関の山路、あはれあはれとおぼえて、ゆくさきを見やりたれば、ゆくへもしらず見えわたりて、鳥の二三ゐたると見ゆるものを、しひて思へば、つりぶねなるべし、そこにてぞ、え涙はとどめずなりぬる。
「鳥の二三ゐたると見ゆるものを、しひて思へば、つりぶねなるべし」につづいて涙が止まらなくなるのが、いかにも蜻蛉さんの精神状態である。鳥かと思えば釣り船、兼家かとおもえば違う人、――みたいな、少しの期待外れ、見間違い、見当違いによっても体の異変が起こるのだ。大学院生が、自分の分からない文章の部分を想起しただけでお腹が痛くなったりするのと同じだ。本当に優秀な方は違うかも知れないが、研究とか学問とはそういう危機的な状況を乗り越えてなんとかやって行くもので、それを「好きなことやってやがる」としか思わない娑婆の人間の勘違いは甚だしい。このように、人様の職業の大変さをよく分からなくなり、自分の専門性だけを見つめているオルテガのいうところの「大衆」の定義そのまんまの人種と化した人々は、何か共同作業をしようとするときに、どこにどのような負担がかかるか想像したくないのであった。だから、せいぜい出来るのが自粛とか、むしろ「やらないこと」なのだ。「やる」方向ではまったくセンスが悪くなっている。
――閑話休題。斉藤菜穂子氏の論文を読んで見たら、釣り船をみたときの感情は、「彼女の現実生活での憂いが、無名の人々の生活の営みに気付いたことによって堰を切ってあふれ出たもの」(『蜻蛉日記』唐崎誠いの意義――仮構の明るさと独詠歌――」)と見なすべきだそうだ。さすがわたくしレベルになると、人々の暮らしに何の感慨も抱かなくなっているようである。
若き男も、ほどさしはなれてなみゐて
「さざなみや、志賀のからさき」
など、例のかみごゑふり出だしたるも、いとをかしうきこえたり。風はいみじうふけども、木かげなければいとあつし。いつしか清水にと思ふ。ひつじのをはりばかり、はてぬればかへる。
ここででてくるのは神楽歌の「ささなみ」であり――どうやら、紀行文全体が文化的な織物になっているようであるが、まあそうはいっても、――わたくしの経験だと情景に向かって洒落的なツッコミを入れている精神状態というのはあまりよろしくない。上手に描いてしまうことで、気分を晴らすところまで行くのが、蜻蛉さんなどの天才たちの世界ではあろうが、現代人はもっと一気にストレスを発散しないといけないので、同じ「さざなみ」でも現代だとこうなる。
必殺仕業人 エンディング 「さざなみ」 Full 西崎みどり