★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ものに怖じける/羨む

2020-05-30 23:23:34 | 文学


物語のついでに、「おほくは殿の御もよほしにてなんまうできつる。「ささしてものしたりしかど、出でずなりにき。又ものしたりともさこそあらめ。おのが物せんにはと思へば、え物せず。のぼりてあはめたてまつれ。法師ばらにも、いとたいだいしく経をしへなどすなるは、なでふことぞ」となんの給ヘりし。かくてのみはいかなる人かある。世中にいふなるやうに、ともかくもかぎりになりておはせば、いふかひなくてもあるべし。かくて人もおほせざらんとき帰りいでてゐたまへらんも、をこにぞあらん。さりとも今ひとたびはおはしなん。それにさへ出で給はずばぞ、いと人笑はへにはなりはて給はん」など、物ほこりかに言ひののしるほどに、「西の京にさぶらふ人々、「ここにおはしましぬ」とて、たてまつらせたる」とて、天下のものふさにあり。山のすゑと思ふやうなる人のために、はるかにあるにも、身のうきことはまづおぼえけり。

妹を送ってぼんやりしているとなにやら、賑やかな集団が車に乗ってやってきた。お布施、僧達に贈り物などを配りまくる人々。ボンクラの指令でモノを使った作戦に出てきたのである。使いの老女がいきなり説教。「これらは殿の言いつけで参ったのです(←知ってるわ)。『先日はこうして迎えに行ったけど全然でてけえへんで、また行っても同じだろうサ。行ってもダメだと思うのでもう行かない(←はあ?)お前が行って小言を申しあげろ。坊主共にも、不届きにも経をを教えるとは何事か。』とおっしゃるのです。こんなことをばかりしている人がどこに居ます?(←ここに居るわよ)世間の噂の言うように、もうすでに尼になったのならしかたないです。(以下略)」

とまあ、偉そうに言っているところに、滅多にない豪華なモノがたくさん届いた。山の中に引きこもろうとする蜻蛉さんにとってはそれが「はるかにある」と思われてしまうのであった。ここが、蜻蛉さんの権威主義的な(泣)ところで、相手の繰り出す豪華さにくらべて自分はもうイイデス、みたいな態度である。吉本隆明なら、文学者とは、こういう豪華さを本気で羨む心を肉体化した者だけだ、とかなんとか言うところだ(「石川啄木」)。そんなやつなら、ツイッターや5ちゃんねるにたくさんいる気がしないでもないが――、いっこうに石川啄木は出現しないようである。

西日をうけて熱くなつた
埃だらけの窓の硝子よりも
まだ味気ない生命がある
正体もなく考へに疲れきつて、
汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる

まだ若い男のロからは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛脛を照し、
その上に蚤が這ひあがる。

起きるな、起きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの来るまで。

何処かで艶いた女の笑ひ声。


――石川啄木「起きるな」


吉本は、最後の三行だけを引用してたので、何か「起きない」ことが抵抗であるかのような気がしていたが、前の方から読んでみると、なんだがデカダンスのようである。