相模原市南区磯部の勝坂遺跡公園近くの農園にかつて牧草地だった磯部の傾斜地が土砂崩れ跡を土地の所有者(藤曲会長)が「何か作物を」と模索したのがきっかけで南足柄市で観賞した「ざる菊」に感銘を受け仲間と3人で栽培を開始したのが始まりの「ざる菊園」がある。2009年に発足した4年後には「第23回全国花のまちづくりコンクール」の団体部門で市内で初めて奨励賞に選出された。750坪ほどの緩やかな斜面に8種類、1300株の赤、白、黄色、ピンク、紫の「ざる菊」が植えつけられており、外見は本当に「ざる」を伏せたようにこんもりと丸い形をしていることから「ざる菊」と言われている。その「ざる菊」を主役とした「花見会」が明日から(11/1)~15まで開催される。明日からの「花見会」を前に会場の準備中であったが、肝心の主役の「ざる菊」は黄色の「ざる菊」が10株ほど開花の兆しを見せていたが、まだ全体的に緑色でまだ1分咲きにも至っていない状態である。11/4開会式には残念ながら花を添えることはできない状態である。来週末11/8、9頃には2、3分咲きとなっているかと思われる。(2410)
相模原市南区北里の「北里大学薬学部」キャンパス内に昭和47年(1972)に設置された「附属薬用植物園」(Bio-Gerden)はある。植物園の役割は薬学教育への寄与、研究への寄与、地域貢献の三つである。当園の総面積は約6,300㎡の敷地内には植物園の中心的施設でいわばシンボルの「ドーム型温室」では薬用植物を効果的に植栽展示している。高さは7m、広さ154㎡である。亜熱帯~熱帯地域から蒐集された200種の薬用植物が植栽されている、研究管理棟、セミナー室、ボタン園等があり約1000種類の植物が栽培、保存育成されている。「ドーム型温室」前の花壇の一画でひと際鮮やかな紫色の花を披露中なのが「イヌサフラン」である。ユリ科の多年生球根植物で別名はコルチカム、オータム・クロッカス。花期は9月~10月頃に咲き、ロート状で淡紅紫色を呈している。ただこの花は有毒のアルカロイドを含むため注意が必要である。(2410)
相模原市南区北里の「北里大学薬学部」キャンパス内に昭和47年(1972)に設置された「附属薬用植物園」(Bio-Gerden)はある。当植物園の役割は薬学教育への寄与、研究への寄与、地域貢献の三つである。総面積は約6,300㎡の敷地内には植物園の中心的施設=シンボルの「ドーム型温室」、研究管理棟、セミナー室、ボタン園等があり約1000種類の植物が栽培、保存育成されている。360°展開した「ドーム型温室」内には充分な太陽光が入り、育苗照明灯による光の調整、温度そして潅水等の環境制御システムを導入し、薬用植物を効果的に植栽展示している。高さは7m、広さ154㎡である。亜熱帯~熱帯地域から蒐集された200種の薬用植物が歩くのも困難なほどびっしり植栽されている。当ガーデンの主な植物はカルダモン・クミスクチン・セイロンニッケイ・チョウジ・ゲットウ・ガラナ・ヤボランジ・カカオ・コーヒーノキ・コラノキ・ギムネマ・ビャクダン・ビンロウジュ・インドジャボク・ヒマラヤカノコソウ・バニラ・セクロピアパルマータ・コショウ・ベニノキ・アボカド・マンゴー・キミノバンジロウである。柿の実がたわわに、花壇の一画では薄紫色の「イヌサフラン」が咲き、「ノイバラ」が赤い実を、「チャノキ」が白い花を、コーヒー豆のような赤い実の樹木もあった。(2410)
相模原市南区北里の「北里大学薬学部」キャンパス内に昭和47年(1972)に設立された「附属薬用植物園」(Bio-Gerden)はある。当園の総面積は約6,300㎡で、敷地内には植物園の中心的施設でシンボルの「ドーム型温室」、研究管理棟、セミナー室、ボタン園等があり約1000種類の植物が栽培、保存育成されている。360°展開した高さは7m、広さ154㎡の「ドーム型温室」内には薬用植物を植栽している。花壇の一画で「ノイバラ」が赤い実をたわわに実らせていた。バラ科の落葉つる性低木。花期は初夏、果期は秋(9 -10月)に球形で固い果実(結実し赤く熟して目立つ)をつける。南天の様でもある。(2410)
相模原市南区磯部に全国的にも非常に珍しい幕末期の擬洋風建築で国登録有形文化財となっている「旧中村家住宅」はある。建築当初は3階建てで、関東大震災後、3階部分は取り除かれ2今は2階建てとなっいる。建てたのは鎌倉大工の「石井甚五郎」が10年の歳月を掛け造り上げた。1869㎡敷地面積内に現在は二階建ての住宅=延床面積:420㎡となっている。建物は一階の外観は和風の要素で纏められ、2階は外壁を海鼠壁という洋風の要素を取り入れ軒を曲線の白漆喰で塗りこめ正面に縦長の窓を配している。一階の間取りは「式台の間」、「茶の間」、「客座敷」があり、二階には「和室」が四室ある。なお関東大震災後、三階部分は取り除かれた三階は六畳の主室と二畳の前室があった。敷地内裏庭には「稲荷神社」の社がある。また道路に沿って威風堂々と建つ「長屋門」は約19m(桁行63尺)の長大なもので主屋と同時期の慶応年間に建てられた。中村家は「勝坂大尽」と呼ばれる「素封家」(大金持ち/財産家)であった。平成13年(2001)当時の当主「中村正衛」によると幕末期に「生糸の商い」で財をなした。現在は歯科診療医院を経営している。また大正15年中村家の敷地内畑から採取した縄文時代の勝坂式土器が発見され現在の「勝坂遺跡」の元となった。(2410)