かくてかぞふれば、夜見ぬことは三十余日、昼見ぬことは四十余日なかりけり。いとにはかに、あやしといへばおろかなり。心もゆかぬ世とはいひながら、まだいとかかる目は見ざりつれば、見る人々もあやしうめづらかなりと思ひたり。ものしおぼえねば、ながめのみぞせらるる。人目もいとはづかしうおぼえて、おつる泪おしかへしつつふして聞けば、うぐひすぞをりはえて鳴くにつけて、おぼゆるやう。
うぐひすもごもなきものや思ふらん みな月はてぬ音をぞなくなる
六月と皆尽き、を掛けているが、「ごもなきものや思ふ」(際限なく思う)があるから、「尽きはてぬ」の意味の方に感情は流れて行く。気になるのは「みな」の方だ。多くの鶯は六月まで鳴いていることはないが、尽き果てない「皆」ではない一人がいるのであった。ここには、私だけこんな感情になってという孤独がある。鶯がいるじゃねえか、と私はおもうのであるが……。
思春期の頃は、わたくしも飼っている鳥と一緒に孤独に朽ちるかも知れないといった夢想に浸ったこともあったが、――そんなに人生は甘くない。孤独を許さないぐらいに孤独であると言った方がよかった。蜻蛉さんはまだ人恋しくて泣いているので、それほどでもないような気がする。
うぐいすは毎朝やって来て、だんだん雄二の家の庭を好きになるようでした。縁側の方から雄二たちが見ていても、あわてて逃げだすようなことはありません。
日曜日の朝でした。
『よし、あのうぐいすを一つ写真にうつしてやろう』と、雄二の父は早速カメラを持って縁側に現れました。
『とれた、とれた、うまくとれたぞ』
父はうれしそうでした。雄二もどんな写真が出来るのか早く見たくてたまりませんでした。五日ほどして、うぐいすの写真は出来上りました。それは庭の黒べいと梅の枝が黒くうつっていて、白い花とうぐいすの姿がくっきりと浮出ている、すばらしい写真でした。雄二は父からその写真を一枚もらいました。
けれども、その写真が出来た頃から、うぐいすは雄二の家の庭に姿を見せなくなりました。どうしたのかしら、どうしたのかしら、と、雄二はしきりにさびしくなりました。
雄二はうぐいすの写真をポケットに入れて学校へ行きました。
『僕のうちに来ていたうぐいすだよ』
『そうかい』と、山田君は目をみはりました。
雄二は山田君をつれて、家にもどって来ました。が、庭に来てみても、やはりうぐいすはいませんでした。雄二と山田君はその写真と庭の梅の木を見くらべて調べてみました。ちょうど、あのうぐいすがとまっていた枝が見つかりました。
『あそこのところにとまっていたのだね』
『うん、あそこのところだ』
『あそこのところに何かしるしつけておこう』
山田君はポケットから白いひもを取出しました。そして、それをうぐいすのとまっていた枝のところに結びつけました。
――原民喜「うぐいす」
写真やしるしに頼るようになった我々は、実在に関して昔とは違った感覚を持っているが、――原民喜はもっと大きな実在物を経験した人間だった。何かがいなくなることに対して、ただいなくなったのだと信じられない。それは鶯だけではなく雄二や山田君もそうなのだ。我々もどこかで、あまりにも大きな影響を与える実在物を想定しすぎて、手に届く範囲の世界を実在物として認めるのに苦労するようになった。孤独とは、自分が存在していることの証拠でもある――蜻蛉さんなんかは、影が薄くなるのは自分の心だけだったから、自分の実在までは疑ってはいまい。だから悲しむことができるのである。