東京都台東区の「上野恩賜公園」と言えばまず上野動物園の「パンダ」と「西郷像」である。その中でも有名なのが上野の丘に建つお馴染みの姿の「西郷隆盛像」である。幕末の武士であり、政治家、軍人でもあった西郷隆盛を讃えることを目的に建立された。高さは3.7mの堂々たる体躯で、しっかりと前を見据える姿は上野のランドマーク、東京のシンボルとして人気が高く誰しもが訪れる。その隆盛像の先、裏手の木立ちの中に静かに立てられているのが「彰義隊の墓」である。旧将軍・徳川慶喜の護衛を目的として慶応4年(1868)に旧幕臣らにより結成された軍事組織である。「上野戦争」は戊辰戦争で江戸市中で起きた唯一の組織的な戦闘で、百名以上といわれる彰義隊戦死者は当地で荼毘に付されたが、「逆賊」とみなされた彼らの墓を建立することが許されたのは明治7年である。その墓碑銘も政府をはばかって「彰義隊」の名は記されていない。(2404)
座間市栗原鎮座の崇福寺の前の道路左脇には「上栗原の石造物群と星の谷道」の掲示がある。相州八番札所・星谷寺(座間市)と大山街道(旧国道246号)鶴間宿を結ぶ道で巡礼街道であった名残りである。市民が「古道」に親しむきっかけになればと市教育委員会が市内9カ所に「道標」を設置した。点在する文化財や歴史スポットを結ぶ道に着目した事業で県内自治体でも珍しい例だという。 「道標」には古道の経路や謂れ、近隣の文化財や天然記念物などが記載されており、歴史散策の「みちしるべ」として活用できる。標柱タイプと地図付きの看板タイプの2種類がある。設置場所は、市内を東西に走っていた「星の谷道」と「巡礼街道」沿いに7カ所、西部地域の「藤沢街道」沿いに2カ所。星の谷道は西部の住民が東部の開墾地に向かう際に使っていたと伝えられている。巡礼街道は、鎌倉時代に開設された坂東三十三札所の一つ星谷寺への巡礼者が歩いたとされる。「星の谷道は星の谷観音堂前からわかされ、喜兵衛坂を経て東へ向かう星の谷道は、この上栗原の石像物群前から崇福寺前を通り立野橋で目久尻川を渡り大坂を上がって北向庚申神社に至ります。さらに道は相模台団地の中を小松原新開(小松原地区)などの市域東部の開拓地に向かいました。なお、道路向かい側の南角には昭和11年(1936)に当時の栗原の青年団によった建てられた道標があります。」と書かれている。(2408)
相模原市緑区橋本に鎮座する臨済宗寺院「香福禅寺」の西門の横(塀外)の道路脇、昔は「山王山」と呼ばれていた所に「秋葉大権現の石碑」と「石祠」、「徳本念仏塔」、柳川先生の碑、「常夜塔」、「出羽三山参詣供養塔」、「山王社」などの石碑が並んでいる。「秋葉権現」は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で「火伏せの神様」、「火防の霊験」として信仰されている。「秋葉三尺坊大権現」の三大誓願は「第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す」、「第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う」、「第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う」とされる。約170年前の「橋本の大火」時、橋本宿は大半を焼失したが、この石碑群の前で風向きが変わり死者が一人も出なかったことから今でも崇敬されている。(2408)
熊本市中央区千葉城町、熊本城を囲むように流れる坪井川沿いの千葉城橋と厩橋の間に「高橋公園」はある。当園は戦前の第六師団長官舎があった跡地で熊本市の第7代市長で市電の開通や水道の敷設など市の発展の基礎をつくった「高橋守雄」を記念して造られた公園である。熊本城を望む広々とした芝生の公園で市街地の賑やかな場所にありながら、静かな散策を楽しめる公園でその園内の一画に「横井小楠」、彼と親交のあった「坂本龍馬」、「勝海舟」、「松平春嶽」、「細川護久」の5人の銅像が維新の群像として力強く建てられている。「横井小楠」は熊本市内坪井出身の思想家で幕末の動乱期に目指すは「大義を世界に広めることにある」と唱え、日本の進むべき道を示した先駆者で「坂本龍馬」や「吉田松陰」と交流のあった歴史上の人物で「維新群像」は「横井小楠」と「志士」たちの功績を讃えたものである。また、西南戦争の熊本鎮台司令長官だった「谷干城」の銅像もあります。「谷干城」は天保8年(1837)、土佐藩に生まれ、明治10年(1877)の西南戦争で政府軍の熊本鎮台司令長官として少数の兵とともに籠城し、52日間にわたる薩軍の猛攻に耐えたことで名を馳せた人である。以前は熊本城内の天守閣南側にあったが熊本城本丸御殿の復元に伴い、高橋公園に移設された経緯がある。(2403)
橋本市上九沢(梅宗寺の右側)に「南山古梁禅師顕彰碑」と20年間相模原市長を務めた「舘盛静光氏の胸像」が建てられている。「南山禅師」は宝暦6年(1756)ここ上九沢村名主笹野政右衛門の次男として生まれ、9歳の時、長徳寺(上大島)で出家し、11歳の時に江戸「東禅寺」で修行する。38歳の時、仙台藩主「伊達重村」公より仙台「瑞鳳寺」14世の住職として迎えられる。54歳の時、京都「妙心寺」に入山し、朝廷より紫衣を賜る。帰藩後瑞鳳寺・覚範寺の両寺の住職、伊達公より顧問格として推重され、その学徳は多くの人々に尊敬されるに至った。「南山」は天保10年「瑞鳳寺支院」(雄心院)にて84歳で遷化した。この碑は「南山禅師」の遺徳を称えるため昭和37年に建碑されたものである。碑文「天下有山水 各擅一方美 衆美帰松州 天下無山水」(天下山水あり おのおの一方の美を擅にす 衆美松州に帰し 天下山水なし)と刻まれている。凡人には難解な五言絶句である。また右側に建てられているのは第5代市長の「舘盛静光市長」の胸像である。題字は書家「長嶋南龍」氏、撰文は第6代相模原市長の小川勇夫氏である。撰文には舘盛静光氏は1914年旧大沢村生まれ、大沢村役場に勤務の後、町村合併・市政施行を経て相模原市教育委員、教育長、助役を経て市長となる。1997年勲二等瑞宝章を受章された。(2403)