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題名に惹かれたわけでもないのに、不意に手をとった。
それは、三木卓さんと私はたったの1度お会いしたことがあり、何を話したか忘れたが、話しをさせて頂いたことがあるからである。
三木卓さんは、児童文学も書いていらしたからだ。
ちょっと、という感じで手に取った本は、1-2ページで読むのをやめてしまうことが多いけど、この本は一気に引き込まれて、一気に読んだ。
おもしろい。というか興味深い。
文章はユーモアに富んでいて、あの穏和な三木卓さんそのままである。
重いことを書いているけれど、文章は軽く流れるように続いていく。
一気に読んだといっても、ふつうは途中で席を立つこともある。
けど、この本にはもくじがなく、当然章だてにもなっていない。
席を立つきっかけがない本だった。
ついでにいうと、「もくじ」と「あとがき」を最初に読むクセが私にはあるのだけど、そのどちらもこの本にはない。
「K」というのは、4年前、72歳で他界した著者の妻である。
プロとして認められたかどうかはよくわからないが、妻も詩人である。
詩人どうしだから、こんなに激しい生活を送ったのだろうか。
この本は、「K」との出会いから、死による別れまでを書いている。
貧乏暮らしの末、著者は、妻が探してきた仕事場(下宿から始まって転々とする)に通うようになる。
けれど、通っていた後、ほとんど自宅には帰らずに、仕事場で暮らすようになってしまう。 別居といってもいい状態になるのだ。
必要がある時に、たまに帰るくらいの生活。
そして、ついには、家に帰ってくるなとまでいわれてしまう。
多分、それだから、妻のことを、妻の詩作を客観的に語ることができるのだろう。
「K」という妻を、著者はもてあましていたが、一方ではとても大事な存在でもあった。
Kが生い立ちから、そのような激しさを身につけたと、著者は理解しているが、そのくだりが何度も何度も出てくる。
生い立ちと、東北育ちで培われたものが、Kの性質に大きな影響を与えたと、著者は考えていた。
Kは、実の母親に育てられずに、乳母に育てられた。その後もずっと乳母の元で暮らし、小学生になる時に、誘拐されるようにして実家に戻る。
けれど、長く離れていたKには、自分の家は居心地のいいものではなかった。
そのために、Kは孤独でいることを身につけ、人と暮らすことに苦痛を感じるようになる。
ただ一人、娘だけは溺愛した。
もうちょっと、この本を読みたいというところで、終わってしまう。
Kは闘病生活の後亡くなり、著者は76歳になった。新たな女性と暮らす気力も時間もすでにない。
「一人の女とつきあうのは、けっこうたいへんなことだ。」
「つまりこれは、一生がかりの女とのつきあいということになった。」
文句もたくさんあるが、Kは、著者には核となる大きな存在だったということなのだろう。
「K」という妻の言動にもビックリだし、相当個性的というか変わった夫婦関係ですよね。
まぁ、夫婦というのは、相手をを持て余しながらも、お互い大切な存在であるのかもしれませんね。
ふつうのダンナさんでは、夫の立場がつとまらないと思うほど。離婚することは考えるけど、結局別れることなく、Kさんが亡くなるまで一緒にいるんですよね。