★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

舞をみて泣く親

2020-05-15 23:32:05 | 文学


まづ陵王舞ひけり。それもおなじほどの童にて、我がをひなり。ならしつるほど、ここにて見、かしこにて見など、かたみにしつ。されば、次に舞ひて、おぼえによりてにや、御衣ぞたまはりたり。内よりは、やがて車の後に陵王ものせて、まかでられたり。ありつるやうかたり、
「わが面をおこしつること、上達部どものみななきらうたがりつること」
など、かへすがへすもなくなくかたらる。


兼家も親ばかであって、立派に成長して弓や舞を披露する息子に泣いている。なんとも情けないオヤジだ、泣いてんじゃないぞ、と思うが、――昭和の男を内面化しているわたくしみたいな人種が、特殊だったのかも知れないのだ。古典の世界では、屡々めそめそと男が泣いている。

弓の師よびにやる。さてまたここにてなにくれとて物かづくれば、うきみかともおぼえず、うれしきことぞものに似ぬ。

ここでつい「憂き身かとも覚えず」(日頃の憂さも忘れて)と書いてしまうところが鬱ば蜻蛉さんならではであるが、なんとも嬉しそうである。もっとも、この親どもは、まともに子育てをしているか怪しい。今日、授業で、杉山平助の『文芸五十年史』について語り、白樺派の人道主義はひとえに彼らが「貴冑界の若殿原」であったからだと切って捨てていることを相対的に評価したが、――教師も親も子どものすべてを抱えていないから子どもの成長が嬉しいとか言うに至るのである。芥川龍之介の「捨児」の語り手も、どこまで自覚的だかわからんが、――生みの親、赤ちゃん時代の親、それ以降の親と三段階にわけて親がいたことを暴露しておきながら、蓮華夫人が五百人の子どもに乳を与えた話を語って、母以上の存在があるみたいな話をしている。無論、そんなものはない。あるのは、部分的に関わる人間たちである。――といっても、最近、子どもを社会の中で分担して育てようみたいな機械的な発想はあまりに楽天的である気がする……。こういう機械的な発想は、人間の一生を何かの形式的反映物として捉えている。冗談じゃないぜ、という気がする。

ソ連科学アカデミーの編んだ『マルクス・レーニン主義 美学の基礎』というのが本棚から出てきたので、めくってみたが、もはやこれは反映論でさえなく、スローガン主義であった。二十代の頃は、もっと分かった気がしていたのだが、もはやここらあたりの本は、インゴルドの『ラインズ』よりも難解な代物になっている。

日本の芸能には古代からまひとをどりとが厳重に別れてゐた。いろんな用例からみても、旋回運動がまひ、跳躍運動がをどりであつた事が明らかである。芸能と言ふより、むしろ生理的な事実について言つてゐるのである。だから宗教者が、ある時興奮状態におちいつて、その心理作用が生理的条件をつき動して表現せられるとき、ある場合は旋回運動としてはげしく、又はゆるく舞ふ事になる。又時としては跳躍運動として、その興奮の程度によつて、或は高く或は静かに、をどり上る動作がくり返される。

――折口信夫「舞ひと踊りと」


息子とかプロレタリアートとかに拘って居ると、踊りの動作自体が眼に入らないのだ。――わたしはあまり舞も踊りもなんとなく恐くてあまり見ないが……。