島原の乱を起こした天草四郎は、幕府軍に取り囲まれて討ち取られえたといわれているが、一方で城の井戸を抜け穴に外部に逃げ延びたとする説が残っている。
当時交流のあったインドネシアの日本人街にひそかに船で運ばれたという話は、まったく信ぴょう性がないわけではない。
天草四郎時貞はそもそも誕生の時から数奇な運命を背負っていた。
紅蓮の炎に包まれて海上に現れたと信じる者もいる。
イエス様の生まれ変わりと信じる信奉者は天草四郎にすべての望みを託した。
当時から過酷な年貢取り立てに不満を募らせていたキリシタンたちは一揆軍として立ちあがった。
その先頭に立って戦ったのが天草四郎時貞であり島原の乱であった。
幕府軍に取り囲まれ廃城に立てこもって戦ったが、天草四郎はうまうまと脱出したと信じられている。
根拠として、天草四郎の首級が見つからなかったことがあげられる。
一説には幕府軍は四郎の母親を捕らえ、速やかに降伏すれば命を助ける旨の書状持たせて説得にあたらせたのだが、四郎は逆に自分がここで自害したことにするよう母親を説得し、トレードマークの白絹の着物と黒の袴を身代わりの者に着せて逃げおおせた。
どこまでが事実に近いのか見極めがつかないが、とりあえず天草四郎伝説の紹介である。
特筆すべきは天草四郎には子孫がいたという説である。
何せ16歳で反乱軍の総指揮者になったわけだから、まともに子供など作っている暇はなかったはずだ。
フィリピンの日本人街に逃れたとすれば、後年どさくさに紛れて子孫の名乗りを上げる者が出てきても不思議はない。
死んでも生きていても、天草四郎の話題は尽きない。
実は昭和の終わりごろ天草四郎の子孫を名乗る者が東京に現れた。
ある人物の娘さんが婿取りの準備を進めていたところ、その人物が動脈瘤の破裂でこの世を去った。
すると、あろうことか婿に予定していた男が未亡人のほうにちょっかいをかけ、手っ取り早い遺産相続を画策した。
娘さんはいたたまれず家を飛び出し、マンションを借りて生活し母親とは絶縁状態になった。
母親はこれ幸いと男を家に引き入れ、高級車を買い与えて二人で遊びまわった。
天草四郎の末裔を名乗る男は母親のアッシーを務めるだけでなく、とにかく気配りにたけ優しいのだという。
母親は身も心もメロメロなのかというとそうでもなく、財産に関してはすべて自分一人で管理していた。
マンションで一人暮らし中の娘さんは弁護士に相談して、財産分与を要求する傍ら、母親が男と婚姻関係にならないようけん制しているらしい。
世にも面妖な話であるが、娘さんの友人でもある知り合いの話だから嘘ではない。
天草四郎にまつわる伝説は、末裔の時代になってもなお収まる気配がない。
〈おわり〉
+ このお話はすべてフィクションであり、残された天草四郎伝説からの類推です。
天草四郎の子孫がもしいたとしたら迷惑な話だろうが、誹謗中傷とは無縁であることを付記します。
、
天草四郎にまつわる伝説というのがあるんですね。
源義経や豊臣秀頼など、偉人には伝説が伝わりますが、ロマンなどを感じます。
「島原の乱」を収めたのは、知恵伊豆とよばれた松平信綱老中ですね。
忍城藩主や川越城藩主を務めていて、因縁を感じます。
源義経、明智光秀と同列の悲劇性を帯びた武将が天草四郎なんですね。
松平伊豆の守の手によって島原の乱は平定されたはずなのですが、判官びいきの日本人は別のストーリーを仕立て上げるんですね。
松平公は忍城や川越藩主も務めたんですか。
縁がありますね。
いつもコメントありがとうございます。
日本人の英雄は何とか生き延びていて欲しいという願いの表れなのでしょうね。
でも、首が見つからないという点では織田信長も同じで、明智光秀は首を発見出来なかったのでやられた訳ですものね。
そうなんですよ、義経伝説は日本の英雄の典型ですね。
なんとか生き延びてほしいという思いが、荒唐無稽のストーリーを作り出す場合もありますね。
信長と光秀の関係にもいろいろの説があってどれが真相か判断が難しいです。
戦いの場ではどれほど首級が重要視されたか、現在のDNAに匹敵する確証だったんですね。
西郷星や熊沢天皇が出てくるとは思いもしませんでした。
チットさんは岡本綺堂まで読んでいるんですね。
恐れ入りました。
熊沢天皇の末裔は今も続いているんですかね。