
かく年月はつもれど思ふやうにもあらぬ身をしなげけば、声あらたまるもよろこぼしからず、猶ものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし。
「かげろふ」はもう喩えになってしまっているであろうから虫なのか陽炎なのかあまり考えなくてもよいのかもしれない。問題は、我が身を歎き続け、年改まるも嬉しい気がせず、儚いなーと思ってることが、なぜ「あるかなきかの心ちする」ことになっているかであろう。厳密に言えば「心ち」はあるではないか。やはり「ある」ことには何か効果みたいなものが必要なのである。蜻蛉さんは自分の思い通りにならないことばかりなのが、心地がないような気がするのである。いまもそうであろう。なんか無駄足だったなあ、という気持ちは我々にとって気持ちに認定されない。それを気持ちにするためには、それに何か意義をくっつける必要がある。宗教はその点便利である。
蟻は一匹の王を戴いて毎日朝から晩まで働いている。一匹も怠けるものがなく、そして大きな仕事にぶつかれば大勢一緒になってそれに掛かる。皆仕事を持っているから一匹として生活の不安を抱いているものが無く働いている。この共産主義的蟻の社会には、怠ける者も狡い者も王者を倒そうとする者も無いから、立派に成立して行く。人間にもこうした不安の無い社会が出来ないものだろうかと思った。出来たら、不安なく働けて、そして自分の持って生まれたものを伸ばして行く事が出来るだろう。そういう社会に住んでいれば、怠け者でない限り、狡い者で無い限り、王者を敬うものである限り、終生生活の不安も無く職を失う憂えも無く生きられるのだが、などと彼は考えた。
「それにしても、あの小さな蟻ん坊が、よくこんな大きな蜻蛉を殺して、そして引っ張って行くものだな。」と彼は呟いて、その首の無い蜻蛉の屍を拾い上げて見た。すると蜻蛉の足から翼にかけて、細い細い絹絲のような蜘蛛の巣が、幾本も寄り集まってもちの様に喰い付いている。それから視ると、飛んでいる中に蜘蛛の巣にかかって、ばたばたして下に落ちたのを、蟻の群に攻められたのだと想像されるのである。
――佐佐木俊郎「首を失った蜻蛉」
確かに、我が国は蟻が蜻蛉を運んでいく社会に似ている。コロナ騒ぎにしても、なんだか機能しない政府を庶民がわっしょいわっしょい運んでいる気がする。わたくしはもう十年以上前から、庶民は身を潜めての抵抗モードに入っていると考えている。中には、政府の言うことを過剰に忖度して声を張り上げているバカもいないではないし、この機を捉えてボスザルに昇格しようとする輩までいるわけであるが、――それは一部である。蜻蛉さんの時代も、痕跡はあまり書かれてはいないだろうが、ほとんど機能していない政府の周りで少しずつ事態を動かしている人々がいたはずなのである。