比牟禮八幡宮参拝の後、我々はケーブルカーに乗って4分空中散歩「八幡山へ」(271.9m)。降車するとそこには1596年(文禄5年)、豊臣秀次の生母(秀吉の姉)日秀尼公により、秀次の菩提を弔うため 後陽成天皇から瑞龍寺の寺号と京都村雲の地に賜り創建された日蓮宗唯一の門跡寺院の「瑞龍寺(村雲御所)」(1961年に京都より この八幡山へ主要建物が移築)がある。ケーブルカーを降車し階段を上っていくと石垣を左右に控えた山門、頂上には本堂がある。寺内にある釈迦三尊像や観音菩薩立像が祀られている。本堂前には展望台が設けられており眼下には整然と作られた近江八幡の町が美しく広がっている。日蓮宗では唯一の門跡寺院として格式が高く八幡山城の盛時を偲ばせ、寺院の歴史を物語っているようである。(1407)
滋賀県近江八幡市に古くから近江商人の信仰を集めている「比牟禮八幡宮」はある。創建(伝)は131年、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創のようである。祭神は誉田別尊、息長足姫尊、比賣神の三柱である。275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩、その後、仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て「日群之社八幡宮」と名付けた。境内地は八幡伝統的建造物群保存地区となっており、存在感ある入母屋造の「楼門」、三間社流造、装飾に彩られた艶やかな「御本殿」、鎌倉時代建立の「拝殿」で構成されている。また幾つかの境内社も祀られている。691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。国の選択無形民俗文化財である二大火祭の「左義長まつり」と「八幡まつり」が行われることで知られている。(1407)
彦根市尾末町(彦根城址)に戊辰戦争から第二次世界大戦までの滋賀県関係の戦歿者3万4千余柱を祀る「滋賀県護国神社」はある。明治2年(1869)、彦根の大洞竜潭寺に戊辰戦争で戦死した「彦根藩士26人」の霊を祀る招魂碑が建てらた後、明治8年(1875年)、元彦根藩主井伊直憲の主唱により招魂碑を神社に改造する旨の政府の通達が出され、招魂碑を現在地に移し、翌明治9年、同地に社殿を造営・鎮座した歴史を有する。昭和14年に内務大臣指定護国神社として「滋賀県護國神社」に改称。主祭神は護国の英霊である。境内は静寂そのもので国のため戦火に散った戦歿者に手を合わせる。(1407)
滋賀県中部、琵琶湖東岸に「近江八幡市」は位置している。平成22年(2010)3月、近江商人と水郷で有名な(旧)近江八幡市と安土城で有名な蒲生郡安土町が合併してできた町である。近江八幡市は豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展した。いわゆる近江商人の発祥の地である。昔の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並みおよび「日牟禮八幡宮」境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」(国の重要伝統的建造物群保存地区)に選定されている。ケーブルカーに乗って八幡山城址へ上ると豊臣秀次の生母「日秀尼公」により、秀次の菩提を弔うため創建された「村雲御所瑞龍寺門跡」(日蓮宗唯一の門跡寺院)がある。明治10年八幡東学校として建築された「白雲館」(現在観光案内所)前を左折すると「比牟禮八幡」、「瑞龍寺」へ通じる参道・土産物店、飲食店が建ち並ぶ。その手前に町の真ん中を流れる川はその昔、豊臣秀次が築いた八幡堀は琵琶湖と繋がって舟が行き来していた。今は観光化され四季折々の風景や、白壁の土蔵が建ち並ぶ八幡堀の心安らぐ情緒あふれる風景をその名残を楽しめる「八幡堀めぐり」(川下り)ができる。この地はよく時代劇の撮影場所にもなっておりスクリーンに登場する。(1407)
今日26日ビナウォーク海老名中央公園で「第5回えびな盆踊りフェスティバル」が開催された。既に大勢の来場者で賑わっていた。会場内中央のご当地キャラクターステージでは「えび~にゃ」や「エビセブン」登場、可愛いしぐさに小さい子供たちは大喜び。抽選会やグッズ販売、飲食品販売の出店からは美味しい匂いが立ち込める。17:00から七重塔前に設けられた特設ステージ盆踊りが行われた。今夜八時まで海老名が夏の祭典一色となるようだ。(1407)