★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

火ともしつけよ。いと暗し。

2020-05-02 20:56:53 | 文学


さしはなれたる廊のかたに、いとようとりなし、しつらひて、端にまちふしたりけり。火ともしたるに、火けさせておりたれば、いと暗うていらんかたもしらねば、「あやし、ここにぞある」とて、手をとりてみちびく。「などかう久しうはありつる」とて、日ごろありつるやうくづしかたらひて、とばかりあるに、「火ともしつけよ。いと暗し。さらにうしろめたくはなおぼしそ」とて、屏風のうしろにほのかにともしたり。「まだ魚なども食はず。今宵なんおはせばもろともに、とてある。いづら」などいひて、物まゐらせたり。

ちょっとよくなったというので、なんとはしたなくも蜻蛉さんみずから兼家さんちに見舞いに行ってしまうのだった。行くと、渡殿の方にきれいな部屋を用意してあった。

「彼は縁側に横になっていた。ともしてあった火を消させて車から降りたのでとても暗くて入りかたも分からない、だから「どうしたの。こっちですよ」と言って、手をって導いてくれた。「どうしてこんなに長くかかったの」と言って、日頃の様子をぼつぼつと話して、しばらくすると「火をともせ。暗いね。何も心配することないよ」とて、屏風のうしろにほのかに灯をともすのだった。」

屏風の後ろに灯を付けるまできちんと感情的に手順を踏む感じでなかなかにいい場面である。この後、魚云々とあるように、兼家は精進落としの魚を彼女と一緒に祝おうとしていたのだ。なかなかいい男ではないか。

昔、金井恵美子の『「競争相手は馬鹿ばかり」の世界にへようこそ』のなかに、アンチ・ロマンなどは物語性よりも描写性というものに重きを置いているんだと書いてあるのを読んだ。同じ文章で、高崎経済大学の学園闘争を描いた「圧殺の森」についてのコメントがあって、最初、学生の顔が馬鹿すぎて見てられないが、次第に映画的によくなる、みたいなことが書いてあった。私はここまでして顔に注目している感性とはどういうものかと思ったのを覚えている。

思うに、上の兼家邸の場面がいいのは、ほぼ暗闇の出来事だということだ。金井氏は、高崎経済大学の学生の顔を明るい光の下に見ている。確かに、この映画の光の使い方はなにか中途半端に見え、ずっと4時頃が続いている感じだった。わたくしは、学生運動の時代はもう少し闇があったし、だから運動自体が「火ともしつけよ。いと暗し。さらにうしろめたくはなおぼしそ」というかけ声に聞こえたのではないかと思う。

 その夜私は提灯も持たないで闇の街道を歩いていた。それは途中にただ一軒の人家しかない、そしてその家の燈がちょうど戸の節穴から写る戸外の風景のように見えている、大きな闇のなかであった。街道へその家の燈が光を投げている。そのなかへ突然姿をあらわした人影があった。おそらくそれは私と同じように提灯を持たないで歩いていた村人だったのであろう。私は別にその人影を怪しいと思ったのではなかった。しかし私はなんということなく凝っと、その人影が闇のなかへ消えてゆくのを眺めていたのである。その人影は背に負った光をだんだん失いながら消えていった。網膜だけの感じになり、闇のなかの想像になり――ついにはその想像もふっつり断ち切れてしまった。そのとき私は『何処』というもののない闇に微かな戦慄を感じた。その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、言い知れぬ恐怖と情熱を覚えたのである。――

――梶井基次郎「蒼穹」


この小説は、大学一年生の時に演習で扱って以来、お気に入りなんだが、――まだ私がそのころ住んでいた都留市にはそんな闇があったような気がする。闇を知っているからこそ、梶井は白昼を闇と感じることも出来る。我々だってそうなのだ。そのとき、我々の心の中に描かれるものは、物語と無縁ではない。