★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「変身」など

2020-05-09 23:28:47 | 映画


今日はクリス・スワントン監督の『変身』(2012)を観た。なんと虫となったザムザが結構微妙なCGで、しかもディズニーのしゃべる昆虫たちのそれのような眼をしている。この不自然さが普通の(どの映画をさすべきかは分からんが……)「変身」の映画にはない、ザムザへの感情移入を微妙に発生させるのである。この小説は確かに漫画じみているところがある。この滑稽さは、虫であることを演技そのものでやってしまったワレーリイ・フォーキンの傑作では出ない。フォーキンの虫はなんだか人以上の迫力を持っていて、死ぬ感じがしないのだ。これが、今日みたCGはなにかペラッと死ぬ気がする。ゴキブリのように。実際に虫が死ぬ場面が非常によい。昆虫の中身が空洞な感じがよくでている。あと、グレーテ・ザムザ(妹)役のローラ・リースという役者が、非常に合っていた。ある意味、この妹役は、ビバリーヒルズ高校白書の端役ででてくる感じの子を抜擢するのがよい気がする。お母さん役は、この人どこかでみたなと思ったら、『戦場のピアニスト』に出ていた人だった。

池上遼一の『罪の意識』という作品集も読んだが、なかなかよかったな。これは『ガロ』時代の作品を集めたものだった。わたくしは、まだ辛うじて、この人達の書こうとした田舎の暗さやコンプレックスを突き抜けてしまった惨めさを想像出来るような気がするが、気のせいかも知れない。本当は、こういう想像の手触りみたいな微妙な問題が、「変身」なんかにも存在しているはずなのである。

日の脚のわづかに見えて、霧ところどころにはれゆく。あなたの岸に家の子、衛府の住など、かいつれてみおこせたり。中に立てる人も、旅立ちて狩衣なり。岸のいとたかきところに舟をよせて、わりなうただあげにになひあぐ。轅を板敷にひきかけて立てたり。

朝霧のなかにあらわれる兼家。なんかかっこよすぎるみたいだが、こんな場面でさえ、その時でないと分からないちょっとしたところがあるに違いない。