ける。

1時半、就寝。