相模原市の大島団地付近に源を発し南東に流れる「鳩川」は相模原市から海老名市にかけて流れる相模川水系の河川である。相模線と平行し、海老名市河原口付近で相模川に合流する。全体的に川幅は狭く、相模原市磯部には平行する相模川への分水路があるため「磯部」以南では流量が減少し座間市入谷付近では農業用水路のように川幅が細くなる。「モナの丘」から「大下坂」を下ると「鳩川」にぶつかる。これぞ「一期一会」ならぬ「一鳥一会」一羽の「シラサギ」が川面みつめ小魚を狙っているようであった。をと出逢った。「シラサギ」はほぼ全身が白いサギ類の総称でコサギ属の旧名である。真っ白でよく目立ち、くちばし、頸、足が長い。頭や背に飾り羽が生じる綺麗な鳥である。(2202)
「相模原麻溝公園」の花の谷と樹林広場の遊歩道一角に植栽の「サンシュユ」(山茱萸)が木の枝の先に全体が早春の光を浴びてが黄金色の蕾を輝かせてつけ始めている。梅の花が咲き香る時期に葉の出る前に黄色の小さな花をたくさんつける木で別名は「ハルコガネバナ」(春黄金花)、「アキサンゴ」とも呼ばれるミズキ科ミズキ属の植物である。株全体が鮮やかな黄色に包まれ、花は黄色い小花が30個ほど集まり、直径2~3cmほどの小さな花房(散形花序)をつくり開花する。各花には4本の雄しべが花序の輪郭を暈し、花序全体が輝いている。秋には赤く熟しグミのような実をつけ食べられる。開花期は3月~4月で早春を代表する花木の一つである。花言葉は持続、耐久、強健、 気丈な愛、強い愛、成熟した精神、敬う、尊敬である。(2202)
世田谷区豪徳寺に世田谷区の名刹・古刹、招き猫と伊井家御菩提所の曹洞宗寺院「大渓山豪徳寺」は鎮座している。創建は室町時代、文明2年(1480)世田谷城主吉良政忠が亡くなった伯母の菩提のために臨済宗「弘徳院」として創建された。1633年に「伊井直孝」が菩提寺として再興した。寺号は主井伊直孝の法号「昌院殿豪徳天英大居士」より「豪徳寺」と改号した。本尊は釈迦如来。「寺号標」から続く長い松並木の参道、「山門」、「仏殿」、「法堂=本堂」が直線に建ち並ぶ。招福堂の前に聳える美しい22.5mの「三重塔」(平成18年=2006/5月落慶)が一際目を惹く。江戸時代製作最古の「梵鐘」(延宝7年=1679年鋳造)、そして令和2年に落慶した「地蔵堂」がある。「仏殿」の左に現在修復中の「招福堂」(招き猫)と「赤門」がある。この門は彦根藩主井伊家の江戸屋敷の新中雀門を移設した。法堂(本堂)の右には「庫裏」と「書院」、左には「開祖堂」と「納骨堂」がある。名刹、大寺格の寺域と伽藍の威容である。(2202)
世田谷区豪徳寺に世田谷区の古刹、招き猫と伊井家御菩提所として知られる曹洞宗寺院「大渓山豪徳寺」は鎮座している。創建は室町時代、文明2年(1480)世田谷城主吉良政忠が亡くなった伯母の菩提のために臨済宗「弘徳院」として創建された。1633年に「伊井直孝」が菩提寺として再興した。寺号を「藩主井伊直孝」の法号「昌院殿豪徳天英大居士」より「豪徳寺」と改号した。本尊は釈迦如来。「寺号標」(寺門)から続く長い松並木の参道先に構えられた「山門」より入山すると境内正面に黒い香炉と「仏殿」(延宝5年=1677 建立)、その奥に「法堂=本堂」がある。仏殿の前には2006年に建立された高さ22.5mの美しい「三重塔」(平成18年=2006/5月落慶)が聳える。江戸時代製作最古の「梵鐘」(延宝7年=1679年鋳造)、そして最近できたと思われる「地蔵堂」(令和2年=2020/9落慶)がある。「仏殿」の左に現在修復中の「招福堂」(招き猫)と「赤門」がある。法堂(本堂)の右には「庫裏」と「書院」、左には「開祖堂」と「納骨堂」がある。当寺は東京三十三観音霊場11番札所で全体として大寺格の寺域と伽藍の威容である。(2202)
その2へ続く☜
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世田谷区松原に「松原寺町」の一寺、浄土真宗本願寺派寺院の「延重寺」は鎮座している。誓順法師が寛永21年(1644)に江戸浅草の浜町御坊中に創建された。「築地本願寺」55か寺群の一つとして移転した後、大正12年(1923)の関東大震災に罹災後堂宇崩壊炎上し、旧記寺宝等を失っているため今では寺伝由来等精細は不詳である。震災後の昭和4年築地より移転し、同6年に現本堂を新築しており、この松原の真宗5ヶ寺群の一寺に数えられている。本尊は江戸時代末期の作といわれる阿弥陀如来である。寺号標(寺門)より入山するとまだ新しい入り母屋造りの木の香りがしそうな「本堂」右に「庫裏」があるだけで、何とも静寂な寺域である。(2202)