今年も元旦の初詣から始まった旅も今日の相模原公園の「ロウバイ」の撮影をもっていよいよ終わった。振り返ってみると潤沢な時間の殆どを旅に費やした一年であった。本ブログ「相模太夫の旅録」を開設して2年半、お陰様で19万件近いアクセスを頂いた。ブログのコンセプトは「旅をテーマ」としているが、広義では日常の居住地を一歩出たら旅ととらえ非日常の世界で出合った一期一会の風景、光景、情景の撮旅、相模太夫なりの世界観をお届けした。結果として今年は300件を越す旅写真を投稿(アップ)させてもらった。その中で今年の相模太夫の大きな旅のひとつは4月に訪れたドイツのロマンチック街道の5つの世界遺産めぐりの旅であった。ビュルツブルグのレジデンツ、レーゲンブルクの旧市街、ミュンヘンの「ヴィース教会」、リューデスハイムからの「ライン川クルーズ」、ケルンの「大聖堂」は心に焼き付き忘れられない旅となった。国内では九州の熊本、愛知、京都、埼玉、長野、茨城へお邪魔した。花貫溪谷、袋田の滝、軽井沢、大山の紅葉はきれいであった。また目標の1000社寺巡礼の旅も今年達成した。神社では明治神宮、寒川神社、豊川稲荷、来宮神社、靖国神社、比々多神社、大山阿夫利神社、大国魂神社、本山・名刹級のの寺院として目黒不動尊、池上本門寺、、慶元寺、法華経寺、国分寺を巡った。四季の花撮では梅、桜、クレマチス、アジサイ、ハナショウブ、バラ、ひまわりを、秋には軽井沢、花貫、袋田、大山の紅葉・黄葉を追撮した。ご当地や町田、川崎、大和、平塚のイベントやお祭りも瞬撮に赴いた。さて2016年という新しい年は一体どういう旅となり、果たしてどんな出会い、被写体が待っているのだろうか?楽しみであり思いを馳せている!!(1512)
ウィーン市街の夜景が一望できる高さは484メートルの「カーレンベルクの丘」へ。1683年の第二次ウィーン包囲により、城壁に囲まれたウィーンは15万人のオスマントルコ軍に2ヶ月に渡って包囲され、中に住む市民たちは籠城を強いられところ。カーレンベルクの展望台から350年の歴史に思いを馳せながら旧市街、フンデルトヴァッサー設計のごみ焼却場(煙突)、先ほど見学したシュテファン大聖堂が見える。夜景を堪能した後、レジデンツ・オーケストラによる「クラッシックミニコンサート会場」のウエルスペルク宮殿へ。アウエルスペルク宮殿は1706年建設のバロック宮殿で、皇帝フランツ・ヨーゼフとシシィが踊る舞踏会も開かれ、まだ6歳だったモーツァルトがマリアテレジア女帝の膝に飛び乗ったといわれる場所でもある。ウィーン・レジデンツ・オーケストラ(ウィーン宮廷管弦楽団)はウィーン古典派音楽を最高レベルで演奏することを目的として、ピアノ奏者兼指揮者パウル・モーザーによって設立さた楽団。多くの国際フェスティバルにも出演し、今日では世界で最も優れた室内管弦楽団のひとつに数えられている。オペラ『フィガロの結婚』序曲、オペラ『魔笛』よりパパゲーナのデュエット、ディヴェルティメントニ長調KV136第一楽章、ヴァイオリン協奏曲ト長調第二楽章、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』よりデュエットトルコ行進曲、『フィガロの結婚』よりアリア、『猫のデュエット』、ワルツ『皇帝円舞曲』、ポルカ『ハンガリー万歳』、『ジプシー男爵』より『アリアチクタク・ポルカ』、オペレッタ『騎士パスマン』よりチャールダーシュ ワルツ『ウィーン気質』美しき青きドナウ、ラデッキー行進曲のプログラムで音楽の都ウィーンで聞く本場のクラッシックはまた格別である。このクラッシックミニコンサートをもって全行程が終わった。中世の歴史がいっぱい詰まった中欧5ヶ国の旅も沢山の思い出と写真と共に明日帰国の途に就く。(1402)
ケルントナー通りの中心にゴシック様式の大聖堂「シュテファン寺院」(シュテファン大聖堂)は聳えツ建つ。オーストリア最大のゴシック建築物で「異教の塔」と呼ばれている。高さ137mの天を突きさすような塔が象徴的「シュテファン寺院」はウィーンのシンボル的存在である。伝によるとオーストリア公爵ルドルフ4世の命・支援によって建造された。1359年火炎式ゴッシクスタイルの身廊に最初の石が組まれた。1365年に南塔の建築が始まり、1433年に終了する。その後、聖堂中心部、北塔の建築が続けられ、137mある南塔は、北塔は財政難で途中で建設が打ち切られている。地下にあるカタコンベには、ペストで死んだ人の骨、ハプスブルグ家の人々の内蔵(心臓以外)を入れた壺が安置されているとか。なんと凄い大聖堂なのか正面左右の塔とリーゼントアーは現存する最古の部分で13世紀に建てられたものだという。大聖堂入場で「神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世の墓」、「召使い女のマドンナ像」、「ウィーナー・ノイシュタットの祭壇」を見ることができた。(1402)
ユニークなフンボルトヴァッサーハウス見学の後は首都ウイーンの中心部、「ウィーン国立歌劇場」から「シュテファン大聖堂」まで続く「ケルントナー通り」(Kärntner Straße)に立つ。この通り日本でいえば銀座か新宿といったところだろうか?ブランド店や土産物屋、レストラン、カフェやさまざまな店が立ち並ぶウィーン随一の繁華街で最も賑わいをみせる豊かな華やかな場所で観光客も多い。この通りの地下には地下鉄U1線が通っているという。元々は現在の国立歌劇場の付近に設置されていた城壁の門=ケルントナー門と街の中心とを結ぶ通りで、中世には既に存在していたという文献記述がある。ケルントナー門からはケルンテン州を経由してヴェネツィアやトリエステへと向かう道が延びており、南方との交易に重要な役割を果たしていた重要な通りであったことが窺える。出発点の「オペラ座」で解散し小一時間の自由時間となった。思い思いの目的で仲間は散らばった。我々は通りのウインドショッピングし、土産を調達へとお店のはしごとあいなった。集合時間迫り「オペラ座」へ。これから夕食、そして音楽の都ウイーン&今回の中欧5ヶ国の旅の最後のイベントはレジデンツ・オーケストラによる「クラシックミニオーケストラ」の鑑賞である。(1402)
チャータートラムに乗ってウィーン市街一周した後はウィーンのガウディと呼ばれている「フンボルトヴァッサー」が手がけた低所得層を対象とするウィーンの市営住宅「フンボルト・ヴァッサーハウス」を見学。遠くから見てもひときわ目立つフンデルト•ヴァッサー•ハウスは階層ごとに曲線を描き一部屋単位に色別したカラフル且つそのユニークさは驚くばかりである。覗いてみたかったが建物の中は植物やタイルがいっぱいらしい。自然を愛し、共存を果たそうとした環境保護運動家としても知られるフンデルト・ヴァッサーの建築コンセプトがここにあった。芸術における無機質さと硬い美学を非難し、直線を嫌い、より美しさと俗っぽさを求めた。あの宮崎駿監督は三鷹の森ジブリ美術館の建設にあたり『フンデルトヴァッサーのような(思想を取り込んだ)建物にしたい』という希望で造ったらしい。親日家だった彼は4年間ほど日本人と結婚した時期があり、日本での雅号は「百水」(Hundert&Wasser)であるとか。こういう奇抜な斬新な発想は常識にとらわれていたのでは生まれてこない。(1402)