木陰いとあはれなり。山かげのくらがりたるところを見れば、ほたるはおどろくまで照らすめり。里にて、むかしもの思ひうすかりしとき、「二声と聞くとはなしに」と腹だたしかりしほととぎすもうちとけて鳴く。くひなはそこと思ふまでたたく。いといみじげさまさる物思ひのすみかなり。
わたくしは、蜻蛉日記はもう少し日記の書き手が描く昆虫や動物たちが活き活きとしているのかと思っていたが、わたくしが期待した程ではない。ある意味で、ボンクラとの心理的抗争は、彼女にとってはボンクラの心理を含めて明々白々なのであって、少しも不可思議なところはないのだ。だから、彼女の眼に映る風景は、彼女の心理を補強することはあっても、心理が風景に吸い込まれ、――パースペクティブ主義ではないが、虫の目が彼女に注がれることはない。
今日、東京では、戦闘機?が医療現場への感謝だかなんだかで、飛んでいたという。
たしか、映画の「プライベートライアン」だったと思うが、最後に友軍の飛行機が頭の上を通っていったときに、一気に戦局ばかりか、戦場の見え方がかわってしまう。ちょっと違うかも知れないが、日本武尊の白鳥の場面もそうであって、この場面がなければ日本神話はほんと空から何かが降りてくるお話であるにもかかわらず、まったく閉じた感じの話になっていたはずである。視点の無根拠な変更を余儀なくされる出来事がある。芥川龍之介「龍」にはそこまでの事件が起こらなかった。芥川龍之介の作品は、なかなかそれが起こらなかった。芥川龍之介の目の前では、出来事が見えたり見えなかったりを繰り返す。我々はどことなく、芥川龍之介的逡巡を知的だと感じることもあって、カール・シュミットの所謂「龍を仰ぐ人々」にすらなりにくい部分がある、とおもっていたらそうでもなさそうである。
我々の物事に対する感覚は、もっと言語的というか、統一的な平板なものになりつつある。
「トップガン」とか、あるいは「ラピュタ」でもいいが、飛行機に乗ることの快感を描く作品がある。わたしは、飛行機に乗るのがいまでもすごく恐ろしいのだが、こういう作品をたくさんみてもその感覚はかわらない。「プライベートライアン」的なものと、この二つはまったくうまくかみ合わない。宮崎駿の「風立ちぬ」の最初に、主人公の0戦の制作者が紙飛行機にのって「墜落」する夢を見るところがあるが、やはり宮崎は問題に自覚的だったのだ。「風たちぬ」では、恋愛の過程で飛行機遊びがただの飛行機遊びになり、彼の「墜落」の恐怖を無化してしまうのだが、――その代わりに、彼のつくった戦闘機はすべて墜落し、彼は最後の場面で、草原にたたずんでいる。死んだ妻が「生きて」とか言ったような気がするが、このあとの彼の人生は、もう空への夢を「絵空事」にとどめるしかない(宮崎のアニメーションのことである)。
コロナの問題でもそうだが、見え方の分裂というか乖離の問題をすごくはやく解決する人が多い印象だ。言語にあまりに頼るとそうなるんじゃないか。
病気やテロのように、闇の中に原因がある場合、9.11の政治的後始末がそうであったように、誰も「反省」しない傾向があるが、原爆なんかの問題を政治と科学の帰結に押し込めてしまったのが原因ではなかろうか。政治と科学が手を携えると、程度の差こそあれ、無責任に物事を決めるしかなくなる。この二者どちらも仮説によって動く分野なのだ。PDCAサイクルなんかも、間違いを修正してゆく科学主義で、絶対に確かなものにはたどり着かず、闇は闇のままにしながら我々がすべきことを恣意的に決定出来るのである。しかし、すでに自明なものというものはあり、――我々が何を思い浮かべ、どのように動く可能性があるのか、という自明な部分が逆に分からなくなることがある。
一昨年論文で書いたんだが、「原爆」は結局、自明なものを無視出来ない芸術によってしか真の姿をあらわさないと思うのだ。
大岡昇平の戦記なんか、その自明な部分を忘れないということだけのために書かれたようなもんだ。
「ひた心になくもなりつべき身を、そこにさはりて今まであるを、いかがせんずる。世の人のいふなるさまにもなりなん。むげに世になからんよりは、さてあらばおぼつかなからぬほどに通ひつつ、かなしき物に思ひなして見給へ。かくていとありぬべかりけりと身ひとつに思ふを、ただいとかくあしきものして物をまゐれば、いといたくやせ給ふをみるなん、いといみじき。 かたちことにても京にある人こそはと思へど、それなんいともどかしう見ゆることなれば、かくかく思ふ」と言へば、いらへもせでさくりもよよになく。
浅学のため、いままで尼になることへの世間の非難など考えたこともなかった。こういう自明なことを教えてくれるのが文学作品である。