WIND AND SOUND

日々雑感 季節の風と音… by TAKAMI

考えること 伝えること

2006-04-18 | しろかねも くがねも玉も何せむに…
「瓦版CARAVAN」の空魚さんの記事「おぶいひも」にコメントを書いていたら、長くなってしまったので、自分のところに持ってきて、加筆、修正しました。



私は、まさに60年代、アメリカに憧れ、スポック博士の育児書をかじった親に育てられた申し子です。
そして、時代は変わり、試行錯誤の子育てをしております。

親からタカミちゃんと呼ばれ、物心ついた頃から、自分の部屋をあてがわれ、自室のベッドで寝ていました。私を教育した母については、2004/12の最後に2夜連続でアップしてます。
母は3歳までに叩いて躾けなければ、物心ついてから叩いたのでは手後れ…などと今でも言っています。それをしなかった、我が息子Takは、既に「失敗作」たども。私は、よく母に叩かれましたが、もしかすると記憶のない3歳以前にもしょっちゅう叩かれていたのかも。だから母を心の底で慕えないのかもしれません。息子の長引くおねしょに関しても、ことあるごとに口を挟まれました。これには私もかなり参りました。今はTakの勉強に関しても、ほんの10分、「お勉強」をやらせているのを見ただけで、「うげー…私とは全く考え方が違う」と感じ、そこで何かが停まってしまいます。母とのやりとりが続くとあるところで、いつも、「何かがそこで停まってしまう」のです。「これ以上は不毛…」と思ってしまうのです。

ところで、Takの保育園の保育参観でも、「体操の先生が子供を呼び捨てにしているのはよくない」という父兄からのクレームがあったようです。
周囲に他人がいるかどうかで、呼び方を変えるということは、私には思いつきませんでした。私は、Takのことを「たっくん」と呼んできました。幼子を慈しむ気持ちで、お腹の中にいるときからこの呼称だったので、他人が同席しているときも「たっくん」と呼んできました。私自身は、自分の生徒も呼び捨てにはしません。けれど、周囲の男の人たちからTakが呼び捨てにされることは、私には嬉しいことでした。社会の中には、人とのいろんな距離、関係があるということを、「呼称」で感じ取るのは、大切なような気がします。
私自身も、さすがに友人や身内以外の人前で息子を「たっくん」と呼ぶのには抵抗を感じるようになってきたところでした。少し前に、本人に「もうあかちゃんじゃないから、『たっくん』はやめようと思うんだけど」と提案してみたのですが、「おかあさんには『たっくん』と呼ばれたい」といって拒否していました。「おかあさんにかわいいと思われていることを感じていたい」からのようでした。
でも、Takも小学生になり、自分から呼び捨てで呼んでと言ってきました。
「じいじ、ばあば」という呼称も、自分から「じいちゃん、おばあちゃん」と変えました。
Takの自然で健全な成長なんだな…と感じました。
それに添って呼称を変えるのは、子供の成長に合わせて、接しかたを変えていくことの一部のような気がします。

「昨日のTakは今日はもういない」
それくらい毎日目に見える成長を遂げて来た時期があった。いや、今でもそうです。入学して、早起きが辛くて、ヨレヨレしていたTakは今日はもういません。
日曜日は自転車の練習で、何度も転んで両膝に蒼アザを何ケ所も作り、昨日も「わんぱく教室」(学童クラブ)で、思う存分遊んだあと、さらに実家にいって、「じーちゃん」に自転車の「発進」の特訓をして貰った。2日めにして、スタートもひとりでできるようになりました。さらにすごい蒼アザが増えました。「これは勲章だね」というと、彼は得意げです。

新居は、リビングが真西に向いていて、晴れた日は大きな夕日が「紫雲山」のむこうに沈んでいくのが見えます。(夏はめっちゃ暑そう~~…) 夕日の色は毎日違います。

1日が終わる。今日はもう二度と来ない。

夕日を眺めながらそんなふうに毎日を噛み締めていけるっていいよ。殺風景な町並みにも、夕日は毎日沈んでいくのです。Takと一緒に眺めることも、これから何度もあると思います。
その度に、「今日はもう二度とこないんだね」と、分かち合えると思います。

「幼児教育の義務化」って、なんだろう?
小学校1年生が、あまりにも無秩序で、「みんなでおべんきょう」するには体勢が整ってなさすぎになってきたので、この際、幼児教育からちゃんと躾けておきましょう。ってこと? そして、日本中の親たちは、幼児教育も「義務教育」に委ねて自分で考えて伝えることを放棄するのでしょうか? 
日本中のオトナが「マニュアル」を求めているような気がしています。
仕事、育児、介護、家事、学習、ファッション…

先日、当ブログのコメンテイターhawkさんが、「ローソンの店員は標準語を喋る」というようなことを書いていらっしゃいました。「標準語研修」を受けているらしいと…
私は、東京から高松に移動してきて、真夜中に高松中央I.C.で降りたとき、24時間のローソンで、標準語で道を尋ねました。店員の若いおにーさんは、標準語で対応してくれましたが、だんだん話が込み入ってややこしくなってきたところで、やはり高松弁がだんだん出てきました。「標準語研修」のマニュアルは、最初の「入り口」だけでしか役立っていないようです。
会社としても「あとは自分で応用しろ」というところなのでしょう。
ローソンに限らず、どんなジャンルのマニュアルでも「あとは自分で考えろ」。
けれども、深夜のローソンから外に出て道を教えてくれた店員のにーちゃんが、親切に高松弁で道を教えてくれたことに、私はとってもあったかい気持ちになったのです。

マニュアルなんかクソ食らえ!
私は自分で考えたことを伝えるということを大切に思います。
親だからこそ、自分の生き方をまるごと伝えるべきと思います。
もしも、私がしたことや考えたことが間違っていたら、それを伝えられた息子は、また自分の頭で考えて、修正したり、新しく考えたりして、前に進んでいけばいい。
考えることで、人間は前に進むことができるのだと思います。




しか~~~~し!!
私は、「タカミちゃん」と呼ばれるのが好きです。
郷里には、私のことを「タカミちゃん」と呼ぶ人たちがたくさんいます。この歳になっても、オッサン、おばさんになった幼馴染みたちから「タカミちゃん」と呼ばれると、和むし、心が緩みます。
親戚一同が集まるばーちゃんの法事なんかで、オッサン、オバサン同士が「…ちゃん」と呼び合う様子なんか、結構好きなのです~~

Comments (7)
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