どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

(超短編シリーズ)117 『街角のフェアリー』

2016-08-29 02:25:24 | 短編小説

 

 丑松は眼科から出てくると、数メートル離れた自動販売機の前で立ち止まった。

 小銭入れから硬貨を取り出して入れ、無糖の紅茶缶を選んでボタンを押した。

「眼底の出血がやたらに増えてますね。血糖値をコントロールしないと、手術することになりますよ」

 先生から釘を刺されたことが、気になっている。

 悪くなればレーザーで焼けばいいと多寡をくくっていただけに、手術と言われてそれほど悪化していたのかと神妙な気持ちになったのだ。

 丑松は買ったばかりの紅茶缶を手に持ったまま、感慨深げに遠くを見つめた。

 眩しさに目を細めたその先に、黒い虫が無数に飛んでいた。

「あなた鬱陶しくなかったですか。これだけ出血があると、飛蚊症になっているはずですよ」

 先生が呆れたように言った。「・・・・前回の予約日に来ていれば、こんなにひどくはならなかったのに」

 丑松は、先生の言い方にトゲがあるように感じた。

 医師だったら、患者に対してもう少し親切であるべきだろうと不満を覚えたのだ。

 診察予約を守らなかったことは自分が悪いのだと、丑松自身にもわかっている。

 ただ、十年来あれこれ指図されながらの血糖コントロールに飽きてきたのも事実だった。

 だから、多少合併症が進行しても慌てることはないと反抗的になっている。

 実は、前々から目の前をよぎる黒い点に気づいていた。

 初めのうちこそ眩しい光に目がくらんだのかと思ったりしていたのだが、今はそれが合併症の一つであると認識していた。

 (もう年も年だし、死んでも惜しくはない)

 そのような考えが、日増しに強くなっていた。

 ところが、眼科で手術を匂わされたことがきっかけで、内分泌科の医師に注意されていた危惧が現実のものに感じられてきたのである。 

 丑松の場合、一日に四回のインスリン注射をしなければならない。

 三度の食事と就寝の前に、タイプの違う薬液を皮下投与するのである。

 食後の急激な血糖上昇を抑えながら、必要な栄養は摂るという難しい作業を、毎日続けているのであった。

 糖尿病の初期には多少分泌していたすい臓からのインスリンも、数年後にはまったく出なくなっていた。

 いわゆる1型の糖尿病患者になってしまったのである。

 初めは教育入院ということで、注射のやり方やカロリー計算などを一ヶ月近く叩き込まれた。

 その頃はまだ女房も健在だったし、丑松自身も現役のセールスマンとして活動していた。

 退院してしばらくは、徹底した食事管理と断酒の成果で、痩せ衰えながらもなんとか正常な血糖値を保つことができた。

 しかし、外出先での食事は次第にルーズになっていった。

 ラーメンのスープはほとんど飲まないとか、ご飯は半ライスと決め、おかずは一部残すとか努力を続けたが、長くは続かなかったのだ。

 セールスマンとしての活動は、糖尿病患者には過酷すぎた。

 ベッドの上では可能なことも、カロリー消費の不安定なセールスマン稼業では不可能であった。

 女房が持たせてくれる弁当も、次第にマンネリになってストレスの原因になっていった。

 腹が減っては仕事にならないから、やがてあっちこっちの食堂で高カロリーの昼食を摂るようになる。

 禁を犯して好きなものを好きなだけ食べる快感は、覚せい剤常習者と大して違わないのかなと苦笑することもあった。

 普段から血糖値測定を怠らないよう医師に言われていたが、実際に測れる機会は朝食前の一回だけに限られた。

 昼飯時に食堂でそんなことはできないし、晩飯の時も疲れきっていて、食事を前に指から血液採取をしてセンサーで測るなど、たまにしかやれるものではない。

 丑松が朝食前だけでも血糖値測定を行なうのは、毎月一回の診察日に「自己管理ノート」を持参しなければならないからだ。

 そこに記録された血糖値を見て、医師は患者のコントロール状況を把握するのだ。

 それでも丑松にとって気休めになるのは、朝の血糖値は半日近くエネルギー摂取がないためごく正常な数値を示してくれることだ。

 診察日に得意げに「自己管理ノート」を渡すと、担当医は一応複写の一枚を切り取ってカルテに貼り付ける。

 だが、血液検査と尿検査の数値を見ているので不満顔だ。

「ヘモグロビンA1Cが9.7ですね。もうちょっと下げないと早晩合併症が出ますよ」

 そして医師の指摘通り、数年後に手足の指先に神経症と思われる痺れと触覚の鈍麻が顕われた。

 (まいったな。もう、セールスは無理かもな)

 そう決断して住宅販売会社を辞めたのが、定年少し前のことだった。

 失業保険をもらいながら事務職を探したが、六十歳を過ぎた男になかなか合う仕事はなかった。

 ハローワークの職員に勧められて、パソコン中級程度の講習を数ヶ月間にわたって受けた。

 いざ、職探しにと意気込んだ矢先に、女房に先立たれた。

 くも膜下出血で、あっという間に逝ってしまった。

 十年以上にわたって、高血糖だ、低血糖だと騒いでいる亭主をあざ笑うように、さっさとあの世へ旅立ってしまったのだ。

 

 女房がいなくなると、丑松の身辺は絶望的な状況に置かれた。

 当分は仕事どころではなく、三度の食事をどうするか考えなければならなかった。

 幸い近所には手頃なスーパーマーケットがある。

 どこかでもらった「糖尿病患者のための簡単レシピ」というハンドブックを頼りに、買い物をして野菜中心の食事を作った。

 自分に食事作りなどできるはずはないと思っていたが、やってみると一応満足のいくものができた。

 野菜や魚の鮮度に敏感になり、たまたま商品チェックに現れる店員に質問したりした。

 主任クラスの店員と思われる男は、初めクレームでも付けられるのかと身構えたが、そうではないとわかるとホッとした表情でなんでも教えてくれた。

 繰り返すうちに、丑松側の事情も知って、スーパーマーケットの多くの店員が協力的になった。

「このかぼちゃ最高ですよ。栗のようにホクホクした食感で、ベータカロチンたっぷりです」

「ほう、それはありがとう。頂いていきますよ」

 丑松の方も、食事作りに張り切らざるを得なかった。

 お先真っ暗と思っていたが、自分ひとりでもなんとかやっていけるのかなと、微かな光明を見出した思いだった。

 一年ぐらいは、丑松も無我夢中で食事作りをした。

 仕事も在宅でできる商品管理の補助業務を紹介され、つつがなく日を送っていた。

 ほぼ家の中にいるので、血糖値の測定も朝昼晩の三回、きちんと記録するようにした。

 そうしてわかったことは、昼食時と夕食時の血糖値は高くなりがちだということだ。

 それまで朝だけ測って、その時の血糖値が一日通しての平均値のように思い込んでいたが、とんでもないことがわかったのだ。

 しかも、就寝前に射った持効性インスリン注射の効果もあって、朝の血糖値はまともな結果を示していたに過ぎなかった。

 よくよく考えると、丑松の意識の中で食事と注射の主従関係が逆転していた気がする。

 「管理ノート」に書き込む血糖値を気にしすぎていて、食事のことより注射するインスリンの単位にばかり神経を使っていた。

 せっかく覚えた食事作りも、思うように血糖値が下がらなかったりするとバカバカしく感じられたりする。

 ときどき丑松は、ストレスを感じながらコントロールを続けることに疑問を抱いてきた。

 眼科の予約日を無視したのも、合併症の進行を軽視したのも、ある種の開き直りだったかもしれない。

 だから糖尿病になりたての頃に比べて、血糖コントロールへの恐怖感は薄れてしまっていた。

 どうせ死ぬんだから、無駄な努力をしても仕方がないじゃないかと挑戦的な気分になる。

 十年の間には、ウイスキーを飲んだりケーキを口にしたり、ルーズな飲食行動を繰り返した時期もある。

 それでも生きながらえて来たのは、幸運なのか寿命が尽きていないのか。

 医師たちに文句を言いながらも、朝早くから病院に来て一般診療を申し込む自分が愛おしい。

 診察までに4時間も待たされて忌々しく思う反面、待ち切った自分が誇らしい。

 一旦予約が切れてしまうと、こうなるんだぞと見せしめを受けているようで、腹立たしく思いながらよく我慢したものだ。

 先生もちゃんと診てくれたし、厳しい指摘をしながらも見放してはいないようだ。

 丑松自身が再度自覚して血糖コントロールに努めれば、回復の余地はあるはずだ。

 自動販売機の前で立ち止まったまま紅茶の缶を捧げていた丑松が、やっとタブを起こして一口飲んだ。

 冷たい液体が食道を素早く下りていった。

 (おほ、うまい)

 同時に、空腹感がこみ上げてきた。

 腹が減るうちは、まだくたばる気配はないのかもしれない。

 

 内分泌科の医師からは、ヘモグロビンA1Cの数値が高いからと何度か入院を勧められた。

 その度に丑松は言を左右にして断ってきた。

「あなたは、僕の判断を信用していないのですか」

 担当医から、露骨に嫌な顔をされたこともある。

「先生、そうじゃなくて医療費が大変なんです。血圧は高いし、歯もガタガタだし、視力も衰えてきたし、病院内の渡り鳥状態なんですよ」

 だから、そうそう頻繁に入院などできないのだと訴えた。

 もちろん担当医からは、苦笑の後に呆れたという表情をされた。

 それ以降、内分泌科の診察間隔は、それまでの二倍に引き延ばされた。

 ただ、インスリン注射の本数や飲み薬は期間に応じて処方されるから、薬局に支払う金額はトータルするとあまり減らなかった。

 そうした経緯があってからの眼科診療である。

 本来は四ヶ月ごとに様子を見ることになっていたが、今回は予約をすっぽかした関係で半年以上過ぎてしまった。

 丑松の挑戦的な態度は、内分泌科の医師から眼科の医師へも伝わっているはずだから、言葉にトゲがあったのも無理はないと納得した。

 (いやあ、それにしても暑くなりやがった)

 夏の盛りなのだから、気温上昇は当たり前のことである。

 正午を過ぎれば腹が減るのも当たり前である。

 だが、その当たり前のことがしゃくにさわった。

 無糖の紅茶を飲み干して喉の渇きは収まったが、これから何を食おうか、どこで食べようかと考えると面倒くさくて仕方がない。

 アパートに戻ったところで、食事が用意されている訳ではない。

 しばらく自動販売機の前にとどまっていた丑松は、頭の中でパチンと点灯した場所へ向かってやっと歩き出した。

 彼が思いついたのは、大通りに面したオニギリのうまいコンビニだった。

 そこでシャケと辛子明太子入りのオニギリ一個ずつ、セットで安くなる緑茶を買い求め、次に思い浮かんだ市民公園に向かって歩き出した。

「暑い暑い、これじゃ熱中症になっちまう」

 禿げ上がった頭頂部を、太陽が容赦なく照りつける。

 右肩にかけたショルダーバッグも、結構重さを増して来た。

 公園に行けば、四人掛けられるベンチがある。

 もし人でいっぱいでも、足元には芝生のスペースが広がっている。

 広葉樹の根元近くなら木陰もあるし、うまくすれば食事のあと昼寝もできる。

 少し離れた所には公衆トイレもあるし、なんならバッグに潜ませている文庫本を引っ張り出して、うつらうつら本の世界に遊ぶこともできる。

 神様は辛いことや切ないことをたくさん振り撒いてきたが、一方で楽しく安らかな時間も用意してくれているようだ。

 丑松が公園に着くと、昼時とあって近くのオフィスから出てきたサラリーマンやOLがベンチを占領していた。

 おまけに夏休みの子供たちも芝生で駆け回っている。

 なんとか木陰を見つけた丑松は、いつもバッグに入れているレジャーシートを取り出して楓の下に広げた。

 足を投げ出し、バッグを引き寄せて、まずは昼食時のインスリン注射を用意した。

 

 オニギリをゆっくりと咀嚼し、緑茶で飲み下すとやっと人心地ついた。

 芝生を渡ってくる風は、熱せられてはいるが優しく感じられた。

 コンクリートの舗装道路の照り返しとは大違いだ。

 昼休みの時間もそろそろ終わりなのか、かなりのオフィス族がベンチを離れていた。

 それぞれ周囲のビルに向かって戻っていくのだろうと見ていると、多くが芝生の上でウロウロしている。

 前かがみになり、何かを探すような動きで、芝生の上を右往左往している。

 手には一様にスマホが握られ、仲間同士でキャッキャと声を上げる女性たちもいた。

 (なんだろう・・・・)

 立ち上がって様子を窺う丑松の傍に、中学生ぐらいの女の子が二人近づいてきた。

 彼女らも真剣な表情でスマホの画面を見ている。

「ちょっとキミたち、何か探し物でもしているの?」

 丑松の存在など目に入っていなかったのか、一瞬ドキッとした顔をしたあと、アハハハと笑った。

 遠くで嬌声を上げるグループといい、目の前の中学生といい、女性たちはどこか照れた様子を示しているようだった。

「向こうの方でうろつく人たちも、みんなキミたちと同じなのかね」

「えっ・・・・、あ、そうみたい」

「みんな、何をしているのですか」

「ポケモンGO、おじさん知ってるでしょう?」

 ああ、そうだったのかと、丑松にも思い当たるところがあった。

 一時、テレビではその話題で持ちきりだったから、操作方法も画面に現れるキャラクターの種類なども、何一つ知らない丑松でも話題のすごさだけは理解できた。

「そうか、そうか、ありがとう。キミたちも夢中になって事故などに巻き込まれないよう注意しなさいよ」

 テレビの受け売りを繰り返す老人に、女の子たちは素っ頓狂な笑い声を残して遠ざかっていった。

 しばらくの間ウロウロしていたサラリーマンたちも、午後一時を境に芝生の上から姿を消した。

 子供の数は減っていなかったが、おおむね子育てママの連れてきた幼児たちで、先ほどの中学生たちのような少年少女の気配はもうなかった。

 (えらい世の中になったものだ。わしらには操作ひとつ出来ないゲームばかり蔓延りよって・・・・)

 丑松は再びレジャーシートに腰を下ろして、そのままひっくり返った。

 身体は日陰の中だが、見上げる空には灼熱の光が溢れている。

 少し視線を落として芝生の上を窺おうとすると、遠くの樹木の周りを光の玉とその影のような黒いものが飛んでいる。

 (ああ、これが蚊の正体か・・・・)

 さしずめ儂のポケモンGOだ。

 古い漢字と最新の話題が交錯したのを感じて、丑松はウキウキとした気分になった。

 アハハハ、ワッハッハ。丑松はひとしきり笑いこけた。

 遠くから見ている人がいたかもしれないが、そんなことは全く気にならなかった。

 人生なんて自分次第。

 先人は「無病息災」とも言ったが、「一病息災」と救いの手も用意してくれた。

 わしにだって、飛び回る蚊と遊ぶ権利があってもいい。 

 いや、権利じゃないな、自由だな。

 いつでもどこでも現れるわしだけの妖精だ。・・・・丑松は、ひっくり返ったまま、嬉しそうに目を細めた。

 

     (おわり)

 


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