フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月30日(火) 小雨

2008-09-30 23:59:02 | Weblog
  秋学期は昨日から始まったのだが、月曜日は担当の授業がないので、今日が私にとっての秋学期のスタートだ。8時半に起床し、9時半に家を出る。最初の授業は演習「現代社会とセラピー文化」。履修者は29名で、欠席者はなし。全員が現代人間論系の学生である。演習には自己紹介が欠かせない。「○○です。よろしくお願いします」だけではだめ。プラス・アルファで何かを語ること。とにかく演習はプレゼンやディスカッションの訓練の場である。話下手であろうが、引っ込み思案であろうが、だからといって「じゃあ、黙ってていいよ」というわけにはいかない。話下手は話下手なりに、引っ込み思案は引っ込み思案なりに、努力してもらう。べらべらしゃべらなくても、印象に残ること、面白いこと、鋭いことは言えるのである。何事も練習です。とにかく人前で語るという行為の心理的ハードルを低くしていきたい。
  昼食は「西北の風」で。本日の日替わりはハンバーグですと勧められたが、昼食には重いので、パスタメニューから完熟トマトと茄子のシチリア風を注文(+サラダ、珈琲)。一人だったので窓際のカウンター席に誘導されたが、地上15階からの眺めは「西北の風」ならではである。

           
                  早大正門通りの並木

  食事を終えて戸山キャンパスに戻り、生協で以下の本を購入。教科書コーナーで見かけて面白そうだったので購入した本が多い。

  中野隆生編『都市空間の社会史 日本とフランス』(山川出版社)
  源川真希『東京市政』(日本経済評論社)
  東浩紀・北田暁大『東京から考える』(NHKブックス)
  粟谷佳司『音楽空間の社会学』(青弓社)
  阿部潔・成実弘至『空間管理社会』(新曜社)
  稲葉振一郎・立岩真也『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス)
  鈴木晶『バレエへの招待』(筑摩書房)
  市川雅『ダンスの20世紀』(新書館)
  伊豫予谷登士翁『グローバリゼーションとは何か』(平凡社新書)
  中谷内一也『リスクのモノサシ』(NHKブックス)
  内山節『「里」という思想』(新潮選書)
  エマニュエル・ドット『世界の多様性 家族構造と近代性』(藤原書店)
  ヴェルター・ベンヤミン『近代の意味』(ちくま学芸文庫)
  入江公康『眠られぬ労働者たち』(青土社)

  研究室で明後日の基礎演習のための資料の準備。提出された全員のレポートのタイトルと書き出しの部分(主題と方法の説明)をコピペして「タイトル&書き出し一覧」を作る。これを全員に配って、「タイトルの魅力」と「書き出しの効能」について考えてもらう。思ったより時間がかかったが(どこまでが書き出しなのかわかりにくいレポートがけっこうあったので)、なんとか5限の始まる前に終らせることができた。
  今日の二つ目の授業は5限の「質的調査法特論」。履修者が17名もいて、これは大学院の授業としては異例であるが、専門社会調査士の資格科目として他研究科からの履修者が増えたためである。これだけ人数がいるならばということで、「人生の転機」をテーマとしたライフストーリー・インタビュー調査(1人1ケース)をミニ実習として行なうことにした。各人のケースを全体で共有化して共同作業として分析していくというのがポイントである。
  5限の授業を終えて大急ぎで教員ロビーに行く。鈴木謙介先生の授業の初回が今日なので、ホストとして出迎えて、あれこれ説明しなくてはならない。ところが鈴木先生は一向に現れない。初日から休講ってことはないよなと思って待っていたが、もしかして直接教室の方へ行ってしまっているのかもしれないと、36号館382教室へ行ってみると、案の定、鈴木先生はマイクなしで授業を始めている。あの教室はマイクがないときついだろうと、ワイヤレスマイクを持参したが、結局、最後まで地声で授業をされた。私も授業の途中で教室に顔を出した手前、最後まで鈴木先生の講義を拝聴することにした。教室一杯、300人ほどの学生を前に、鈴木先生もテンションが上がっていた様子だった。これは鈴木先生に限らず、非常勤で来ていただいている先生方が一様に言われることだが、「私語がないのにびっくりしました」。適度に私語をしてくれていた方が気が楽で、こんなに静かに真面目に聴講されるとかえって緊張しますとのことだった。しかし、びっくりしたのは学生たちも同じではなかろうか。あの口調、あのファション。早稲田大学にはちょっといないタイプの先生である。いないよね~!(はるな愛の口調で)。

9月29日(月) 雨

2008-09-30 02:44:03 | Weblog
  朝から雨が降っている。夏の欠片を全部まとめて側溝に流し去ってしまう冷たい雨である。夏の欠片はもうどこにも残っていない。夏のことはもう忘れよう。
  午前中は明日の大学院の「質的調査法特論」の準備。使おうと思っていた資料があるはずの場所になく、ちょっとあせる。書斎と書庫のどちらかにあるはず。所詮は狭い空間だ。落ち着いて探せ。そう自分に言い聞かせ、深呼吸をしてからさがしたらほどなくして見つかった。ホッ。
  午後、知人から新米を送ってもらったので、そのお礼の葉書を投函するついでに雨の中を散歩に出る。「やぶ久」で昼食。今日の気候にぴったりの鍋焼きうどんを注文する。熱いので急いでは食べられないし、急いで食べるべきものでもない。店においてある『週刊文春』を読みながらのんびり食べる。『週刊文春』で必ず読む記事の一つは映画評(シネマチャート)である。毎号、公開中の2本の映画を5人の評者(柴山幹郎、中野翠、品田雄吉、斉藤綾子、おすぎ)が5点満点で採点しつつ短評を述べる。各評者の好みははっきりしており、したがって同一作品で評価が大きく割れることがめずらしくない。たとえば北野武監督の新作『アキレスと亀』は柴山、中野、品田が4点で、斉藤とおすぎが1点だった。しかしときとして5人全員が絶賛する作品がり、これはもう見るしかないだろうという気持ちにさせられる。今日読んだ(最新号を含めて3冊)なかではショーン・ペン監督の『イントゥ・ザ・ワイルド』がそうだった。それから絶賛まではいかないが、全員が面白いと言っていたのがティムール・ベクマンドフ監督の『ウォンテッド』である。さっそく駅前のディスカウント・チケット店で両作品の前売り券(ここでは公開中の映画の「前売り券」を売っている)を購入。ついでに先日の読売新聞の映画評を読んで面白そうだと思った滝本智行監督の『イキガミ』のチケットも購入した。これでいま私の財布の中には先日購入した西谷弘監督の『容疑者Xの献身』―これは封切り前だ―を含めて4枚の映画のチケットが入っている。うっかりしていて気がついたら公開終了ということにならないようにしないといけない(たまにあるのだ。ああ、もったいない)。まずは『イントゥ・ザ・ワイルド』かな。9月初旬から公開されている作品だからいつ終っても不思議ではない。しかし今週はいろいろと忙しい。早くて金曜日の夜だな。
  「南天堂」(古本屋)で、小野田襄二『革命的左翼という擬制1958~1975』(白順社、2003)とNHKトップランナー製作班編『平野啓一郎 新世紀文学の旗手』(KTC中央出版、2000)を購入。
  「シャノアール」で珈琲を注文し、明日のもう一つの授業、文化構想学部の演習「現代社会のセラピー文化」のためのメモ作り・・・をしようと思ったら筆記具を忘れてしまった。店員さんに「もうしわけありませんが」と言ってボールペンを貸してもらう。演習の初回は、講義の初回と違って、まずは学生の自己紹介が必須であり、履修者は29名(基礎演習と同じだ)なのでそれだけでかなり時間がかかるが、演習のテーマである「セラピー文化」については最小限の説明をしないわけにはいかないだろう。それと演習の進め方の説明も。
  夜、何本かメールを書いてから、明後日が締め切りの紀要の原稿を書く。完成までもう少し。その「もう少し」がなかなか大変なんですけどね。明日の夜には仕上げたいが、明後日の明け方になるかもしれない。自分のこれまでの人生を振り返れば、その公算が強い。歳をとることの利点のひとつがこうした冷静な判断力である。

9月28日(日) 曇り

2008-09-29 09:52:47 | Weblog
  今年度の日本社会学会大会は11月23(日)・24日(月)の両日、東北大学で開催される。私自身は発表はしないが、ゼミの院生が発表を行なうので、それを聞きに行こうと思っている。発表する内容は知っているが、フロアーの反応が知りたいのである。それと、知り合いの研究者の発表や、最終日のシンポジウムにも聞いてみたいものがある。今日、ネットで仙台のホテルを検索し、リッチモンドホテルを予約した。今年の7月にオープンしたばかりの新しいホテルで、利用者の評価(これはけっこう信頼できる)も上々のようである。1泊1万円を少し出るが、朝食付きのプランなのでよしとしよう。私は、どうせ寝るだけだから部屋が狭くても多少汚くてもかまわない、という気持ちにはなれない。酒を飲まないので、旅行・出張先では夜は早くホテルに戻り、部屋でTVを見たり、本を読んで過ごすことが多い。そのとき暗くて狭い部屋は息が詰まるし、旅先で自宅の風呂より狭いバスタブに入るのも気分が滅入る。デスクと椅子も大切だ。狭いデスクや、正面に鏡のあるデスクはいやだ(鏡よ鏡よ鏡さん、みたいで)。デスク用の椅子とは別に座面の低いソファーがあると読書やTVを見るのに快適である。今日予約した部屋はこれらの条件をクリアーしている(室内写真と「口コミ」情報からそう判断できる)。

  午後、散歩に出る。有隣堂と栄松堂を回って以下の本を購入し、「テラス・ドルチェ」で読む。

  堀江敏幸編『記憶に残っていること』(新潮クレスト・ブック)
  サンドウィッチマン『敗者復活』(幻冬舎)
  雨宮処凛『プレカリアート デジタル日雇い労働者の不安な生き方』(洋泉社)

  『敗者復活』は2007年M-1グランプリで敗者復活戦から勝ちあがって優勝したサンドウィッチマンの手記である。二人の出会いから現在までのことを二人が交互に語っている。ファイナル決勝で二人が披露したネタは「ピザのデリバリー」だったが、終盤で二人を襲ったピンチについて富澤たけし(ボケ役)がこう書いている。

  「「ピザのデリバリー」の滑り出しは、営業のときと同じ手ごたえだった。
   遅れてきた配達人が「配達にいくかどうかで迷ってました」と言う頭のボケで、スタジオにドッと笑いが起きた。こうなったら、後は研究した通り。4分間での、最も効果的で笑いのとれる、デリバリー・M-1バージョンを展開するだけだ。
  (中略)
  「腹たつなぁ、お前。・・・・ムカつくなぁ」
  と、伊達がツッコミを2回くりかえした。
  ん!?
  2回目の「ムカつくなぁ」は台本にない。
  意識的に伊達の視線をずっと避けていたけど、その時パッと目があった。
  伊達が、目でSOSサインを送っている!
  ヤバい! こいつ飛んでる! 次のネタが思い出せてない!!
  (どうしよう・・・!!)
  いきなり訪れた、緊急事態のトラブルだ。
  そこまでは何もかもが順調だったから、僕もパニックだった。このくだりで、過去、ネタが飛んだことは一度もない。しかもネタが飛ぶのはだいたい、僕の方だった。それが、このときに限って、いきなり伊達に来た。
  最悪なのは、伊達の「飛び」が瞬時に伝染して、その先のネタを僕も思い出せなかったことだ。
  (マズい・・・・・!! フォローしてやれない!!)
  頭の中はF1エンジンのようにフル回転した。
  どうする!? ここのネタはカットするか、だとしたらどこから始める!?
  あそこか、ここか!? いや、あのくだりだ!!
  待て、それだとオチまで4分を切る!!
  じゃあ、あのネタを代わりにさしこむか!?
  ダメだ、その後の流れにつながらない!!
  どうしたらいい!?
  何か思いつけ!!
  すると―伊達が。
  「ふざけてんだろ、お前」
  と、フッとネタを思い出してくれた!
  ホッとした・・・・・そこからは僕も気持ちを立て直して、「ピザのデリバリー」を順調に進めることができた。
  焦った。本当に、ヤバかった。
  このトラブルの間は、コンマ1秒、あるかないかだ。
  たぶん見ている人は、僕と伊達がパニックになっているなんて、気づかなかっただろう。
  でも僕は、本気で「あっ、死んだ・・・・!!」と思った。ここまで上がってきて、憧れの場所で、夢だった漫才をやれて・・・・ここで失敗するのか! と、膝をガックリつきそうだった。」(pp.225-227)

  そんなことがあったのか。過去3年分のM-1グランプリ(優勝者はブラックマヨネーズ、チュートリアル、そしてサンドウィッチマン)は録画して保存してある。さっそく去年の分を再生してみた。一度目はわからなかった。二度目で「ここか」とわかった。確かに一瞬の間が生じて、富澤が伊達の顔を素の表情で見る場面があった。それまでビザの配達人役の富澤は客である伊達にどんなに文句を言われようと柳に風、ゴーイングマイウェーという感じで応対していたのだが、その一瞬だけ、困惑の表情を見せた。威勢よく文句を言っていた伊達にもそのときだけ声に張りがなかった。そうか、そうだったのか。
  私も講義中に話そうと思っていた内容が飛んでしまうことがよくある。事前に講義メモは作成するが、講義中はメモはできるだけ見ないようにしているし、見たとしても時間が経過していると自分でも判読できない場合が多いのだ。漫才と違って講義は一人なので、話そうと思っていたことが飛んでしまっても、そのまま続けるしかない。というよりも、その場では飛んでしまっていることに気づかず、後から(授業の途中や終了後に)気づくことがほとんである。授業の途中であれば、そして飛んでしまったことが重要なことであれば、「あっ、さっき言い忘れたけど」と話を問題の箇所に戻して差し挟むことができるが、終ってから気づいても後の祭りで、翌週の授業の冒頭、「前回のポイント」を復習するときに補足することになる。少し前の失敗談だが、授業で話そうと思っていたことを話し忘れて、しかし話し忘れたことに気づかず、それを試験問題にしてしまったことがある。幸い、問題は4問出して、学生はその中から一つを選択して解答する形式だったので、実害は生じなかったのだが、その問題を選択した学生が一人だけいて、しかも「A」評価の答案だったことがいまだに不思議だ。
  さて、今週からいよいよ秋学期の授業が始まる。緊張感をもって、かつリラックスして、取り組んでいこう。

9月27日(土) 曇り

2008-09-28 02:34:57 | Weblog
  昨夜は疲れていたのでフィールドノートの更新をせずに就寝した。今日の午前中にそれをすませ、午後は昨日の教室会議の詳しい議事録(欠席者が多かったので)を作成して先生方にメーリングリストで流した。そういうわけでずっとパソコンの前に座っていたので、昨日郵送されてきた中学生作文コンクールの最終審査作品(35本)を鞄に入れて、外に出た。それを喫茶店で読むためである。「ルノアール」で10本、「珈琲館」で10本、「カフェ・ド・クリエ」で5本、そして帰宅して残りの10本を読んだ。その後もう一度全体をざっと読み返して、私個人の最終評価を決めた。
  夜、高校の同窓会のクラス幹事のS君からクラス会の案内状がファクスで届く。私の住所が名簿上で更新されていないのに気づいて気を利かせてくれたのである。さっそくS君にお礼と欠席の連絡の電話をする。そのときの話の中で5年前にY君が亡くなったことを知った。Y君はクラスメートの中ではけっこう親しかったので驚いた。しかし話をしているうちに、いや、Y君の死のことはもしかしたら友人のO君を通じてずっと前に知らされていたかもしれない、そしてその事実を忘れていただけかもしれないという考えが頭をかすめて、そのことにまた驚いた。Y君が死んだということを信じられず、無意識の忘却(もの忘れというのではなく)が起こったのかもしれない。Y君は理科系、私は文科系という進路の違いはあったが、お互いスポーツが好きで、センチメンタルで、女の子の好みも似ていた(残念ながら彼の方が女の子にはモテた)。一度、校舎の屋上で彼が吹くトランペットを聴いた。青春学園ドラマ「でっかい青春」の主題歌だったと思う。はっきりいって下手クソだったが、哀愁は漂っていた。センチメンタルなわれわれにはそれで十分だった。志賀直哉が死んだ日、私が屋上でぼんやりしていると、Y君が「どうしたんだ?」と聞いて来たので、「志賀直哉が死んだんだ」と答えたら、「ふ~ん」と言って遠くを見る目をした。たぶんあまり関心のない話題だったのだと思うが、私に付き合ってしばらく黙って空を眺めていた。そういう奴だった。
  ついさっき、ネットのニュースでポール・ニューマンが死んだことを知った。83歳だった。好きだった人間の死を同じ日に二人も知らされるというのはつらいものだ。

9月26日(金) 曇り

2008-09-27 09:56:17 | Weblog
  7時、起床。いつになく早いのは9時から大学院の二次試験(面接)があるからである。8時15分蒲田始発の電車が5分遅れたため、地下鉄への乗り換えのとき、東京駅から大手町駅まで走るはめになったが、ジムでのトレーニングの成果であろう、息切れをすることはなかった。大学には9時ちょうどに到着。ただし、戸山キャンパスの入口に着いたのが9時ちょうどだったので、同僚の先生にケータイで「いまスロープを登っています」と伝えたが、「登っています」ではなく「走っています」と言うべきだった。面接は2時間ほどで終了し、その後、社会学の教室会議。昼食は久しぶりに「秀永」で定番の木耳肉(ムースーロー)定食。4時からの文研委員会まで研究室で雑用。文研委員会は30分足らずで終了し、その後、現代人間論系の教室会議。今日はあれこれの事情で出席者は通常の半分。来年度の時間割案(ver.1)を提示し、問題点の改善のための相談。もちろん今日一日で終る話ではなく、これから微調整(必ずしも「微」ではないかもしれない)を続けながら、10月中旬を目処に仕上げていく。
  今日は7時から新宿文化センターで早稲田大学交響楽団の秋季演奏会がある。それを意識したわけではないのだが、会議は6時に終了。所要時間1時間半(授業1コマと同じ)は常にかくありたい理想的な長さではないだろうか。「ごんべえ」で軽めの夕食(かまあげうどんをかやくご飯抜きで)をとってから、馬場下の交差点でタクシーを拾って、新宿文化センターへ(10分ほどで到着)。本日の演目は以下の3曲。

  C.P.E.バッハ「シンフォニアハ長調」
  J.S.バッハ=シェーンベルク「プレリュードとフーガ変ホ長調」
  R.シュトラウス 「交響詩 英雄の生涯」

  危惧していたのは、寝不足と朝からの疲れで居眠りが出てしまうのではないかということだった。案の定、1曲目と2曲目は途中でフッと意識が途切れる瞬間が何度かあった。カール・フィリップ・エマニュエル・バッハはヨハン・セバスチャン・バッハの20人の子ども(!)のうちの次男である。フリードリヒ2世の宮廷音楽家として活躍したが、自らが卓越したフルート奏者でもあった君主の好みにはあまり合わなかったようで、年俸は宮廷音楽家の中の最低であったという。偉大な音楽家を父親にもったことのプレッシャーも相当なものだったはずだ、と彼の境遇に同情しながら聴いていたら、ついうとうととしてしまったのである。しかし、20分の休憩を挟んだ後の3曲目は全然そんなことはなかった。むしろ反対に、聴けば聴くほど目が冴えてしまった。音量が大きかったとかそういうことではない。楽器たちが歌っているのだ。楽譜どおりに音を出してますというのではなくて、生き生きと歌っている。とりわけコンサートマスターの安田真理奈さん(人間科学部3年)のバイオリンソロが素晴らしかった。彼女の演奏は強い磁場をもっていて、ちょうど砂鉄の中に磁石を入れたときみたいに、彼女のバイオリンの奏でる歌に周囲の楽器が一定の方向性をもって生き生きと反応しているのだ。素晴らしかった。これぞオーケストラ。音大ではない大学にこれほどのオーケストラが存在するということに改めて驚いた。指揮は山下一史。
  アンコール曲も終わり、腕時計を見ると、午後7時10分。なんと開演から10分しか経過していない。一瞬、邯鄲(かんたん)の夢かと思ったが、なんのことはない、時計の電池が切れたのである。いまの時計はだんだん止まるのでなくて、何の前触れもなく突然止まるのでいつも戸惑う。新宿文化センターから新宿駅までの15分ほどの道をみんなの後をついて歩く。遊歩道の途中に有名な(しかし酒飲みでない私は足を踏み入れたことのない)ゴールデン街があって、ものめずらしかった。藤圭子の「新宿の女」(1969年)が聞こえてきそうだ。10時過ぎに帰宅。クラシックの世界から演歌の世界を経由して日常的世界に帰還した。残り物のカレーライスを食べる。

         
             ♪私が男になれたなら 私は女を捨てないわ