★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

友愛

2010-06-05 06:51:02 | 大学
今日はキャンプ場みたいなところに学生といっしょに行く。むかし吹奏楽部でやった曲の中に「マーチ グッドタイムフレンズ」というのがあったな「ゆかいな仲間の行進曲」……。

友よ 夜明け前の 闇の中で 友よ 戦いの 焔を燃やせ 

そういえば、こういう歌も昔あった。

三井甲之を歌わせる

2010-06-04 01:21:56 | 文学
昨日ブログでも書いた三井甲之が気になって、いくつかの和歌をみてみたが、はあ、という感じなので、片山杜秀氏の三井論まで読んでみる。三井というのは、原理日本社のおじさんぐらいしか把握してなかったのだが、さすが片山氏、やはり写生論までさかのぼって考えていた。もとアララギだからなあ。

まあ、片山氏のような論法は、三井の意識に忠実であろうとすることによって、三井の中でさえ物切れ状態だった彼の個人史を、イデオロギーの流れみたいに考えてしまうことでもある。そこに長所と欠点が存する。

私も気をつけねば。

しかしさすがナクソスのCDなどで日本の戦前の作曲家を墓場から復活させた片山氏、三井を復活させておる。とはいえ、その復活とは、キリストのようにはいかない。骨と塵になってしまった死体を生きてるように見せなければいけないのだから。勢い、骸骨を糸でつなげて持ち上げ、浄瑠璃の如く背後から操らなければならぬ。時には大げさにしゃべったり歌ったりすることも必要だ。もちろん猛烈に音楽好きな片山氏は自分で歌ってしまうのだ。その方が観客がいる感じがして生きてる感じもするしね。そんなときは機関銃でも持って「かいかん」とか言いつつ観客に撃ちまくってるイメージをステージ上で思い描くことさえ不可能とは言えない。

私もその気分はわかる。しかし、どちらかというと私は歌うことを拒否した研究者の方に親しみを持つ。

祝!終わらない日常

2010-06-03 03:44:54 | 日記
祝!ブログ一ヶ月記念!

祝い酒も何もないので、爽×美茶を一気飲みする。

この二日間、寝てなかったためか天使がうろつき発×の軍靴が聞こえてきたので寝る

非常に不愉快な夢を見た
(科研費の書類を一年中書かされる夢である。最後は発狂して文××××に火をつけたら、左腕が燃えだしたので目が覚める。)

まだカレンダーが5月だったのでめくってみる。カフカの憂鬱な顔があらわれた。

午後の授業のために北村謙次郎の『あららぎ物語』をめくる。ぬるい会話の描写に「まるで下手な×上××だ」と思う。しかし三井甲之が伊藤左千夫の「隣の嫁」をエロ小説としてよんでいたというのでびっくり。ホトトギス所載の小説がどう読まれていたのかこりゃ再検討の余地有りである。「野菊の墓」でさえ、おそろしく扇情的であった可能性がある訳だ。

とつぜん「にこにこぷん」の一場面を想い出した。「おかあさんといっしょ」って、父子家庭をなめてないか?

祝!ブログ一ヶ月記念!

鳩ぽっぽから革命の歌声を

2010-06-02 17:23:07 | 思想
今日は鳩の日になりましたな。鳩と言えば鳩ぽっぽ~であるが、一国の首相を鳩ぽっぽに喩えるのはネット上に以前から溢れかえっており、まあ紋切り型と言ってよかろう。

いまの若い方々はしらないかもしれないが、某石原★★★都××もその表情が鳩が豆鉄砲××××などと言われていたのである。

日本は鳩が大好きである。さすがは平和国家(軍事的×国)である。学生諸君は、もいちど安部公房の「手」を読み直し、鳩は時代を超えて生きるが、最後は悲惨な運命を辿りがちだということを自覚すべし。

文学研究者の私としては、鳩を単体であつかうのもよかろうと思うけども、むしろ「ぽっぽ」に注目したい。

とすれば、すぐに思い浮かぶのはちょっと前に流行った鼠先輩「六本木~GIROPPON~」である。これは後半の「ぽっぽ」の連続歌唱がなんとなく「ええじゃないか」的な盛り上がりを持っている曲で、やけになったサラリーマンがよく絶唱していたという(……知らんけど)。

鳩ぽっぽの歌、いや正確に言うと文部省唱歌「鳩」は、鳩ぽっぽの表現的効果を充分出していない。最後に、飛んでいけだの、仲良く遊ぼう(昭和16年バージョン)などといかにも特攻や翼賛体制を想起させる説教をつけてしまっているからだ。

首相を批判している者たちも大概だし、もう日本は本当に滅びかけていると思う学生諸君は、就職活動をしばしやめて、鼠先輩のように「ぽっぽ」を永遠に繰り返すのである。面倒だからメロディーは鳩ぽっぽのやつでいいです。さあ、どうぞ

ナルシスティックでかわいい

2010-06-01 23:10:38 | 大学
ふつう文学をやっていると、文学者はモラルや制度なりを踏み破ることを快感とする人種の様におもわれてくるけれども、実際に会議などで正義とかモラルをいいがちなのも文学者なのではなかろうか?不思議である。いや、不思議でも何でもない。

実際、主観性の限界が常に枷として目にちらつく──つまり「反省」状態がデフォルトである──文学なんかより、主観性からはなれたと称する数字や図式をつかった学問の方が、自分のために巧妙にふるまえる、という事情があるのではないか。そんな気がする出来事が多い。公共性や客観性を装った自己顕示みたいな行動のことだ。で、きまってそういう人間に限って常識を疑う、というのが持論である。

何故か分からんが、文学者の本能(笑)は、こういうタイプをたぶんだめだなと告げる。――我ながら道学者すれすれの感覚に嫌気がさしてくる。しかし、人文科学の特徴が、一種の禁止事項――「法」と関係しているのは自明の理なのだ。

私がみたところ、日本の近代文学は上記のタイプをきちんと描いていないと思う。愚鈍な父や母、怪物の様な資本家や同志、宇宙人のような恋人を描いている場合ではなかったのではないか?