★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

のどかにたのむとこのうへを

2020-05-27 23:22:11 | 文学


返り事には、「よろづいとことわりにあれど、まづいくらむはいづくにぞ。頃は行ひにもびんなからむを、こたみばかりいふこと聞くと思ひて、とまれいひあはすべき事もあれば、唯今渡る」とて、
 あさましやのどかにたのむとこのうへをうちかへしける波の心よ。
いとつらくなむ」とあるを見れば、まいて急ぎまさりてものしぬ。


蜻蛉さんは、山寺に籠もろうと決心。知らせを聞いてボンクラから手紙が来た。「どこの寺に行くつもりだ。夏だから暑くて経を唱えるには不向きだ。こんどばかりは言うことを聞きなさい、止めなさい。相談することもあるから。”あきれたことだ、個々のどこかで頼むところがある私の心を裏切り、寝床をいきなりひっくかえされたようですよ。ヒドイ”」こんなせりふは逆効果っていうか、全然事態が分かっていないボンクラ。「まいて」(まして)加速して家をでる蜻蛉さんであった。

寝床をひっくり返される経験は、みんな子どもの時にあるであろう。そこで自分の至らなさを反省せず、お母ちゃんのせいにしているガキがろくなもんではないのは言うまでもないが、ボンクラは右大将になっても「まだ寝ていたい」とか言って居るのである。

人生の幸福とはよい食慾とよい睡眠とに外ならないと教えられたが、まったくそうである。ここでは食慾の問題には触れないでおく。私たちは眠らなければならない。いや眠らずにはいられない。しかも眠り得ない人々のいかに多いことよ。
 眠るためには寝床が与えられなければならない。よく眠るためにはよい寝床が与えられなければならない。彼等に寝床を与えよ。


――種田山頭火「寝床」


四民平等になると、ボンクラみたいなやつの存在を忘れ、「彼らに寝床を与えよ」という言葉には宛先がないのだ。本当はあるはずである。