★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

涙を湧かす火群

2020-05-24 23:34:23 | 文学


雨の脚、同じやうにて、火ともす程にもなりぬ。南面に、このごろ来る人あり、足音すれば、「さにぞあなる。あはれ、をかしく来たるは」と、沸きたぎる心をば、かたはらに置きて、うちいへば、年ごろ見知りたる人、向かひゐて、「あはれ、これにまさりたる雨風にも、古は人の障り給はざめりし物を」といふにつけてぞ、うちこぼるる涙の熱くてかかるに、おぼゆるやう、
  思ひせく胸の火群はつれなくて涙をわかす物にざりける
と、くり返しいはれしほどに、寝る所にもあらで、夜は明かしてけり。


雨をついてやってくる男に魅力を感じるのは昔からだったらしい。いまも、ざーざー降りの中を彼女の家の前をうろうろしている男がいるようなドラマがあるのかも知れない。最近はドラマをほとんど観ていないのでよく分からん……。蜻蛉さんはもうトサカにきてしもうてるので、十二月の初めにひさしぶりにボンクラが訪ねてきても衝立に隠れて不機嫌そうにしていたら「宮中から呼ばれたので」とかいうて帰ってしまったのだ。思うに、蜻蛉さんにとって不幸なのは、ボンクラがただの男ではなく、今や右大将の男だったということだ。どうみても蜻蛉さんの怒りは相手が偉くなってしまっていることと関係がある。どうみても自分の方が価値があるのに……という思いがあるに違いない。――近代人のようなそんなもんあるかいなと思われる人もいるかも知れないが、いや、あるだろう……。

上の歌は好きだ。胸の炎が涙を沸かすとは、もう――四畳半物語みたいな地点に行きそうだ。失恋に呆然としながらインスタントラーメンを沸かす大学生は多かろう。平安の恋の恐ろしさは、人によっては、男に捨てられることは飢えを予想させるものだったということだ。いまだってそういうものはある。

わたくしは、アレクセイ・サヴラーソフ『ミヤマガラスの飛来』(1871)を思い出す。

一見、池のほとりの冬の風景に見えながら、木には多くのカラスがとまっていて、雪の上にいるやつもいる。何を啄みにきたのか、何か不気味な作品である。蜻蛉さんにとって、夫婦関係は、こんなよく見ると死が見えるような、不安定ではないが、地獄的なものになっていた。

今日、中野秀人の「第四階級の文学」を読み直したが、そこにはブルジョアデモクラットがそのままプロレタリアの精神になってしまいそうな論法があって、私は共感した。しかし、なんとなく、彼の文章には、カラスの存在がないような気がした。

ああ私は遂に第四階級の偏見に囚われて了った。けれども Into the people と云う言葉を熱愛する私には致し方がない。第四階級の文学は意地悪るでもあれば、気狂じみても居る。生存競争弱肉強食の一切の矛盾と不合理をば見守って居る。

昭和29年の『現代文学論大系』のテキストをみたら、上の「気狂じみても居る」は「モウビットでもある」となっていた。中野は、狂気と病的の間で迷っていたのだ。こういうところが、教養人じみている。