
さて夜は明けぬるを、「人などめせ」といへば、「なにか。又いと暗からん。しばし」とてあるほどにあかうなれば、男どもよびて、蔀あげさせて見つ。「見給へ。草どもはいかがうゑたる」とて見出だしたるに、「いとかたはなるほどになりぬ」などいそげば、「なにか。いまは粥などまゐりて」とあるほどに、昼になりぬ。
兼家宅で一晩明かしてしまった蜻蛉さん。明るくなる前に帰ろうと持ったが、「まだ真っ暗だよ」と、だから帰ろうと思ったのに……、そう言われるとなかなか返しが難しいものだ。明るくなってしまい、召使いの男どもに蔀をあげさせ、「見たまえ、庭の草はどんなだろうね」と言って眺めている。「体裁の悪い時間になってしまいました」と急ぐと、「いいではないか、ご飯食べていけば」とか言うてるうちに、昼になってしまった。
お前たちは、大学生かっ、という恥ずかしいやりとりであるが、兼家というのはこういう感じでだらだらと女性と付き合ってきているのであろう。いい男の場合は、こういうだらしない感じが良さに見えてしまうのである。――と思ったが、自分の体調が悪いときでも、なんかセンスのよい思いやりがある言葉を生産出来るから蜻蛉さんと過ごしたのではないかという感じがする。元気なときには、もっと滅茶苦茶な女性でも、違った楽しみ方があるのかしれないが、弱っているときにはそれなりの優秀な相手でないととんだ悲劇になりかねない。――実にひどい考え方である。
柴田翔の『されど われらが日々――』に何か関係ありそうな場面があった気がするが、いまは思い出せない。中学か高校の頃、この作品と三田誠広の『僕って何』を比べて読んでみたわたくしは、恋愛というのはやはり弱さが決め手なんだなと思ったような気がする。非常に悪い読書経験であった。
それはともかく、弱さがあまりよくないと思うのは、物事の経験がなんというか細切れになっていくというのがある。わたくしの小さい頃がそうで、喘息や何やらで経験が細切れになっているような感じであった。西田幾多郎の『善の研究』で、
表象の体系が自ら発展する時は、全体が直ちに純粋経験である。ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作ったといふ如きは、その一例である
という記述がある。健康でないと、こういう経験は信じられない。ゲーテが大きな作品を作れるのは、やはり彼の健康と関係があるような気がする。「表象の体系」は、未来遙か遠くにある。不健康だと、こういう遠くがないので、目の前のちょろちょろしたものが優しくないといけなくなる。西田自身はたぶん丈夫な人で、そういう人の前に、重い悲劇が次々にやってくる。「これは何の経験だ?」と彼は考えたに違いない。そして、真の経験というモノに支えられた目の前の不幸を経験しようと考えたような気がする。