初詣は深大寺で
東京に戻ってあわただしく新年を迎えた。
都会には都会の波長があって、どこかのんべんだらりが合っていそうな気がしていたが、コタツに足を突っ込みながらもシャンと気を入れる場面があった。
正直のところ暮れのテレビ番組には皆んな飽き飽きしていたはずだが、大晦日の紅白歌合戦で『おふくろさん』を聴いたときは、思わず居ずまいを正した。
主として格闘技を観ながら、ときどき紅白にまわすというスタイルが定着してしまって、森進一の歌唱に出合ったのは偶然だった。
硬い表情、青白いまでの顔色、作詞家川内康範とのトラブルが根底にあるから、否が応でも緊張するのは仕方がない。
視聴者の側も、緊張する森進一を目の当たりにして、足など投げ出しては居られなくなった。
デビュー当時の森進一は魅力があった。
その後いろいろあって、印象が色あせていった。
しかし、この夜の森進一には凄みがあった。艱難を一気に乗り越える魂の叫びがあった。
経緯はどうであれ、この紅白の歌唱で一切の鎮魂とすべきだろうと思った。
初詣は久しぶりに深大寺に行った。
三が日の人出は大変なものだったろうが、都合で四日になってしまったので楽にお参りできた。
何年か前に大改築をしていたが、今回眺めるとけっこう古びた感じになっている。寺や神社は年を経るほどありがたみが増すものだから、その点は喜ばしいことと受け止めた。
境内の一角にある釈迦堂には、重要文化財の銅造釈迦如来像が安置されている。奈良時代の作と伝えられ、小さいながら流麗なお姿にいつも心が洗われる。
白鳳の様式を連想するのは、日本の仏像というより外来の雰囲気が色濃く残っているからだ。
拝殿は後ろからせっつかれない構造になっていて、お祈りしたあとしばしお顔を眺められるのも気に入っている。
おみくじを引き、厄除けのお守りをいただき、出店を冷やかすことなく家路についた。
大変な世の中だが、森進一の鬼気迫る歌唱を思い出し、世の中のことは足し算、引き算ばかりでないことを肝に銘じた。
大げさかもしれないが、人間には壁を乗り越える能力が潜在しているのだ。
よく言われる『火事場のくそ力』的なものが、最終的に人を動かすのではないかと、あらためてわが身に言い聞かせたのだった。
それらの醸す奥ゆかしい雰囲気がいつも伝わってきます。
紅白歌合戦、小生は今回も見過ごしましたが、そうですか、森進一にはそんなに鬼気迫るものがありましたか! あんな一件があったからでしょうか、主催者は彼とその問題の歌をトリに持っていったのは、なぜか大受けを狙っているようでしたが……。
とまれ、深大寺の初詣写真は、何もかも吹き飛ばすような清らかな青空があまりに美しく、俗世間を忘れさせてくれるようですね。
貴ブログ『丑の戯言』の多彩な話題には、いつも憧れに似た思いを抱いております。
いつまでも遊び心を大切に、楽しませてください。
こちらも本来の小説作りにかかりたいと思っております。ありがとうございました。