ビューロクラシーのなかで生活するというのは覚悟のいることである。単なる面従腹背とは違う巧妙なやり方を、周りの人間が開発しているのではないかという、疑心暗鬼にかられる日が多くなった。
『批評空間』末期の頃、浅田彰が、悲惨な時代においても「クリティカルスペース」が抽象的にあり得るのだという風なことを言っていたが、私はそのとき懐疑的だった。『批評空間』が潰れたら、批評家は大学にしか居場所がなくなるのではないかと思ったからである。事実、そういう批評家がたくさん出たではないか。実際の居場所がなければ「スペース」はない。
しかし、浅田に比して、私は大学に期待をかけすぎていたのかもしれない。浅田にしてみれば、大学も『批評空間』も期待できないが故に、すでに絶望的な「スペース」を夢想しているだけだったのかもしれない。
さあれ、去年の雪、いまいずこ
『批評空間』末期の頃、浅田彰が、悲惨な時代においても「クリティカルスペース」が抽象的にあり得るのだという風なことを言っていたが、私はそのとき懐疑的だった。『批評空間』が潰れたら、批評家は大学にしか居場所がなくなるのではないかと思ったからである。事実、そういう批評家がたくさん出たではないか。実際の居場所がなければ「スペース」はない。
しかし、浅田に比して、私は大学に期待をかけすぎていたのかもしれない。浅田にしてみれば、大学も『批評空間』も期待できないが故に、すでに絶望的な「スペース」を夢想しているだけだったのかもしれない。
さあれ、去年の雪、いまいずこ
用事があって高知に行ってきた。
そこである学者さん会った。まったく別の分野の、かなり年配の学者であるが、なかなか話が面白かった。
別分野との交流で刺激を受けたなどと、中学生のようなことをいう人間でなくてよかった。私の狭い経験でもこういう出会いはまれである。ときどき何も話をしないうちから「他分野の人とお話しすると気分が晴れる」だの「刺激を受けます~」とか開口一番切り出す学者もいる。非常にたちが悪いと言わざるを得ない。
私とその人がともに最近の学会に対して抱いている印象があった。いわば「アキレスと亀」現象である。(私がそういったら、それは比喩としては間違いだろうがイメージしやすいなあ~、といってくれたわ)論文作法の形式化と量産化で、研究者がアキレス化している。アキレスは年間論文数を多くしようとして、1ミリずつ何回も全力疾走する。しかも「おれは全力で先行研究追い越してるぞ!」と叫びながら。しかし、亀を絶対追い抜けない。亀は一歩(年間1本の論文)で2センチも動いてしまうんでね……。
やはり別分野でも同じ現象が起こっていたか……
あと、学者の教養の低下についてもだいたい同じ意見であった。論文を量産するためには、教養がない方がいいのだ。教養があると、例えば、おれの思いつきなんてどうせマルクスやフロイトが先に言ってしまっているにちがいない、と怯えたあげく、黴くさい全集を引っ張り出さなくてはならない。それではテンポがわるくてしょうがないからだ。明らかに最近の博士論文指導などでは「よぶんな本を読むな」と指導しているはずである、と彼は言った。とすると私は幸運だった。花田×輝なんかやめて他を読め、と言い続けられていたからだ。しかし急に言われても教養というものは地層のようなものなので、焦って砂を積んでも風で吹き飛んでしまうことがある。
私は最後にこう言ってみた。「ドストエフスキーが小説で言ってしまっていることを、我々がもっともらしく言い換える必要はあるでしょうか?ときどき、必要はないとおもうんですけども。」
「確かに必要はない。しかし言っておかないと真実が弁証法的に証明されてきたことが、未来の人に分からない。ドストエフスキーの勝利が確実だとしても。」
「我々は生け贄ですか……」
「我々ではなく、文学研究者が……」
最後の会話は、あるいは私の自問自答だったかもしれない。今日の高知は暑かったのでね……。
夕方に、横山隆一記念まんが館に行ってきた。西原理恵子の展覧会目当てだったのに7月からだった。
そこである学者さん会った。まったく別の分野の、かなり年配の学者であるが、なかなか話が面白かった。
別分野との交流で刺激を受けたなどと、中学生のようなことをいう人間でなくてよかった。私の狭い経験でもこういう出会いはまれである。ときどき何も話をしないうちから「他分野の人とお話しすると気分が晴れる」だの「刺激を受けます~」とか開口一番切り出す学者もいる。非常にたちが悪いと言わざるを得ない。
私とその人がともに最近の学会に対して抱いている印象があった。いわば「アキレスと亀」現象である。(私がそういったら、それは比喩としては間違いだろうがイメージしやすいなあ~、といってくれたわ)論文作法の形式化と量産化で、研究者がアキレス化している。アキレスは年間論文数を多くしようとして、1ミリずつ何回も全力疾走する。しかも「おれは全力で先行研究追い越してるぞ!」と叫びながら。しかし、亀を絶対追い抜けない。亀は一歩(年間1本の論文)で2センチも動いてしまうんでね……。
やはり別分野でも同じ現象が起こっていたか……
あと、学者の教養の低下についてもだいたい同じ意見であった。論文を量産するためには、教養がない方がいいのだ。教養があると、例えば、おれの思いつきなんてどうせマルクスやフロイトが先に言ってしまっているにちがいない、と怯えたあげく、黴くさい全集を引っ張り出さなくてはならない。それではテンポがわるくてしょうがないからだ。明らかに最近の博士論文指導などでは「よぶんな本を読むな」と指導しているはずである、と彼は言った。とすると私は幸運だった。花田×輝なんかやめて他を読め、と言い続けられていたからだ。しかし急に言われても教養というものは地層のようなものなので、焦って砂を積んでも風で吹き飛んでしまうことがある。
私は最後にこう言ってみた。「ドストエフスキーが小説で言ってしまっていることを、我々がもっともらしく言い換える必要はあるでしょうか?ときどき、必要はないとおもうんですけども。」
「確かに必要はない。しかし言っておかないと真実が弁証法的に証明されてきたことが、未来の人に分からない。ドストエフスキーの勝利が確実だとしても。」
「我々は生け贄ですか……」
「我々ではなく、文学研究者が……」
最後の会話は、あるいは私の自問自答だったかもしれない。今日の高知は暑かったのでね……。
夕方に、横山隆一記念まんが館に行ってきた。西原理恵子の展覧会目当てだったのに7月からだった。
私は一見して浮世離れしているようにみえるらしい。
今の職場にきた1日目に、学部長室でご高説をタマワッたあと、同時に赴任した、いまや数少ないわたくしの盟友Kさんに「一目見て浮世離れしてると思った~(激笑)」と言われたくらいである。一種の一目惚れというやつである。
という私であるが、実際、ニュースにあまり関心がなく、オリンピックが始まっているのに一週間気が付かずなど日常茶飯事、大学のころなど、ソ連が崩壊していたのに一ヶ月気が付いていなかった。ちょうど「ドイツ農民戦争」を読んでいたころなのに、私を無視して崩壊するとは、――だからソ連はだめなんだよ。
というわけで、予想も付いたと思うが、日本がサッカーで勝ったとかいう話もいま知った。で、勝ったってどういう意味?優勝したのですか?そうですか、それはすごい!
以前、捕まる前の「彫り絵紋」が、宮台真司と神保哲生がやってるネットの番組に出演し、「インターネットの優秀なところってなんだと思います?速報性ですよ」と、二人のインテリに自慢していたが、私にはまったく通じない自慢であるな。私は「彫り絵紋」のような、文字通り豚突猛進のような男はけっこう好きなのだが、自分の得意分野の知識は当然みんなが知るべきである的な感覚はやめた方がよいな……。マイノリティーがいつもやる戦略だから別にイイか……、と思うのであるが、でも最近のある種の若手(といってももう四十路近いんだけどな、だいたい)は自分がしらないことに関しては即座に「わかりにくい」(←お前のレベルに合わせて誰もがしゃべる訳じゃないんだよ。まずは勉強せい)と相手を脅す癖に、自分が知ってることに関しては「なんでしらんの?ていうか僕のことしらないの?」(←しるかボケ)という態度に出るのはいい加減やめてもらえんかね。
最近、外にでる仕事が多く、昨日と今日も高×から離れておったのだが、そのときかき氷の旗にひかれて店に入ったところ、メニューを何回見てもかき氷がないのだ。で、いっしょにいた人に聞いてみたところ、世間ではいつのまにか「フラッペ」という名前に変わっていたらしいのだ、
「フラッペ」、なんですかそのヘタレ感満載の名前は!
「かき氷」は濁音がついてるから、男らしさがあったのに。「大五郎」「ゴン太」、「ゴジラ」、「五時間目はゼミだ、いやだなあ」とか、を見りゃ分かるだろう。またIT長者と結婚することを夢見るスイーツ(笑)の連中が変更したんだろうが、――こういう重要なことは、私に黙って変えないでほしい。ソ連が崩壊したとか、日本が勝ったとか、そういう絵空事じみたことはどうでも良いが……。
ご飯をライスとか言い換えるのもやめてほしい。
ご飯国務長官とか、「わかりにくい」ではないか。
今の職場にきた1日目に、学部長室でご高説をタマワッたあと、同時に赴任した、いまや数少ないわたくしの盟友Kさんに「一目見て浮世離れしてると思った~(激笑)」と言われたくらいである。一種の一目惚れというやつである。
という私であるが、実際、ニュースにあまり関心がなく、オリンピックが始まっているのに一週間気が付かずなど日常茶飯事、大学のころなど、ソ連が崩壊していたのに一ヶ月気が付いていなかった。ちょうど「ドイツ農民戦争」を読んでいたころなのに、私を無視して崩壊するとは、――だからソ連はだめなんだよ。
というわけで、予想も付いたと思うが、日本がサッカーで勝ったとかいう話もいま知った。で、勝ったってどういう意味?優勝したのですか?そうですか、それはすごい!
以前、捕まる前の「彫り絵紋」が、宮台真司と神保哲生がやってるネットの番組に出演し、「インターネットの優秀なところってなんだと思います?速報性ですよ」と、二人のインテリに自慢していたが、私にはまったく通じない自慢であるな。私は「彫り絵紋」のような、文字通り豚突猛進のような男はけっこう好きなのだが、自分の得意分野の知識は当然みんなが知るべきである的な感覚はやめた方がよいな……。マイノリティーがいつもやる戦略だから別にイイか……、と思うのであるが、でも最近のある種の若手(といってももう四十路近いんだけどな、だいたい)は自分がしらないことに関しては即座に「わかりにくい」(←お前のレベルに合わせて誰もがしゃべる訳じゃないんだよ。まずは勉強せい)と相手を脅す癖に、自分が知ってることに関しては「なんでしらんの?ていうか僕のことしらないの?」(←しるかボケ)という態度に出るのはいい加減やめてもらえんかね。
最近、外にでる仕事が多く、昨日と今日も高×から離れておったのだが、そのときかき氷の旗にひかれて店に入ったところ、メニューを何回見てもかき氷がないのだ。で、いっしょにいた人に聞いてみたところ、世間ではいつのまにか「フラッペ」という名前に変わっていたらしいのだ、
「フラッペ」、なんですかそのヘタレ感満載の名前は!
「かき氷」は濁音がついてるから、男らしさがあったのに。「大五郎」「ゴン太」、「ゴジラ」、「五時間目はゼミだ、いやだなあ」とか、を見りゃ分かるだろう。またIT長者と結婚することを夢見るスイーツ(笑)の連中が変更したんだろうが、――こういう重要なことは、私に黙って変えないでほしい。ソ連が崩壊したとか、日本が勝ったとか、そういう絵空事じみたことはどうでも良いが……。
ご飯をライスとか言い換えるのもやめてほしい。
ご飯国務長官とか、「わかりにくい」ではないか。
さっき、ブログ全体を英語に自動翻訳してみたのだが、けっこう面白いぞ。
「いつか私もビバリーヒルズに住むでやんす」というタイトルがまずこんな風に
I live in Beverly Hills sometime Mudeyansu
最後のいまいちなセンスの会話……
「ミスター・ワタナベに電報です」
「センキュー!ちょい待ち、チップあげるでやんす」
「ワーオです」
「ほれ、もってけ、日本の千円札でやんす」
「ここに印刷されてあるのは漱石さんっすか」
「べらんめえ、英世さんでやんす。やっこさん、アメリカに墓があるんでやんす」
「ワーオでやんす」
は次の通り。
"Mr. Watanabe is a telegram."
"Sen queue! Think again, I'll chip in Su ceased."
"Wow it."
"Fall in love, only thereby ceased Su in Japanese thousand yen bill."
"There are printed here or Ssu Soseki's"
"Young tough, Mr. Su ceased in Hideyo.'s Yakko, Su, I have a grave in the United States ceased."
"Wow Su in intermittent"
これを更にヤフーの自動翻訳にかけて和訳すると、
「ワタナベ氏は、電報です。」、「センは待ち行列を作ります!もう一度思ってください。私はSuが止んだと割り込みます。」、「それをわかせてください。」、「愛の秋は、それによってだけ日本の千夢法案でSuをやめました。」「そこで、ここで印刷されるか、Ssuソウセキのものです」「若いタフな人(ヒデヨでやめられるSu氏)。ヤッコ(Su)が私ですアメリカ合衆国の墓が、止みます。」「断続的なものでSuをわかせます」
これを更に英語に自動翻訳……更に日本語に……を何回か繰り返した結果こうなった……
「ワタナベは、電報です」。「センは待ち行列を作ります!もう一度考えてください。Suが止まったとき、私はそれをシャットアウトしました。私はすることができて、それで、興奮させることができます(それ)。私は秋のもので1,000の日本の理想的な要請によってSuを止めました。そして、「それによって愛してください。「Ssuソウセキのものであるそらは、ここで印刷されます」、「若い手ごわい人」∥(Su氏は、ヒデヨにいました)。ヤッコ(Su)が私であるアメリカ合衆国の墓は、止まります。私は「断続的なものでSuを興奮させることができます」
なんだか、ポルノ調になってきている気がしないでもない……
「いつか私もビバリーヒルズに住むでやんす」というタイトルがまずこんな風に
I live in Beverly Hills sometime Mudeyansu
最後のいまいちなセンスの会話……
「ミスター・ワタナベに電報です」
「センキュー!ちょい待ち、チップあげるでやんす」
「ワーオです」
「ほれ、もってけ、日本の千円札でやんす」
「ここに印刷されてあるのは漱石さんっすか」
「べらんめえ、英世さんでやんす。やっこさん、アメリカに墓があるんでやんす」
「ワーオでやんす」
は次の通り。
"Mr. Watanabe is a telegram."
"Sen queue! Think again, I'll chip in Su ceased."
"Wow it."
"Fall in love, only thereby ceased Su in Japanese thousand yen bill."
"There are printed here or Ssu Soseki's"
"Young tough, Mr. Su ceased in Hideyo.'s Yakko, Su, I have a grave in the United States ceased."
"Wow Su in intermittent"
これを更にヤフーの自動翻訳にかけて和訳すると、
「ワタナベ氏は、電報です。」、「センは待ち行列を作ります!もう一度思ってください。私はSuが止んだと割り込みます。」、「それをわかせてください。」、「愛の秋は、それによってだけ日本の千夢法案でSuをやめました。」「そこで、ここで印刷されるか、Ssuソウセキのものです」「若いタフな人(ヒデヨでやめられるSu氏)。ヤッコ(Su)が私ですアメリカ合衆国の墓が、止みます。」「断続的なものでSuをわかせます」
これを更に英語に自動翻訳……更に日本語に……を何回か繰り返した結果こうなった……
「ワタナベは、電報です」。「センは待ち行列を作ります!もう一度考えてください。Suが止まったとき、私はそれをシャットアウトしました。私はすることができて、それで、興奮させることができます(それ)。私は秋のもので1,000の日本の理想的な要請によってSuを止めました。そして、「それによって愛してください。「Ssuソウセキのものであるそらは、ここで印刷されます」、「若い手ごわい人」∥(Su氏は、ヒデヨにいました)。ヤッコ(Su)が私であるアメリカ合衆国の墓は、止まります。私は「断続的なものでSuを興奮させることができます」
なんだか、ポルノ調になってきている気がしないでもない……
長原豊氏の「ブリダンの驢馬と血気 ケインズの〈永遠の現在〉」を読む。この人の文章も、読む人がある覚悟をもつことを要求する、というか体調を整え、潜水する気持ちにならなければならない。注(53)にはびっくりしたわ。「以下の論攷を一興として提示しておく」。スピノザの有名な比喩、「ブリダンの驢馬」のように、秣と水桶にまよう驢馬どころじゃなく、まさになさけなくあたふたしながら読み終えたら、最後の注が「一興として」ときたから、どぎまぎしてしまったよ。
動揺したところで、ゲオルゲの詩集のなかから「ニーチェ」を取り出して読む。詩の後半、全く意味が分からない……。それにこれは翻訳だし……。また、どぎまぎする。
昨日フロイトの「トーテムとタブー」の戦前の翻訳に半日つきあってから、かなり動揺しているのだ。
おかげでコーヒーが不味い。
自分が知らない事柄の壁……翻訳の壁……自分とは違う気質の文章の壁……
動揺したところで、ゲオルゲの詩集のなかから「ニーチェ」を取り出して読む。詩の後半、全く意味が分からない……。それにこれは翻訳だし……。また、どぎまぎする。
昨日フロイトの「トーテムとタブー」の戦前の翻訳に半日つきあってから、かなり動揺しているのだ。
おかげでコーヒーが不味い。
自分が知らない事柄の壁……翻訳の壁……自分とは違う気質の文章の壁……
もはや、小松菜という感じではなくなってきたが、というのは、この前の首の部分だけが生き残っているのである。ちなみに胴体は死滅した。
魯迅ではないが──いや四谷怪談でもいいけども、首が飛んでも動いてみせるわ、とはこのことであろう。
高見順「深夜の樹木」
深夜
樹木は出発の準備をする
魂胆があって準備する
永いことかかるところの準備をする
殆ど毎夜準備する
しっかりと地に根を張りながら準備をする
どこへ出発するのか
それは樹木にもわからないしわかることを必要としない
出発することこそ樹木の生涯の願いである
今夜も
樹木は出発の準備をする
深夜の陰謀に手をふるわせながら準備をする
この詩をたしか花田×輝が、こういうやつは永遠に出発しねえよ(笑)とからかっていたが、要するに首をちょん切れば良かったのである。そして違う場所に植えてやるのである。
しかし、どうも高見にしても花田にしても、植物が人間と比べものにならないくらい運動性にとみ繁殖に貪欲であることを見逃しているのではないか?だいたい、人間の子宮が毛でふわふわ飛んでいったりしますか?胞子を天に向かって思い切り吹き上げたり、昆虫に運ばせたりやりたい放題ではないか?
魯迅ではないが──いや四谷怪談でもいいけども、首が飛んでも動いてみせるわ、とはこのことであろう。
高見順「深夜の樹木」
深夜
樹木は出発の準備をする
魂胆があって準備する
永いことかかるところの準備をする
殆ど毎夜準備する
しっかりと地に根を張りながら準備をする
どこへ出発するのか
それは樹木にもわからないしわかることを必要としない
出発することこそ樹木の生涯の願いである
今夜も
樹木は出発の準備をする
深夜の陰謀に手をふるわせながら準備をする
この詩をたしか花田×輝が、こういうやつは永遠に出発しねえよ(笑)とからかっていたが、要するに首をちょん切れば良かったのである。そして違う場所に植えてやるのである。
しかし、どうも高見にしても花田にしても、植物が人間と比べものにならないくらい運動性にとみ繁殖に貪欲であることを見逃しているのではないか?だいたい、人間の子宮が毛でふわふわ飛んでいったりしますか?胞子を天に向かって思い切り吹き上げたり、昆虫に運ばせたりやりたい放題ではないか?
赴任したときに驚いたのは、「ともに生きる力」とか「協働」とか「教育ではなく支援」とか「感動の共有」とか、「コミュニケーション能力」とか「コラボ」とか「学生の利益を優先」とか「連携」とか、他にもあげればきりがないが、どこぞのファシスト(というより、戦時中のソ連型と疑われたエリート役人である。)がしゃべっているのかと疑う言葉がなんの躊躇もなく発話され飛び交っていたことである。そもそもindividualism がないところで、人間のつながりを強制するこんな空言が過剰に流通するのは自分たちに合わせて行動しないと仲間から追い出すよ、というメッセージが発せられているとしか思えない。日本に限ったことではなかろうが、totalitarianismというのは頭の×そうな言葉が流通してしまうことによってなされる。反抗すれば何をされるか分からないから、死んだふりするしかなくなるのである。
いまでも私は上記の言葉をきくと虫酸が走るので、私に会った方は気をつけてしゃべった方がいいです、わしゃいつ脳溢血で倒れるか分からんよ……。
既に述べたように、上の寒いせりふはすべて同調圧力を後押しする言葉である。つまり、こういう言葉にホイホイついて行っている人間は、絶対にこそこそいじめをやるタイプであって、赴任当初はたぶんそうだな、と思っていただけだけど、いまは賭けてもいい。自分で考える自由より連携によるいじめの快感を取る連中が次々に教員になってよいのであろうか。よいはずがない。
いまでも私は上記の言葉をきくと虫酸が走るので、私に会った方は気をつけてしゃべった方がいいです、わしゃいつ脳溢血で倒れるか分からんよ……。
既に述べたように、上の寒いせりふはすべて同調圧力を後押しする言葉である。つまり、こういう言葉にホイホイついて行っている人間は、絶対にこそこそいじめをやるタイプであって、赴任当初はたぶんそうだな、と思っていただけだけど、いまは賭けてもいい。自分で考える自由より連携によるいじめの快感を取る連中が次々に教員になってよいのであろうか。よいはずがない。
NHKの得意技、深夜のドラマ再放送で「ビバリ~ヒルズ高校白書」(第1話と第2話)をやると聞いたので、見てみた。
世界的に流行っていたドラマで、私が大学のときぐらいだったかしらん、ときどき見てたようなきがする。ビバリーヒルズに引っ越してきたミネソタの双子兄妹(ブランドンとブレンダ)がセレブな連中の悲惨な人生につきあう話だ。男女関係がリゾームのように入り組んでいて、たぶん登場人物たちもよく分かっていないのではなかろうか。
一番人気のあったのは、第一話からいきなり鼻を整形してでてくる(元の鼻がわからん……)ケリーという美少女と、バイロンを読み部屋の埃をインテリアだとか抜かす(私とほとんどキャラクターがかぶっている)ディランとかいう美男の不良である。ディランは、まず双子の妹のブレンダの処女を奪ったんだが、まもなくケリーとくっつく。とすると、物語というものの必然として兄のブランドンがケリーとくっつく。――このドラマは完全に無頼派の復讐劇である。あとの展開はよくしらない。もう玉突き遊びのようにくっついたり離れたりするらしいけど。
無頼派は当然戯作派でもある。まず言葉遣いがそうなのだ。ウィキペディアにも書いてあったけど、ビバリーヒルズに行くと「ちょい待ち」「やっこさん」「 ~でやんす」「ワーオです」などの奇妙な日本語が頻繁に飛び交っているらしいのだ。どこまで戯作かと……。私もこれからセレブになってビバリーヒルズに住む予定であるので、そのあかつきにはさっそく使ってみることにする。こんな感じで……。
「ミスター・ワタナベに電報です」
「センキュー!ちょい待ち、チップあげるでやんす」
「ワーオです」
「ほれ、もってけ泥棒、日本の千円札でやんす」
「ここに印刷されてあるのは漱石さんっすか」
「べらんめえ、英世さんでやんす。やっこさん、アメリカに墓があるんでやんす」
「ワーオでやんす」
世界的に流行っていたドラマで、私が大学のときぐらいだったかしらん、ときどき見てたようなきがする。ビバリーヒルズに引っ越してきたミネソタの双子兄妹(ブランドンとブレンダ)がセレブな連中の悲惨な人生につきあう話だ。男女関係がリゾームのように入り組んでいて、たぶん登場人物たちもよく分かっていないのではなかろうか。
一番人気のあったのは、第一話からいきなり鼻を整形してでてくる(元の鼻がわからん……)ケリーという美少女と、バイロンを読み部屋の埃をインテリアだとか抜かす(私とほとんどキャラクターがかぶっている)ディランとかいう美男の不良である。ディランは、まず双子の妹のブレンダの処女を奪ったんだが、まもなくケリーとくっつく。とすると、物語というものの必然として兄のブランドンがケリーとくっつく。――このドラマは完全に無頼派の復讐劇である。あとの展開はよくしらない。もう玉突き遊びのようにくっついたり離れたりするらしいけど。
無頼派は当然戯作派でもある。まず言葉遣いがそうなのだ。ウィキペディアにも書いてあったけど、ビバリーヒルズに行くと「ちょい待ち」「やっこさん」「 ~でやんす」「ワーオです」などの奇妙な日本語が頻繁に飛び交っているらしいのだ。どこまで戯作かと……。私もこれからセレブになってビバリーヒルズに住む予定であるので、そのあかつきにはさっそく使ってみることにする。こんな感じで……。
「センキュー!ちょい待ち、チップあげるでやんす」
「ワーオです」
「ほれ、もってけ泥棒、日本の千円札でやんす」
「ここに印刷されてあるのは漱石さんっすか」
「べらんめえ、英世さんでやんす。やっこさん、アメリカに墓があるんでやんす」
「ワーオでやんす」
私はほとんどスポーツに興味がないし、実際にやってもおらぬ。私がなぜ浅田彰が好きかといえば、彼がちゃんと思想書の中で「体だけが丈夫な頭の悪い奴ら」とかなんとか批判したことである。ここまでちゃんと体育会系をけなしたやつはおるまい。コンプレックスというのはたちの悪いもので、根っからの文弱にかぎって、坂口安吾はスポーツが出来たからすごいとか、安部公房は100メートルの記録保持者だったとか、柄谷行人はバスケがうまいとか、何を言いたいのか分からんが、そんなことを意味ありげに言ったりするのである。
とはいえ、私も中日ドラゴンズだけは気になって仕方がない。父親が猛烈なファンだからである。
一応ありふれたことをいっておくと、――日本でどの野球チームのファンになるかということは、その人の家族とか地域とか国家がおびる意味、つまりコミュニティのあり方となんらかの関係がある。例えば、巨人は戦後復興する日本を象徴し、中日は昔はともかく今はうだつの上がらぬ名古屋を象徴し、阪神は関東に主導権を握られ続ける独自な関西文化を象徴し、広島はもちろん……を暗黙に象徴させられることで、そこに住んでいる人をファンというコミュニティ形成へと駆り立てる、あるいは形成を強制される。そこに努力やら、憎まれ役やら、反体制やら、悲惨の共有などの観念がくっついたりするとそれが加速する。と、思っているのは私ぐらいの世代までの男と、新聞記者だけで、もうただのスポーツになりつつあるのだろうけども……。
というわけ?で、中日の勝敗に一喜一憂する父に別段反感も持たなかった私も中日だけは気になる。
落合監督になって中日は結構強い。
特に2004年と2006年は強かった。2007年には53年ぶりの日本一になった。
ただ、最近なんとなく三位あたりをふらつくようになってきた。
なぜか?
よくわからんのだが、指導者の影響力というのは、我々がふつう認識するよりも意外に強いものである。これが教員をやってきた私の感想である。予想以上に指導者の存在そのものを模倣するんだよ。指導される側は……。
年々、中日の選手は落合監督に似てきてるんではないかな……。落合監督の能力や意識ではなく結果的に陥ってしまう存在様態に。落合監督が個人タイトルを軒並みかっさらっていた選手時代、彼のいたチームは毎年優勝しておったであろうか。そんなことはないんだわな……。個人がタイトルを取っても優勝できない。中日がそんなチームになりつつあるような気がするのは私だけであろうか。
しかし巨人がまた優勝するのはつまらない。巨人優勝というだけで、他のなんか意味がいろいろくっついてくる感じがするからいやじゃの。巨人の4連覇を阻止するための方策を考えたいのう~。
というわけで、毎年巨人というチーム名をくじ引きで決めたらいいんじゃないかな?言葉と実体の関係が恣意的なのは人文科学の常識だ。
「巨人ブラウン監督、またベース投げで退場!」
「巨人の落合監督、また空気読まずに岩瀬を投入」
「巨人のブランコ、公園のブランコで子どもを遊ばす」
「巨人の山本昌投手、60歳で完全試合達成!試合後に実はロボットであることを告白!」
「巨人奇蹟の30連勝!興奮した橋下知事が道頓堀に100億円を投げ込んだところ、そこに群がる巨人ファンがまるでゴミのようだ!」
「巨人また最下位!蓮舫大臣、2位以下のホーム球場の仕分けを宣言、特に神宮球場は明日核爆弾で粉砕の模様!」
こんな記事を見てみたいものだ。
とりあえずがんばれドラゴンズ!父のために(笑)
とはいえ、私も中日ドラゴンズだけは気になって仕方がない。父親が猛烈なファンだからである。
一応ありふれたことをいっておくと、――日本でどの野球チームのファンになるかということは、その人の家族とか地域とか国家がおびる意味、つまりコミュニティのあり方となんらかの関係がある。例えば、巨人は戦後復興する日本を象徴し、中日は昔はともかく今はうだつの上がらぬ名古屋を象徴し、阪神は関東に主導権を握られ続ける独自な関西文化を象徴し、広島はもちろん……を暗黙に象徴させられることで、そこに住んでいる人をファンというコミュニティ形成へと駆り立てる、あるいは形成を強制される。そこに努力やら、憎まれ役やら、反体制やら、悲惨の共有などの観念がくっついたりするとそれが加速する。と、思っているのは私ぐらいの世代までの男と、新聞記者だけで、もうただのスポーツになりつつあるのだろうけども……。
というわけ?で、中日の勝敗に一喜一憂する父に別段反感も持たなかった私も中日だけは気になる。
落合監督になって中日は結構強い。
特に2004年と2006年は強かった。2007年には53年ぶりの日本一になった。
ただ、最近なんとなく三位あたりをふらつくようになってきた。
なぜか?
よくわからんのだが、指導者の影響力というのは、我々がふつう認識するよりも意外に強いものである。これが教員をやってきた私の感想である。予想以上に指導者の存在そのものを模倣するんだよ。指導される側は……。
年々、中日の選手は落合監督に似てきてるんではないかな……。落合監督の能力や意識ではなく結果的に陥ってしまう存在様態に。落合監督が個人タイトルを軒並みかっさらっていた選手時代、彼のいたチームは毎年優勝しておったであろうか。そんなことはないんだわな……。個人がタイトルを取っても優勝できない。中日がそんなチームになりつつあるような気がするのは私だけであろうか。
しかし巨人がまた優勝するのはつまらない。巨人優勝というだけで、他のなんか意味がいろいろくっついてくる感じがするからいやじゃの。巨人の4連覇を阻止するための方策を考えたいのう~。
というわけで、毎年巨人というチーム名をくじ引きで決めたらいいんじゃないかな?言葉と実体の関係が恣意的なのは人文科学の常識だ。
「巨人ブラウン監督、またベース投げで退場!」
「巨人の落合監督、また空気読まずに岩瀬を投入」
「巨人のブランコ、公園のブランコで子どもを遊ばす」
「巨人の山本昌投手、60歳で完全試合達成!試合後に実はロボットであることを告白!」
「巨人奇蹟の30連勝!興奮した橋下知事が道頓堀に100億円を投げ込んだところ、そこに群がる巨人ファンがまるでゴミのようだ!」
「巨人また最下位!蓮舫大臣、2位以下のホーム球場の仕分けを宣言、特に神宮球場は明日核爆弾で粉砕の模様!」
こんな記事を見てみたいものだ。
とりあえずがんばれドラゴンズ!父のために(笑)
レーニンをとりあえず積んだ。
この場所にあった講談社文庫版「アンジェリク」(←何巻あるんだこれ、多すぎ~
はどうやらこれだけの長さを使って未完であることが判明
↓
押し入れに栄転
もう永久に読まんな……
でも映画版はアンジェリクが意外と妖艶だという話を聞いたのでいつか見るかも。
この場所にあった講談社文庫版「アンジェリク」(←何巻あるんだこれ、多すぎ~
はどうやらこれだけの長さを使って未完であることが判明
↓
押し入れに栄転
もう永久に読まんな……
でも映画版はアンジェリクが意外と妖艶だという話を聞いたのでいつか見るかも。
3年生も黄昏のころ、「卒業できるかなあ、というより就職できるのか、わたしぃ」と不安に駆られているところに、卒業論文の指導だということでゼミに出席してみると、いきなり
「警告します。卒論で扱う作家の全集をいますぐ買ってこい、そして4月までに読み終えろ」
などとどう考えてもモーゼの十戒よりも無茶な要求をされている×川大学教育学部国語国文学研究室××ゼミの皆さんに朗報です。
古本のレーニン全集が安いです。全55巻ですが、4000円ぐらいです。
4日断食
↓
4000円たまる
↓
あまりのひもじさにプロレタリアートに自然生長している
↓
レーニン全集を買う
↓
既にプロレタリアートなので、それを読むまでもなく、革命実行
↓
当然×川大学はつぶれ、××教員も磔になる
↓
卒業論文執筆の義務も自然消滅
↓
共産主義なので就職しなくても生きていける
↓
ハッピー
しかし、レーニン全集を安くして革命とは、共産主義者も考えたなあ。マルクスは皮肉で面白いけどなんか読んでると「資本家になったほうがいいんじゃね?」と思えてくるしなあ、レーニンを手っ取り早く読ませた方がよいというわけだ、実に賢い。
「警告します。卒論で扱う作家の全集をいますぐ買ってこい、そして4月までに読み終えろ」
などとどう考えてもモーゼの十戒よりも無茶な要求をされている×川大学教育学部国語国文学研究室××ゼミの皆さんに朗報です。
古本のレーニン全集が安いです。全55巻ですが、4000円ぐらいです。
4日断食
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4000円たまる
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あまりのひもじさにプロレタリアートに自然生長している
↓
レーニン全集を買う
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既にプロレタリアートなので、それを読むまでもなく、革命実行
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当然×川大学はつぶれ、××教員も磔になる
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卒業論文執筆の義務も自然消滅
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共産主義なので就職しなくても生きていける
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ハッピー
しかし、レーニン全集を安くして革命とは、共産主義者も考えたなあ。マルクスは皮肉で面白いけどなんか読んでると「資本家になったほうがいいんじゃね?」と思えてくるしなあ、レーニンを手っ取り早く読ませた方がよいというわけだ、実に賢い。
研究室で昨日のフレンド舟の報告書を書きながら、柴田寿子氏の「リベラル・デモクラシーと神権政治」を読む。柴田氏はレオ・シュトラウスによりながら、スピノザを経由し、モダニテイこそが旧約聖書にある「嫉妬する神」を殺したと書いておる。
「お前にはわしの他に神があってはならぬよ」「わしはお前さんの神じゃよ、(ちなみに)わしは嫉妬深い神じゃけん……」「という訳でとりあえず警告しとくわ、お前らが守らなきゃいかん10つの約束は次の通り……」
エジプトを脱出して実存的モードに入っていたモーゼにこう神が言ったので……モーゼは今度は追っ手ではなく自らが引き連れてきた同胞に対する戦闘的啓蒙に着手するのである。(聖書を読み直している暇がないんだが、こういう話だったかな?)
かくして、神とユダヤ人は嫉妬しあう関係になったが……これを普遍的な隣人愛などの普遍的宗教と合理主義が殺してしまったというのである。その結果が、現在につづく虐殺の歴史だ。
我々の宗教的土壌では、愛すべき隣人からいきなり何の前提もなしに「(ちなみに)わしは嫉妬深い神じゃけん……」「という訳でとりあえず警告しとくわ、お前が守らなきゃいかん10つの約束は次の通り……」といわれそうで怖いわ。
まだきちんと読んでないから何もいえんが、柴田氏の書きぶりはちょっとお行儀が良すぎるという感じがする……が、私は、戦争が始まれば喜んで戦場に話のネタを探しに行きかねずネタにこまったら「隣人愛に神を見ました」ぐらい平気で言ってのける人種の末裔だ。モーゼの神以上に信用できないのは私の方であろう。
「お前にはわしの他に神があってはならぬよ」「わしはお前さんの神じゃよ、(ちなみに)わしは嫉妬深い神じゃけん……」「という訳でとりあえず警告しとくわ、お前らが守らなきゃいかん10つの約束は次の通り……」
エジプトを脱出して実存的モードに入っていたモーゼにこう神が言ったので……モーゼは今度は追っ手ではなく自らが引き連れてきた同胞に対する戦闘的啓蒙に着手するのである。(聖書を読み直している暇がないんだが、こういう話だったかな?)
かくして、神とユダヤ人は嫉妬しあう関係になったが……これを普遍的な隣人愛などの普遍的宗教と合理主義が殺してしまったというのである。その結果が、現在につづく虐殺の歴史だ。
我々の宗教的土壌では、愛すべき隣人からいきなり何の前提もなしに「(ちなみに)わしは嫉妬深い神じゃけん……」「という訳でとりあえず警告しとくわ、お前が守らなきゃいかん10つの約束は次の通り……」といわれそうで怖いわ。
まだきちんと読んでないから何もいえんが、柴田氏の書きぶりはちょっとお行儀が良すぎるという感じがする……が、私は、戦争が始まれば喜んで戦場に話のネタを探しに行きかねずネタにこまったら「隣人愛に神を見ました」ぐらい平気で言ってのける人種の末裔だ。モーゼの神以上に信用できないのは私の方であろう。
嘘よ、本気よ
……
好きよ、嫌いよ
松田聖子の唄で、作詞は松本隆(「小麦色のマーメイド」)であるが、これはアンヴィバレンツであろうか、ツンデレであろうか?
ツンデレという言葉は、ツンドラを想起させる言葉である。だから、もともとの「ツンツンデレデレ」のほうがよいとおもう。カタツムリみたいな愛嬌が感じられる。とまれ、それは普段はツンツンしてるくせにあるとき突然デレデレしたりするというキャラクターのことである。
つくづく発想が物語的である。私はなんでも物語にしてしまう我々の文化の土壌にアンヴィバレンツな感情を持つ。物語とは調和への欲望である。データを使ってもプロットを使っても同じことだ。キャンプ場でも教室の中でも、教員や学生から受ける印象はいつも同じである。
すねてる学生→キャンプファイアーで大騒ぎ
「→」は物語としてうけとるべきではない。でもこれはアンヴィバンレツですらない。ただの矢印だ。
……
好きよ、嫌いよ
松田聖子の唄で、作詞は松本隆(「小麦色のマーメイド」)であるが、これはアンヴィバレンツであろうか、ツンデレであろうか?
ツンデレという言葉は、ツンドラを想起させる言葉である。だから、もともとの「ツンツンデレデレ」のほうがよいとおもう。カタツムリみたいな愛嬌が感じられる。とまれ、それは普段はツンツンしてるくせにあるとき突然デレデレしたりするというキャラクターのことである。
つくづく発想が物語的である。私はなんでも物語にしてしまう我々の文化の土壌にアンヴィバレンツな感情を持つ。物語とは調和への欲望である。データを使ってもプロットを使っても同じことだ。キャンプ場でも教室の中でも、教員や学生から受ける印象はいつも同じである。
すねてる学生→キャンプファイアーで大騒ぎ
「→」は物語としてうけとるべきではない。でもこれはアンヴィバンレツですらない。ただの矢印だ。