
あさましと思ふに、うらもなくたはぶるれば、いとねたさに、ここらの月ごろ念じつることをいふに、いかなる物も、絶えていらへもなくて、寝たるさましたり。
蜻蛉さんは中年のボンクラの煩悩が分からない。せっかくボンクラが蜻蛉さんを懐かしがってやって来てしまったのに、彼女はここぞと許り思いの丈を吐くだけ吐いてしまった。これは「コミュニケーション」能力的にはあまりよくない。最近は、どうみてもクズの方が「頭の弱い僕を褒めて」と逆にすり寄ってくるところを冷たくあしらうとパワハラ認定をしてきたりする御時世である。コミュニケーションなんかたいていの場合うまくいかなくてもよいのであり、蜻蛉さんもその危険を賭して思い切り喋っているのに、ただラブラブしたいだけのボンクラがそういう必死の思いを無視してもコミュニケーションを成就させたいのである。最近、いばっているのはこういうボンクラみたいな奴ばかりである。
聞き聞きて寝たるが、うちおどろくさまにて、「いづら、はや寝給へる」といひ笑ひて、人わろげなるまでもあれど、石木のごとして明かしつれば、つとめて物もいはで帰りぬ。
こんどは蜻蛉さんがつかれて黙ると、「もう寝たの?」とすり寄ってくるボンクラ。蜻蛉さんは怒りの余り、石木のように根性で固まりながら夜を明かした。で、ボンクラは早朝帰ったのであった。
思うに、蜻蛉さんは有島武郎ではないが、ボンクラを「第四階級」とみなし、わたしゃわかりませんわ、と言ってしまえばよかったのではなかろうか。結局。ボンクラのことを好きなだけでなく、心底馬鹿にしてはいないわけである。精神の健康法とその後の暴力的決着の可能性において、階級論というのは便利に出来ているのである。わたくしは、いま世界で進んでいる人間や記号を含めて「モノとして観る主義」――もしかしたら、仏教などが復権してくる可能性があるが、――それがかえって我々の頭を過度に働かし飽和させてしまいやしないかと、私なんかは心配である。要するに、精神の全体主義を如何に避けられるかがポイントなのであろうが、わたくしは、蜻蛉さんみたいな真面目なインテリが彼女の脳髄へのモノの殺到によってますます苦しむことを恐れる。蜻蛉さんは、自分の石木のように認識して余計苦しんでいるのである。
表現者というのは、もともと何もかも受けてしまう傾向にあるのだ。
そうすると、非常にありうる道としては、「個的な偏見」の放置であり、社会のコモンセンスの消滅である。そこで、モノ・情報の縮減を図るのではないかと言うことだ。
墓地は、秋の虫達にとつては此上もないよい遊び場所なのでありますが、已に肌寒い風の今日此頃となりましては、殆ど死に絶えたのか、美しい其声もきく事が出来ません。只々、いつ迄もしんかんとして居る墓原。これ等無数に立ち並んで居る石塔も、地の下に死んで居る人間と同じやうに、みんなが死んで立つて居るのであります。地の底も死、地の上も死……。あゝ、私は早く庵にかへつて、わたしのなつかしい石ツころを早く拾ひあげて見ることに致しませう、生きて居る石ツころを――。
――尾崎放哉「石」
今日は、合計三時間の「スターリン主義」についての講義を収録したが、――尾崎放哉のこの気分はスターリンにも起きそうで恐ろしいことだ、と思った。