納富竹次郎は、工作機械メーカーに三十五年勤め、定年を五年残して退職した。
その一年前に女房を乳がんで亡くしている。
彼が会社を辞めたのは、意気消沈してやる気を失くしたのではないかと噂された。
だが、実は竹次郎は一時期やもめ暮らしを喜んでいた。
独り身が現実のものとなって、憧れの生活を手に入れることができたとほくそ笑んでいたのだ。
口うるさい女房がいなくなって、馬じゃないがのびのびと走れるようになった。
彼の好きな競馬用語を借りれば、<馬なり>で馬場を一周してくるようなものだ。
何をするにも自分の思いのままという解放感。
女房の目を気にしてできなかった浮気も、今となれば好き放題にできそうに思えた。
だから広告を見てバイアグラも手に入れた。
浮気の機会を狙って、外飲みの回数も増えていった。
散歩がてら立ち寄った近場のスナック「ちょこっと」が気に入り、そこへ通うのが日課になった。
その竹次郎が、最近どうにも気分の冴えない日々を送っていた。
女房を亡くした後も自ら台所に立ってやもめ暮らしを楽しんでいたのに、近頃ため息をつくことが多くなったのだ。
原因は、はっきりしている。
最近、競馬が当たらなくなったことで落ち込んでいるのだ。
あることが原因で、勝負勘がすっかり鈍ってしまった。
そうなると、それまで楽しかったスナック通いまで億劫になった。
酒だけでなく、期待を寄せたバイアグラの出る幕もない。
元凶が何かわかっているだけに、納富竹次郎の悩みは深かった。
スナック「ちょこっと」に行っても、ママ以外に女がいない。
手伝いの女性とか女友だちとかが出入りしていた時期もあったのだが、近頃はそうした色気もない。
賃金をケチったのか、それとも仲違いでもしたのか、女っけが全くなくなってしまった。
代わりに、土曜日と日曜日だけ開かれる「馬券名人戦」という催しは、それらを補ってあまりあるものだった。
ママが特別に昼間から店を開け、常連を十人ばかり集めるのだ。
客はそれぞれ馬券を購入し、その配当金の多寡を競い合うのである。
資金は一日一万円と決まっていて、その日の払戻金が一番多かった者に、別に集めた賞金が与えられる。
客が十人いれば、あらかじめ預託しておいた千円×十人分の一万円がもらえるという仕組みである。
竹次郎は、当初この「馬券名人戦」でいきなり三連勝した。
穴狙いの戦略がたまたま当たって大儲けした上に、賞金まで総取りしたのだ。
「ほう、納富さんってプロじゃないの?」
「言えてるね・・・・」
「狙いが素人の域を超えてるよ」
仲間の口から、次々と称賛の言葉が沸き起こる。
「そうですかね、単なる当てずっぽうですよ。すぐに化けの皮がはがれますって・・・・」
謙遜してみせたが、内心では得意な気分に浸っていた。
(ちょっとだけ捨て身になれば、高配当にありつけるのにな)
顔には出さずに、ひとり悦に入るのだった。
二ヶ月ほどの間に、竹次郎は八回トップをとった。
確率的には、五十パーセント勝ったのだ。
JRAからの配当金の他に、毎回ほぼ一万円の上積みがあった。
こうなると、常連客もやっかみ半分に「名人、名人」とはやし立てる。
そうした中、ママが竹次郎の買い目に乗ろうとして始末の悪いことになった。
ゲームの仕組み上ごまかしてもバレるし、正直に教えるのはなんとも気が重い。
勝負ごとは無心でなければ勝てるものではない。
ママに乗っかられてからというもの、勝負勘はガタガタになってしまった。
「あ~あ、やっぱり化けの皮がはがれてきた。オレに乗っかると損するから、やめたほうがいいよ、ママ」
竹次郎は不満をストレートに言えず、自分のツキの悪さに置き換えた。
「名人もすっかり落ち目だね。こうなったらママも深追いしないほうがいいんじゃないの?」
常連たちもみな竹次郎に同調した。
竹次郎と同じ立場になったらどれだけ不愉快になるか、誰もがわかっていた。
「オレ、本当に陰穴に入ったらしい。このままだったら地獄の三丁目までまっしぐらだからね」
竹次郎はここぞとばかりに言葉を強めて、ママを振り切ろうとした。
「いいのよ。わたしは儲けなんか二の次なの。タケちゃんの男らしさに惚れてるんだから、ほっといて・・・・」
「ヒー色男。聞いちゃいられんね」
ママと竹次郎の攻防にシラケ気味ながら、スナック「ちょこっと」はいつもどおり盛り上がっていた。
こうなると、納富竹次郎の憂鬱は深まるばかり。
捨て身で挑んだからこそ結果の出た勝負事に、もっとも厭うべき迷いが生じたのだ。
守りに入ったり無謀な大穴に賭けたり、予想はドツボにはまって、今では「ちょこっと」に行くのが怖くなっていた。
女房のがん保険で転がり込んできた金が、目に見えて減っていく。
預金通帳の残高は、これまで心の拠り所になっていたのに、近頃は将来への不安を増幅するシグナルになっていた。
自分の退職金と合わせて二千万円近くあったのが、このままの勢いだと四、五年で底をつきそうな気がする。
女房の死と引き換えに手にした金を、バチ当たりにも浪費しているのだ。
いつか天罰が下るのではないかと、うっすらと気にしている。
そうした経緯の末、いつの間にか「ちょこっと」への足が遠のいていった。
ちょうど開催がローカル競馬に移ったことも関係していた。
クラシックレースが無いと、どうしても熱の入り方が違う。
家でクーラーをかけてゴロゴロしていることが多くなり、自然に馬券購入への意欲も減っていった。
単なる夏負けだったかもしれないが、思考も体力も不活発化していたことは間違いなかった。
(なんだかつまらないな。・・・・何か面白いことないかなあ)
竹次郎が地味な服装の二人連れの女性の訪問を受けたのは、まさに彼の精神状態が揺れ動いている最中だった。
「どなたですか・・・・」
ドアの覗き穴から訪問者を確かめるぐらいの注意力は残っている。
「こんにちは。今日は大切なお話があってお伺い致しました」
二人とも鍔広の帽子をかぶり、一人は白もうひとりは空色のブラウスを身に着け、それぞれ黒とベージュのスカートを穿いている。
ドアを開けてみると、二人のうち若い方の女に目が行き、淑やかな中にも張りのある肌つやを保っていることに好感を持った。
歳の頃は四十代半ば、化粧品とは異なるふんわりした匂いが漂ってきた。
もうひとりは六十歳前後の痩せ型の女で、大学教授とか研究者とかの夫人ではないかとの印象を持った。
今まで所在無げにテレビドラマの再放送を観ていた竹次郎は、思いがけず飛び込んできた刺激物に反応した。
「昼寝の時間にお出でいただいても、耳の方は応じられないと言ってますよ」
「あっ、おやすみでしたか。ごめんなさい・・・・」若い方の女が口に手を当てた。
セールスではなさそうだった。
少し慌てた様子の女性たちを見て、彼のイタズラ心が蠢いた。
「こんな呑んだくれに、大切な話って何でしょうか。・・・・儲かる話だったら大歓迎なんですがねえ」
舞い込んできた退屈しのぎを、見逃す手はないと思った。
相手が辟易して逃げ出すのなら、それでいい。
すると、年上の女が腕にかけたバッグを開けて、薄っぺらな冊子を取り出した。
「私どもは、この世の中で最も普遍的な愛についてお伝えしに参りました。どうぞ、この本をお読みください」
チラリと見えた表紙に、〇〇の塔と印刷されていた。
(さては、キリスト教の布教だな?)
すぐに察知したが、相手が牙を剥かない信者と知ってさらに駄々をこねてみたくなった。
「失礼ですけど、そちらの方は結婚されているんですか」
素っぴんの割にふっくらとした肌の、若い方の女に声をかけた。
「わたしの人生は、過去も現在も主の思し召しのままです。ですから、すべては主の御胸にあるのです」
「御胸かあ。・・・・それじゃ、旦那の御胸は空っぽってこと?」
「ですから、そのようなお尋ねには取り合えません。・・・・主を貶める言葉はご遠慮下さい」
怒りの表情こそ見せなかったが、二人とも竹次郎を憐れむように弱々しく笑った。
「えっ、おれ何かマズイ事口にした?」
「いえ、お考えはいろいろですから、何をおっしゃられても構いません。ただ、それは心の言葉であってほしいと思います」
「なるほど」竹次郎は、自らの胸に羞恥心が芽生えるのを感じた。「・・・・あんたらも、とんだ呑んだくれに出遭っちまったねえ」
このまま、酔っぱらいの戯言と思ってもらえれば、恥の量も軽減される。
自分のはしたない応対に嫌気がさし、そろそろと刀を引くしかなかった。
「この場所で、明日集まりがあります。よろしかったら、お出でいただけませんか」
冊子の裏表紙に押したゴム印の住所を示し、布教に現れた二人の女性は帰っていった。
誘われたことにちょっぴり心が動いた竹次郎だったが、〇〇の塔の集まりに参加することはなかった。
昔はよく「悔い改めよ。世界の終末は迫っている・・・・」などと電柱に貼ってあったが、どうせ似たようなことを聞かされるのだろうと見切ったのだ。
(夕方になったら、コンビニで豚の角煮でも買ってこよう)
そう思いながら、あの女たちの言った普遍的な愛ってなんのことだろうと、ぼんやり考えていた。
近ごろは、青少年による理由のはっきりしない犯罪が増えている。
簡単に親を殺したり、友達を殺してバラバラにしたり、愛の不毛を感じさせる事件が多発している。
そのことが、普遍的な愛に関係しているのだとすれば、やはり宗教というものを心の中心に置く必要があるのかもしれない。
地震が来ようが火山が爆発しようが所詮他人事と思っていたが、彼の望む馬なり人生には卑怯と怠惰が数珠繋ぎに連なっている気がした。
「ちょこっと」のママに苛立っていたことなど、男として恥ずかしいことだ。
馬券が当たらなくなってから、こうした運命をもたらしたママを憎らしく思っていたが、過ぎてみれば何かの警告としてありがた味すら感じられる。
お陰で、ギャンブル好きの気質が少し抑制された。
あのままスナック「ちょこっと」のシステムに従っていたら、惰性のままに負け続けたかもしれない。
竹次郎は、しばらく殊勝な気持ちになって、庭の隅に咲くタチアオイの花に視線を向けた。
この花は、死んだ女房がよく面倒を見ていたものだが、ほうっておいたのに種でもこぼれたのかその後も毎年きれいに咲きそろう。
窓の外から竹次郎の動向を見守っていると言わんばかりの背の高さで、薄紫ともピンクともいえない花弁を次々と継ぎ足していく。
風に揺れた花の中心に、ときおり黄色い蕊が顔を出す。
そう言えば、今年はろくな供養もしてやらなかったと、位牌の前で頭を垂れた。
布教に駆け回る二人の女性に示した不遜な態度を思い出し、まずは女房に詫びた。
<悔い改めよ>・・・・この世の終わりを心配する前に、まず自分に向かって怠惰を戒める必要がある。
これから先、まだ与えられた余命があるとすれば、一人で生きていかなければならないのだ。
馬なりどころか、鞍を着けて、ときには鞭の音を聴きながら。
コンビニに行ったら、豚の角煮のほかに豆腐とわかめを買って、出汁の効いた味噌汁でも作ろうかと算段していた。
(おわり)
手綱が全くなくなって自由というより足元の定まらない奇妙なふわふわ感を持て余しているような様子で。
いまや社会とリアルにつながっていないことからくるこういう感じの初老の人は案外少なくないのかもしれませんね。
とても面白かったです。
ガミガミとうるさい奥さんが亡くなると
何をするのも自由で
羽目を外してしまわれたのでしよう
やはり馬は手綱を握ってくれる人がいないと
どこに走っていくのかわからないのでしょうね
とても面白く読ませていただきました
『ほうっておいたのに種でもこぼれたのかその後も毎年きれいに咲きそろう』
奥さんが手綱を引き締めてくれてるかのようで
すごく暖かい気持ちになれました
やはりtadaoxさまの小説は素晴らしいです!!
いつもありがとうございます
久々の小説でドキドキしておりましたが、うれしい言葉をいただき力付けられました。
「自由というより足元の定まらない奇妙なふわふわ感」とは、一言ですべてを表している気がします。
たしかに、職場を離れると多くの男が手綱を放した馬のように頼りなくなるのかもしれません。
憧れてはみたものの、思ったほど楽ではなかったりして・・・・。
窓から見るタチアオイと、主人公を見返すタチアオイの視線、夫婦をつなぐ思いを想像していただけたとすれば、これ以上の喜びはありません。
いつも本当にありがとうございます。
今夜はいい夢を見ることができそうです。