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一丁のほどを、石階おりのぼりなどすれば、ありく人こうじていとくるしうするまでなりぬ。これかれなどは「あな、いとほし」など、よはきかたざまにのみいふ。このありく人、「「すべて、きむぢ、いとくちをし。かばかりのことをば言ひなさぬは」などぞ、御けしきあし」とて泣きにも泣く。
兼家(ボンクラ)は、ほんとにお籠もりに出陣してしまった蜻蛉さんを追ってきた。しかし物忌み中である。ボンクラらしく社会的距離を守らん不届きものである。かれは石段の下に車をつけ、車からでられない(物忌みなので)というておる。で、道綱が、夫婦げんかの仲裁で、100メートルの石段を何回も往復して苦悶。ひどすぎる。侍女たちも「おかわいそう」と気弱なことばかり言う。――どうも蜻蛉さんは、とくに道綱が可愛そうとは思っていないようにも見える。完全に、ボンクラを詛うモードに入ってしまって、道綱は圏外なのであろう。道綱曰く「父上は「だいたいお前がふがいないのだ。この程度のことを取りなせないとは」と機嫌が悪いのです。」と泣く。泣くなっ。というか、このボンクラオヤジ一体お前は何を言ってるんだ。
GO TO HELL
されど「などてか、さらに物すべき」と言ひはてつれば、
宇宙一つよい「されど」である。息子が息も絶え絶え父親からも文句を言われているのに「だから何?」と言い放つ母親である。
「「よしよし、かく穢らひたればとまるべきにもあらず、いかがはせん、車かけよ」とあり」と聞けば、いと心やすし。
とりあえず、ボンクラは帰るらしいので安心である。しかし、今のように携帯電話でもあれば、道綱が苦労することもありえないのに、道綱は生まれるのが1000年早かった。
「……(階段)の人物は、あなたの想像通り、あれはあなたの――僕に映つた映像でした。僕は無意識にあれを描きました。今日、あなたの手紙を見て僕は、吾ながらはじめて気づいたわけです。あなたの映像はそれほど深く僕の胸底に沁み込んでゐたわけです。でも僕は、眼近くお目にかゝるのは今日がはじめてゞす。斯うして、お目にかゝつて見ると、あの画中の人物は一層あなたに似てゐるといふことが、僕自身にはつきり解つて来るのです。不思議でなりません。架空のつもりで描いたものが、それほどの結果になつてゐたことを思ふと僕は或る運命感さへ抱きたくなります。」
――牧野信一「階段」
しばしば階段は文学的シーンを形作る。階段は、山のようでもあり、人生のようでもあり、なんというか――実景と観念があわさったような気がするからだろう。ツイッターには、階段マニアたちが楽しそうに会話している。だが、階段をつくること自体は、道綱の運動よりも更なる苦行なのである。わたくしの同級生の土木屋は、山の斜面にコンクリートの階段をつくっていたときに、何か天啓を受けたことがあるらしい。