紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

学園小の頃の思い出

2005-10-27 11:30:50 | 15・心に残ること
私が教師をしていた頃、ふつうは4時頃には学校が終わるので、帰宅してもいいのだった。

今も教師をしている友人たちが、夜7時に門を出られたら早い方だというのを聞くと、近頃の先生は大変だなあと思う。それも、研究会用の資料作りとか、子どもたちの授業から離れたことで忙しいという。

そうはいいつつ、私が教師をしていた頃は、4時に帰ることなどめったになく、学校でいろいろ教えてもらったり、スポーツをしたりして、勤務後の時間を楽しんでいた。
当時、学校対抗の試合などもよくあって、軟式テニスの試合に出たり、バレーボールをしたり、男の先生達のソフトボール大会の応援などにも行った。

その頃一番好きだったのは、陶芸だ。
図工のO先生に教えてもらい、土も買ってもらい、かなりのめりこんだ。
勤務時間後になる前から、図工室があくと、こっそりいって、ろくろを回させてもらった。
他にものめりこんでいる人がいて、それはY校長だった。
教師をやめた時に、陶芸を続けられなくなったのは、とても残念だった。

O先生はその後、小学校を中途退職され、函館にいって、窯場を開いた。
10年ほど前に、学園小時代の同僚のKさん(パートシュフさんがキノコみたいな名前といった人)とIさんと一緒に、函館のご自宅に遊びにいった。
函館の海を見おろせる高台で、のぼり窯を開いていた。


景色もよく、すばらしい環境に囲まれて、日がな一日ろくろを回して暮らしていけるなんて、すごいいい生活だなと思った。

けれど、楽なことばかりではなく、冬は雪かき(自宅用にブルドーザーがある)、窯で使うまき作りなど、かなりの重労働を強いられるということだった。

(写真左:O先生手作りの庵の前。上:庵の中)


また行きたいと思いつつ、なかなか他の人と時間を合わせるのが難しく、ずっと行けなかった。
それで、2年前に旅の途中で、一人で遊びにいった。
元気いっぱいの孫が二人、家の中で駆け回っていた。
右の写真は上のお嬢さん。お父さん(O先生の息子さんは彫刻家)作の像と一緒に写す。