★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「つれづれなるまゝに」考

2021-05-16 18:32:50 | 文学


つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。

よくあることなのであろうが、徒然草の本文をじゅうぶん読まぬうちから、小林秀雄の「徒然草」(『無常といふ事』)を読んでしまったので、批評家の魂の誕生とか、つい口走りそうになる。

考えてみると、この出だしはすごく異常なことを書いていて、――暇でつれづれなくせに一日中机に向かって、心に移って行く事々を目的もなく書き続けると、その怪しい様は気が狂うほどである、――。意識の流れというより、散漫とした書く動作と書く内容とが狂気の発生をもたらす事態なのであって、これはむしろ、一日中ツイッターをやっている人間のようなものである。ツイッター民のいらいらした感じは、2ちゃんねるのいらいらした感じとは違って、集団行動の狂気というより、そこはかとなく書きつくることによるいらいらが関係しているのではないか。

日記でさえ毎日書いていると、明らかに現実の中になにかゆがんだ空間が出来て、そのなかに意地悪く閉じ込められている様な感覚になるものだが、そんな感覚を言っているのかもしれない。この意地悪い感じが独特で、猜疑心とは違うが、妙にいらいらしたものにとらわれるようになる。

書くことで正気を保つのは結構難しいことなのである。

小林秀雄は兼好は物が見えすぎている、と言っているが、わたくしのような凡人には、見えすぎているという状態は分からない。「過ぎる」という地点ははたして何処なのか。

最近考えているのは、様々な心理的な狂いが悪意を生み出す風景である。どうみても悪意というものが、ある。小林秀雄が「金閣焼亡」で狂人には悪意がある様に見えた、と書いているのは鋭いと思う。小林はどうもそれは勘違いだったと言いたいようにもみえるが、果たしてそうなのか。

雨の降る日の縁端に
わが弟はめんこ打つ
めんこの繪具うす青く
いつもにじめる指のさき
兄も哀しくなりにけり

雨の降る日のつれづれに
客間の隅でひそひそと
わが妹のひとり言
なにが悲しく羽根ぶとん
力いつぱい抱きしめる
兄も泣きたくなりにけり


――朔太郎「雨の降る日(兄のうたへる)」


こういうのを読むと、朔太郎は流石という感じがする。人間にとってつれづれのようなものは感情そのものではなく、他人の感情によって自分の感情が導かれると思わされるからだ。しかしこれはこれで、自分を失うことでもあるわけである。

蓬と人生

2021-05-16 12:56:20 | 文学


年月は過ぎ変はりゆけど、夢のやうなりしほどを思ひいづれば、心地も惑ひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどのことは、まださだかにも覚えず。人々は皆ほかに住みあかれて、古里にひとり、いみじう心細く悲しくて、ながめあかしわびて、久しうおとづれぬ人に、
  茂りゆくよもぎが露にそぼちつつ人にとはれぬ音をのみぞ泣く
尼なる人なり。
  世の常の宿のよもぎを思ひやれそむき果てたる庭の草むら


更級日記の有名な顛末である。「蓬の露の様に涙に濡れながら誰も尋ねてこない寂しさを音をたてて泣いてばかりなのよ」、と尼に送った。すると、その尼は「あんたの蓬は世間一般のそれじゃないですか、世を捨てた私の庭の草むらがどんな風になってるかわからないの?」と返したのである。お嬢さんのいまいちのところが露呈した。そもそも、よりによって世間を捨てた尼に「淋しいんですが」と訴えてどうするのだ、――こういうことが分からないのがこのお嬢さんなのである。もしかしたら、仏教に対する淡い期待が尼へ自分の歎きを訴えることになったのかも知れないが、――結局、彼女は一種の、イメージや観念への依存症であり、仏の道に入っても人によってはもっと孤独にすぎないという自明の理がなかなか思い浮かばないのである。

で、考えてみたら、お嬢さんはつねに物語に囲まれてしあわせだったと思っていたのかしれないが、その実、人間に取り囲まれて寂しくはなかったのであって、――そんな事も気付かなかった事態を最後に放り投げて物語を終える、このセンスはなかなかのものに思われる。かつ、それはまだ思春期の課題なのでは?と思ってしまうのもわたくしにとっては、事実である。

尼の歌の「思ひやれ」は、自分のことをきちんと見よ、同じ事だが、他の人ものをちゃんと見よ、と言っていて、わたくしは好きだ。とはいえ、尼の感性とお嬢さんの感性はどれほど違っているであろうか?

賀茂祭り、斎院の御禊などのあるころは、その用意の品という名義で諸方から源氏へ送って来る物の多いのを、源氏はまたあちらこちらへ分配した。その中でも常陸の宮へ贈るのは、源氏自身が何かと指図をして、宮邸に足らぬ物を何かと多く加えさせた。親しい家司に命じて下男などを宮家へやって邸内の手入れをさせた。庭の蓬を刈らせ、応急に土塀の代わりの板塀を作らせなどした。源氏が妻と認めての待遇をし出したと世間から見られるのは不名誉な気がして、自身で訪ねて行くことはなかった。手紙はこまごまと書いて送ることを怠らない。二条の院にすぐ近い地所へこのごろ建築させている家のことを、源氏は末摘花に告げて、
そこへあなたを迎えようと思う、今から童女として使うのによい子供を選んで馴らしておおきなさい。


――與謝野晶子訳「蓬生」


だいたい蓬を自分で刈らないやつが多すぎる。人生、自分で蓬を刈るところからではないだろうか。それに、蓬もよく見ると可愛らしい植物である。

阿弥陀仏立ち給へり

2021-05-15 23:23:31 | 文学
さすがに、命は憂きにも絶えず、長らふめれど、後の世も、思ふにかなはずぞあらむかしとぞ、後ろめたきに、頼むこと一つぞありける。天喜三年十月十三日の夜の夢に、居たる所の屋の端の庭に、阿弥陀仏立ち給へり。定かに見え給はず、霧一重隔たれるやうに透きて見え給ふを、せめて絶え間に見え奉れば、蓮華の座の、土を上がりたる、高さ三、四尺、仏の御丈六尺ばかりにて、金色に光り輝き給ひて、御手、片つ方をば広げたるやうに、いま片つ方には印を作り給ひたるを異人の目には見つけ奉らず、我一人見奉るに、さすがにいみじく気恐ろしければ、簾のもと近く寄りても、え見奉らねば、仏、「さは、このたびは帰りて、後に迎へに来む。」とのたまふ声、わが耳一つに聞こえて、人はえ聞きつけずと見るに、うちおどろきたれば、十四日なり。この夢がばかりぞ、後の頼みとしける。

ほんとうに見えてしまった阿弥陀仏。



ありがたや。

それにしても、この阿弥陀仏、お嬢さんの庭に立っていたのであった。どうも、これは夫が亡くなる前の話なのであって、阿弥陀仏は夫のことを言いに来たのだが、間違ってお嬢さんに会ってしまった。――のかもしれない。お嬢さんは、これを唯一の頼みとするしかなくなったのである。お嬢さんは霧にまみれた仏まで見てしまうほどの能力だが、これは物語や仏典をしっかりしたモノとして把握しているからであろう。相手がぼうとしているのに、ちゃんと高さが何尺だとか記録しているところがすごい。よく見えないものまではっきり把握できる。テクストは表象の代替物ではなくそれ自体のものとして把握する癖があるからこういうことがおこるのではないだろうか。

仏の身長は六尺である。近代の六尺と言えば、これである。

病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。

――「病床六尺」


近代でははっきりしたものしか認めないところから始めるから、逆にそのはっきりしたものが「世界」といった概念に置き換わってゆく。その結果、霧の中の仏など見えない。

「如何にして日を暮らすべき」「誰かこの苦を救ふてくれる者はあるまいか」此に至つて宗教問題に到着したと宗教家はいふであらう。しかし宗教を信ぜぬ余には宗教も何の役にも立たない。基督教を信ぜぬ者には神の救ひの手は届かない。仏教を信ぜぬ者は南無阿弥陀仏を繰返して日を暮らすことも出来ない。あるいは画本を見て苦痛をまぎらかしたこともある。

――「同」


更級日記のお嬢さんだってあまり信心深いとは言えない。しかし、見えるものは見える。子規に仏が見えないのは、見た経験をどこかで否認するシステムが出来上がっているからである。

「ただよふ」経験

2021-05-14 23:15:26 | 文学


昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて行ひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて前のたび、「稲荷より賜ふ験の杉よ」とて投げ出でられしを、出でしままに、稲荷に詣でたらましかば、かからずやあらまし。年ごろ「天照御神を念じたてまつれ」と見ゆる夢は、人の御乳母にして、内裏わたりにあり、みかど、后の御かげにかくるべきさまをのみ、夢解きも合せしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。ただ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ心に物のかなふ方なうてやみぬる人なれば、功徳も作らずなどしてただよふ

夫が死んだ現実?を、物語や歌ばかりを心にいっぱいにしていてお勤めをさぼっていたため、「夢の様な世」になってしまったと彼女は言っている。現実?の方が夢の様に感じられるのである。わたくしが、現実?と言うのは、彼女の体験しているのが夫の死というファクトであって、それ以外のことがどうなっているのか分からないからである。本人も分かっていない。彼女は、物語や歌を「よしなき」(役に立たない)と決めつけているだけで、初瀬の稲荷とかアマテラスの夢とかもう少し気にすべきオブジェクトだったと言っているに過ぎない。物語や歌と宗教に関わる予言じみたものは本当は並列関係にあって、一応物語や歌を悪者にしてみただけの様にみえる。物語の様に人生が実現しないことと、稲荷やアマテラスの予言がはずれたことが、何か彼女の自意識の中で納得いかない形で同一物としてくすぶっている。なぜか、鏡の中だけの悲しい姿だけが当たったようにみえる、と彼女は思っているもそのせいである。が、そもそも別に当たってもいないのである。

――結局、彼女が感づいているのは、異様に物語や宗教的なものにのめり込むことが現実感覚を狂わしたという事態である。だからこそ「かうのみ心に物のかなふ方なうてやみぬる人」(こんな心で物事がかなうことなく終わるひと)というわけである。したがって、「功徳」を今更積んだところで、ほんとは神仏に頼っても私の様なやつのばあいはうまくいかないに決まっている。しかし、この不幸は、物語や歌をとった自分の不信心のせいともおもわれるんで「ただよふ」(ふらふらしている)しかない。

が、しかし、結局、愛する人が死んで仏に目覚める的な帰趨は、「源氏物語」をある意味なぞっているのでは?と思うのはわたくしだけではあるまいて。

物語や歌にのめり込むあり方は、この人の場合、当たり前であるが、書物によって成立していた。「源氏物語」をすべて手に入れた感激がものすごいものであったことは前半で語られたとおりである。最近、つい「ゴジラ対メガロ」をみてしまったわけだが、いまみるとホントひどい映画なんだ。(二週間で撮ったらしい)アニメーションや特撮が、テレビの再放送によって記憶の中で反芻され耕された「文化」と化したし、80年代以降は、ビデオやDVDによってそれが加速した。映像が書物化したのである。しかし、でかいカブトムシみたいな怪獣(角から光線が出る)が出てきだけである種の子どもは大満足なわけだし、そもそも当時のこういうのは繰り返して見るもんじゃないしね。こういう文化はさっと見てさっと忘れることも大事だと思う。更級日記のお嬢ちゃんについてもそれはいえる。

平野に越してきてから気付いたのだが、水田というのは一種の海であり、空が映っていて、空も一種の海である。――こういう経験の方が、物語か現実かみたいな混乱を起こさない。こういう経験は対象が水なのに「ただよふ」ものではなく、全体が混ざらない。

夢路の生成

2021-05-13 23:40:28 | 文学


二十三日、はかなく雲煙になす夜、去年の秋、いみじくしたてかしづかれて、うち添ひて下りしを見やりしを、いと黒き衣の上にゆゆしげなる物を着て、車の供に泣く泣く歩み出でて行くを見出して、思ひ出づる心地、すべてたとへむかたなきままに、やがて夢路にまどひてぞ思ふに、その人や見にけむかし

一体何に喩えてよいのか、という記述が、夢の中を彷徨うという言い方に結びつくのは本質的かもしれない。比喩の失調が問題だ、しかし、そもそも比喩などで人の死への思いは表すことはできない。だから、あの人は見ているに違いないわ、みたいな言い方しかできないのであった。

もっとも、このお嬢さんがもっとある意味症状がひどい人であったなら、自分の不幸をもっと大げさに言ったりするものかも知れない。比喩の失調に自覚的なのだからかなりましである。そのかわり、本人は、ひどく自分が平凡な矮小な存在であることを思い知ることになる。

西の空うち見やれば二つの小さき星、ひくく地にたれて薄き光を放てり、しばらくして東の空金色に染まり、かの星の光自から消えて、地平線の上に現われし連山の影黛のごとく峰々に戴く雪の色は夢よりも淡し、詩人が心は恍惚の境に鎔け、その目には涙あふれぬ。これ壮年の者ならでは知らぬ涙にて、この涙のむ者は地上にて望むもかいなき自由にあこがる。しかるに壮年の人よりこの涙を誘うもののうちにても、天外にそびゆる高峰の雪の淡々しく恋の夢路を俤に写したらんごときに若くものあらじ。
 詩人は声はり上げて『わが心高原にあり』をうたい、『いざ去らば雪をいただく高峰』の句に至りて、その声ひときわ高く、その目は遠く連山の方を見やりて恋うるがごとく、憤るがごとく、肩に垂るる黒髪風にゆらぎ昇る旭に全身かがやけば、蒼空をかざして立てる彼が姿はさながら自由の化身とも見えにき。


――独歩「星」


夢路とは、自由や何やらの理想の道であることがある。それを近代社会は教えてくれたが、理想が自由といったぼんやりとした明晰さを持っている時代は短く、どちらかというと、法律の様なものへと変容してしまった。こうなったら、もう更級日記の世界に逆戻りである。我々は、内部か外部のどちらかをまずは切り捨てることによってある領域を作り上げ、ついで何者かの夢への侵入によって「夢路」のようなものを感じている弱者として転落する。

鏡の回帰

2021-05-12 23:40:28 | 文学


ののしり満ちて下りぬる後、こよなうつれづれなれど、いといたう遠きほどならずと聞けば、さきざきのように心ぼそくなどはおぼえであるに、送りの人々、またの日かへりて、「いみじうきらきらしうて下りぬ。」などいひて、「この暁にいみじう大きなる人だまのたちて、京ざまへなむ来ぬる」と語れど、供の人などのにこそと思ふ。ゆゆしきさまに思ひだによらむやは。[…]九月二十五日よりわづらひいでて、十月五日に、夢のやうに見ないて思ふ心地、世の中にまた類あることとも覚えず。初瀬に鏡奉りしに、伏しまろび、泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は、来し方もなかりき。今行く末は、あべいやうもなし。

人魂や鏡にうつった号泣する人が、夫の死となんの関係があるのかと思うが、――関係なく起こっているから、むしろ結びつけずにはいられないのである。不幸はなんの前触れもなく、着々と因子を蓄えている。それとは関係なく、意識が理想や文化にとりつかれる。

そこで奥さんも絵本を渡したり、ハモニカをあてがつたり、いろいろ退屈させない心配をしたが、とうとうしまひに懐鏡を持たせて置くと、意外にも道中おとなしく坐つてゐる事実を発見した。千枝ちやんはその鏡を覗きこんで、白粉を直したり、髪を掻いたり、或は又わざと顔をしかめて見り、鏡の中の自分を相手にして、何時までも遊んでゐるからである。
 奥さんはかう鏡を渡した因縁を説明して、「やつぱり子供ですわね。鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんですから。」とつけ加へた。
 自分は刹那の間、この奥さんに軽い悪意を働かせた。さうして思はず笑ひながら、こんな事を云つて冷評した。
「あなただつて鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんぢやありませんか。千枝ちやんと違ふのは、退屈なのが汽車の中と世の中だけの差別ですよ。」


――芥川龍之介「鏡――東京小品」


退屈なものを自分の外部に求めていると、とつぜん、鏡の中に別の怖ろしいものが映り込んでくる。それが我々の自我の世界である。更級日記のお嬢さんのほうが、鏡のおかげで最初から未来に不幸があるぐらいのことはうすうす覚悟していたのではないか。芥川龍之介の方が、不幸が連続してくると耐えられなくなってしまう。――そうであった、更級日記のお嬢さんは、僧から鏡のことをきいたわけで、自分で見たわけではなかった。これがよかったのではなかろうか?

小林秀雄をはじめとする鏡の地獄の告発を読むまでもなく、われわれはあまりに鏡に拘っていると気が狂ってしまうのである。

「東路よりは近きやう」考

2021-05-11 23:45:11 | 文学


年はややさだ過ぎ行くに、若々しきやうなるも、つきなう覚えならるるうちに、身の病いと重くなりて、心に任せて物詣でなどせしこともえせずなりたれば、わくらばの立ちいでも絶えて、長らふべき心地もせぬままに、幼き人々を、いかにもいかにもわがあらむ世に見おくこともがなと、伏し起き思ひ嘆き、頼む人の喜びのほどを心もとなく待ち嘆かるるに、秋になりて待ちいでたるやうなれど、思ひしにはあらず、いと本意なく口惜し。親のをりよりたち返りつつ見し東路よりは近きやうに聞こゆれば、いかがはせむにて、ほどもなく、下るべきことども急ぐに、門出は女なる人の新しく渡りたる所に、八月十余日にす。

気がついてみたら、更級日記のお嬢さんも五〇であった。無茶な激務とは無縁だったのか、当時としては長生きであることだ。それはともかく、旦那さまの赴任先がきまったのだ。

ここで、東路よりは近いらしいぞというのは、長野県である。ここになんの感慨もなく、京都に近い遠いみたいな感覚なのは、いまどきの思い上がりたる東京人といっしょではないかっ。この時代と現在は、こういう点において非常に似通っている。

今日、中沢新一氏の『アースダイバー 神社編』を楽しく読んだが、かなりの部分を長野県の考察にあてている。安曇野の人々は、すごく単純化して言えば、海洋民族?の方々が内陸まで遡ってきた結果であったという。で、穂高なんぞを崇高な一種の観念として見出すのである。その結果、岩波や筑摩の創業者が、穂高を「神奈備」とみるような観念文化の帰趨として出現するのだ、という。

本当かどうかわからんが、気分としてはよくわかる。わたくしは、安曇野みたいな崇高な気分の土地とはちょっと違う場所の生まれだから、観念的に壮大になれないところがあるが、――そういうことだったか。

中沢氏は、上高地が「神合地」だったという説を取りあげている。気分としてはわかる。山を分け入っていった先に突然小さい盆地が開けている。御嶽の全容が姿を現す開田高原なんかも木曽の山奥の向こう側に有り、そんな気分をだしている。「分け入っても分け入っても青い山」(種田山頭火)とは限らないのである。

そういえば、清水真木氏の『新・風景論』は、地平としてあったものが驚かされる実景?のあらわれた衝撃で、いまま・ここの風景として創作させるといった議論を展開されていた様に思う。たしかに、その崇高な山は最初からアルプスや御嶽を見て育った人ではなく、旅路の果ての遭遇によって見出されたのかも知れない。それは御岳や富士でなくともよく、わたくしなんぞも、はじめて新潟に旅行したとき、電車の中で見た妙高山なんかにも崇高さを感じたものである。

中沢氏は、三九郞(どんどやき)が、少年少女の性の奔放さを扱った道祖神系の祭りであるとみなしてもいるのだが、――崇高さと性の過激さを併せもっているのが安曇野の文化だとすると、松本平からアルプスに登って性を感じてる北杜夫なんかはまさにそういう存在だったといえる。下界に降りてくると病んじゃうわけだけど……

諏訪の御柱も実際に見たことないから、一回みに行ってみたいものだ。木曽町のみこしまくりも神木を転がしている様なもんなので、御柱と似ている気がするが、実際に見てみるとかなり違うものかも知れない。毎年みこしまくりの大騒ぎを近所で体験した身としては、みこしを転がすときのゴッという不気味な地面との衝突音が印象的だったが、舗装される前はそれほど音はしてなかったとも誰かに聞いたことがある。もっと畑を耕すときの音みたいな感じだったのかもしれないわけである。

――以上は妄想であるが、更級日記のお嬢さんはいろいろな風景に出会っているにもかかわらず、それは観念の生成みたいな現場とは無縁であった様にみえる。それは単純に和歌や物語のせいとも限らないのではなかろうか。

あそびとオブジェクト

2021-05-10 23:32:43 | 文学


さるべきやうありて、秋ごろ和泉にくだるに、淀といふよりして、道のほどの、をかしうあはれなる事言ひ盡すべうもあらず。高濱といふ所にとゞまりたる夜、いと闇きに夜いたう更けて、舟の檝の音聞ゆとふなれば、遊女のきたるなりけり。人々興じて、舟にさしつけさせたり。とほき火の光に、單衣の袖ながやかに、扇さしかくして歌うたひたる、いとあはれに見ゆ。

わたくしは、なんとも――喘息で幼稚園にあまりいっておらぬが、一番怖ろしかったのが「お遊戯」というやつで、発作が起こるので苦行としか言いようがないからであった。以前、教育界で、「歌って踊れる」タイプがちやほやされたことがあったように苦々しく妄想しがちなのも、このトラウマがあるからである。私にはよく分からないのだが、――上の「遊女」、その「あそび」の面白さは、少女時代に京に上る途中に出会った遊女の記憶とともにあって、この前の箇所で、良妻・夫出世の欲望丸出しにていた彼女のくせに、また遊びの世界に行こうとしている。仕方がないよ、仕事の世界はつまらないからね……

  御乗りやァれ地蔵様
という言葉を唱える。乗るとはその児へ地蔵様に乗り移って下さいということであった。そうするうちにまん中の児は、しだいしだいに地蔵様になってくる。すなわち自分ではなくなって、色々のことを言い出すのである。そうなると他の子どもは口々に、
  物教えにござったか地蔵さま 遊びにござったか地蔵さま
と唱え、皆で面白く歌ったり踊ったりするのだが、元は紛失物などの見つからぬのを、こうして中の中の地蔵様に尋ねたこともあったという。


――柳田國男「こども風土記」


わたくしの幼児期に感じていたお遊戯は、こんな面白そうなものではなく、ほとんど「体育」と感情の強制にみえた。そういえば、幼稚園のほぼ存在しない記憶の中で、同年の子が「新造(心臓?)人間ターくん」と呼ばれていて、特別な人間みたいになっていたことを思い出した。上の例で言えば、「地蔵」みたいなものかもしれない。我々は、大人になっても、便利な地蔵みたいなオブジェクトを使って生活している。インターネットだってそういうものなのである。

2021-05-09 23:09:25 | 文学


つとめてそこを立ちて、東大寺に寄りて、拝みたてまつる。石上もまことに古りにけること、思ひやられて、むげに荒れはてにけり。その夜、山辺といふ所の寺に宿りて、いと苦しけれど、経すこし読みたてまつりて、うちやすみたる夢に、いみじくやむごとなく清らかなる女のおはするに参りたれば、風いみじう吹く。見つけて、うち笑みて、「何しにおはしつるぞ」と問ひたまえば、「いかでかは参らざらむ」と申せば、「そこは内裏にこそあらむとすれ。博士の命婦をこそよく語らはめ」とのたまふと思ひて、うれしく頼もしくて、いよいよ念じたてまつりて、初瀬川などうち過ぎて、その夜御寺に詣で着きぬ。祓へなどして上る。三日さぶらひて、暁まかでむとて、うちねぶりたる夜さり、御堂の方より、「すは、稲荷より賜はる験の杉よ」とて、物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば、夢なりけり

夢は現実に起こっていないことを経験する怖ろしいものであって、しかも、見ていたけれども忘れてしまった、ということが屡々起こる。我々はこんなことが、夢でなくとも起こることを次第に発見する。更級日記のお嬢さんの夢はわりと現実的なかんじであるが、本当はどんな夢をみていたのかかなり怪しいと言わざるを得ぬ。「風いみじう吹く」こととか、「物を投げ出づるやうにする」といったイメージが不安というより何かを振り払う様なイメージであらわれる。悪夢でも見ていたのかも知れない。

しかしまあ、こんなかんじで、自分のことで精一杯のいい歳のお嬢さんに好感がもてるのは、大概のいい歳の人は、もっと他人への敵意でどうにもならなくっていることが多いからである。彼女は宮仕えへの迷いのごとき、かなり若いときに経験する悩みを延長させているのだが、これは文化を扱う人間にとっては別に悪い事ではなく、必然だとも言えるのである。彼女は、大して人生を経験せずに仏道にのめり込んでいるが、源氏物語がお経になっただけで、文学者のよくある変遷みたいではないか。

さしあたり自由だから、こんな変遷をたどれるのである。普通は人間関係で煮えたぎるボイラーみたくなってきて、テキストどころではなくなってくる。

グローバル資本主義の陰謀で、あらたな虚礼が沢山でてきる昨今であり、まわりをみていると、日本の家父長制度?みたいなものや虚礼にたいして反抗するそぶりで、勝手に自分を評価しない人間を既得権益と決めつけて、自由人を気取っていた連中がいまや、なにか贈与みたいなものにたよって人間関係の確保に躍起になっている例がかなりあるが、――一種の転向である。むかしのマルクス主義者にも、転向、いや本当は学習過程にすぎないようなことを深刻にとらえて人生を感じていた連中がおおくいたが、――彼らといまの転向者は異なる。彼らはリベラルみたいな改革者の言の口まねをしていたが、どちらかというと、本質的に成金やヤクザまがいが方便を使っていたみてよい。本人たちは、どちらかというと、自分の尊厳とかコンプレックスのせいにするかも知れないが、原因ということで言えば、自分以外を勝手に軽蔑してしまうタチの悪さにそれはある。

すなわち、もともと虚礼なんか自分が負けるわけにゆかない人間に対してしていなかっただけで、やっと最近は権力までたどりついたので、選択的に敵意を創出していたのが、選択的に好意を振りまけばいいだけになっただけかも知れないわけである。なぜ、このような輩に我々が下手に出なければいけないのか意味が分からない。

――こんなかんじで、現実を地道につくり良心的に行動してきたつもりの人間もよけい心を静める必要性から、宗教書などをひっくり返し始めることも屡々あるのだが、たいがい宗教書というのは、人の心を鎮めるよりも、この世の仕組みの解明に向かっている。だから、そういうものでは人生は終わらなくなってしまうのが、凡夫の悲しさだ。

もしかしたら、お嬢さんもそんな悲しさから、風を吹かせたり、稲荷からもらった杉をなげたがったりしたのかもしれない。

藤の森が男で、稲荷が女であると言ふ事は、よく聞いた話である。後の社の鑰取りとも、奏者とも言ふべき狐を、命婦と言うたことも、神にあやかつての性的称呼と見るべきで、後三条の延久三年、雌雄両狐に命婦の名を授けられたなど言ふ話は、こじつけとは言へ、あまりに不細工な出来である。

――折口信夫「狐の田舎わたらひ」


更級日記のお嬢さんも考えてみると、女の人によりひきつけられているといえるかもしれない。それとも、光源氏をあまりに面白がったために、女への眼差しを体得したのか?

宇治問題

2021-05-08 23:46:35 | 文学


そこにも、なほしもこなたざまに渡りする者ども立ちこみたれば、舟の楫とりたるをのこども、舟を待つ人の数も知らぬに心おごりしたるけしきにて、袖をかいまくりて、顔にあてて、棹に押しかかりて、とみに船にも寄せず、うそぶいて見まはし、いといみじうすみたるさまなり。無期にえ渡らで、つくづくと見るに、紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所あれば、そこにしも住まわせたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。げにをかしき所かな、と思ひつつ、からうじて渡りて、殿の御領所の宇治殿を入りて見るにも、浮船の女君のかかる所にやありけむなど、まづ思い出でらる

無理してリアルな男に惹かれてみたり、夫に感謝したりするから、やっぱり自分は「源氏物語」が好きだと気付いてしまった。それにしても、物語によって喚起される風景と実際の所が違っていた場合如何するのか、はわたくしはいつも気になるところである。

長野県でも、山脈をパノラマのそれみたいに眺めて育った人と、山脈の一部にへばりついて育った人とは世界観が違う。新海誠のアニメーションを見たら、彼はたしか佐久の小海町の出なんだけどあそこはたぶん空が広い。対して、わたくしが経験していたのは、「木曾街道六拾九次」にときどきある坂や斜面で空間がぐいっと狭くなってるかんじ、あれである。

とはいえ、わかることもある。新海誠の雨の描写はうつくしいが、あれは山間部によくある夕方の天気雨みたいなかんじであって、独特な生暖かい冷たい風が吹いているのである。夏の短時間の豪雨の後の晴天も独特である。空気が入れ替わる感じが、夕方に起こる。子どもの頃はそれが普通だと思っていたが、愛知や関東に住んでみて、それはまったく特殊だったのだと気がついた。いまなんか、夕方は凪の影響で、むしろ夕方において空気は滞留して、時間が止まったきがするものだ。

――かんがえてみると、我々の経験している風景はいつもごく僅かで、まさに芸術作品における想像の部分で風景を見出しているので、宇治の実景と読者のお嬢さんの像が食い違っていても、想像はすみやかに実景に修正されてゆくにちがいない。要するに、想像力とは、その修正能力のことで有り、文の喚起する表象に合わせようと実景に合わせようと同じようなものかも知れないわけである。

ここ数日、小林秀雄読んでてつい思ったのだが、文学をやっているとその読み方の解像度でものをみるので、現実の見方が変わることはたしかだが、小説において書かれていないことと、現実において見えないことは同じじゃないんで、感覚が狂うとしたらその盲点の処理の仕方なんだよなと思ったのである。もっとも、更級日記に限らず、そういう盲点や死角は別の何かよって代補せられているから、我々の頭の中ではあまり深刻なエラーとならない場合がある。

「宇治中尉か」
 そして窓の方に顔をあげながら苦しそうに眼を閉じ、椅子の背に肩を落した。
「――実は今日、花田軍医のところに連絡に行って貰いたいのだ。花田が何処にいるか、場所は判っているだろうな」
 彼の返事を待たず、椅子をぎいと軋ませ隊長は身体ごと彼の方に向きなおった。そして激しく口早に言った。
「射殺して来い。おれの命令だ」


――梅崎春生「日の果て」


ここで、読者が宇治と聞いて源氏物語を思い出してしまったときは大変だが。

流れての物語ともなりぬべき

2021-05-07 23:26:33 | 文学


そのかへる年の十月廿五日、大嘗会の御禊とののしるに、初瀬の精進はじめて、その日京を出づるに、さるべき人々、「一代に一度の見物にてゐなか世界の人だに見るものを、月日多かり、その日しも京をふり出でて行かむもいと物狂ほしく、流れての物語ともなりぬべきことなり」など、はらからなる人は言ひ腹立てど、ちごどもの親なる人は、「いかにもいかにも、心にこそあらめ」とて言ふにしたがひて出だし立つる心ばへもあはれなり。

大嘗会の日に初瀬(長谷寺)に行こうとするお嬢さんである。さすがである。ただ、この程度のことで彼女を褒めるのはかわいそうであり、一番すごいのは、こういうエピソードをわざわざ書いて本当に「流れての物語」にしてしまったことである。大嘗会のことを調べようとすると、かならずこの場面が引かれてしまうほどである(しらんけど)。

誠実な人間は、その時代になんとか文化を絶やさない様に努力するが、不誠実な者は、その時代に努力せずにただの教訓や反省を書き残す。こんなことははっきりしている。戦争責任論がいつも不発なのはそのせいである。孝標のお嬢さんは、自らの不敬エピソードを以て後世の人間たちに、天皇とはなんぞやと問わせる――その意味で、彼女は内村鑑三や共産主義者たちに似ているのではないだろうか。

そういえば、ここでの天皇の乳母は紫式部の娘である。「源氏物語」への離反を隠微に示しているのではなかろうかっ

標山には、必松なり杉なり真木なりの、一本優れて高い木があつて、其が神の降臨の目標となる訣である。此を形式化したものが、大嘗会に用ゐられる訣で、一先づ天つ神を標山に招き寄せて、其標山のまゝを内裏の祭場まで御連れ申すのである。今日の方々の祭りに出るだんじり・だいがく・だし・ほこ・やまなどは、みな標山の系統の飾りもので、神輿とは意味を異にしてゐる。町或は村毎に牽き出す祭りの飾りものが、皆産土の社に集るにつけても、今日では途次の行列を人に示すのが第一になつて、鎮守の宮に行くのは、山車や地車を見せて、神慮をいさめ申す為だと考へてゐるが、此は意味の変遷をしたもので、固より標山の風を伝へたものに相違ない。

――折口信夫「盆踊りと祭屋台と」


おそろしいことだ、神様が降りてきてしまうのである。考えてみたら、どこかしら悪人の我々は、そんな状況に耐えられるわけはない。孝標のお嬢さんはもうフィクションは信じないのであるっ。

中年の危機――麝香

2021-05-06 23:00:47 | 文学


千手観音(違う)

筋は忘れたが、こういう場面が突然思い出された。

「板倉屋は雲南麝香の掛け香を持っているから、一二間離れていても解るので、遠慮して誰も捕まえなかったと言うんだろう」
「え」
「それをお前は捕まえた、どうするつもりだったんだ」
「一度ぐらい鬼にしたかったんですよ」


――野村胡堂「銭形平次捕物控 麝香の匂い」


麝香の匂いといえば、抹香臭い。――これでなにか精神が鎮まってくるのは生理的に理由がありそうだ。

雪うち降りつつ道のほどさへをかしきに、逢坂の關を見るにも、昔越えしも冬ぞかしと思ひいでらるるに、その程しもいとあらう吹いたり。
  逢坂の關のやまかぜ吹くこゑはむかし聞きしにかはらざりけり
關寺のいかめしう造られたるを見るにも、その折、あらづくりの御顔ばかり見られし折思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいと哀なり。打出の濱のほどなど見しにもかはらず、暮れかゝる程にまうで著きて、湯屋におりて御堂に上るに、人聲もせず。山風おそろしう覺えて、行ひさして、うちまどろみたる夢に、「中堂より麝香賜はりぬ。疾くかしこへ告げよ」といふ人あるに、うち驚きたれば、夢なりけり、と思ふに、よき事ならむかしと思ひて行ひあかす。


中年の危機をあからさまに示している様に見える主人公であるが、思うに、――中年の危機は非常に社会的にも危険であって、小・中学生を学校に幽閉して下手なことをさせないように気を配っている様に、むかしは、歳を取り始めた人間の我が儘と僻み根性をなんとかするために、出家のすすめがシステムとして存在してたようなきがするのだ。「源氏物語」だって、それがなければ、もっと主人公も含めて人物たちが怨霊化してとんでもないことになりかねなかったのだ。――我々はそれをなんとなく感じているために、姨捨伝説がなんとなく清潔に感じられもするわけだ。

生涯教育とかかっこをつけているが、中年以降の人間を再教育するためにそれはうまく機能するかもしれない。教育する側がもっとヒドイ状態になっている可能性もあるのだが。

転向

2021-05-05 22:45:37 | 文学


今は、昔のよしなし心もくやしかりけりとのみ思ひ知りはて、親の物へ率て参りなどせでやみにしも、もどかしく思い出でらるれば、今はひとへに豊かなる勢ひになりて、ふたばの人をも、思ふさまにかしづきおほしたて、わが身もみくらの山に積み余るばかりにて、後の世までのことをも思はむと思ひはげみて、十一月の二十日余日、石山に参る。

何か30を越えた辺りで、自分の描かざるを得なかった多方向の可能性が、共倒れして行くのを目撃したときに、――もうどうでもいいかな、と思う頃があり、一気に滅茶苦茶になってしまうことがある。そして、それの方が、現実的である様な気がするのであるが、実は全然違う。精神の崩壊は、生活のリズムや集中力をも奪う。この悲劇は、人しれず行われ、危機に気付く人々は多くない。思春期の危機は、危機として多くの文学が描いてきたから、存在を許されている。しかし、中年の危機はそうではない。

更級日記のお嬢ちゃんも、突然「昔のお軽い心は後悔すべきだったわ。」と「のみ」思い知る。この「のみ」が危険なのだ。本当は「のみ」ではすまないのである。自分の心がけの問題ではないからだ。だいたい、色男とすれ違ったことだって、彼女が三十を越えた女だったことと無関係ではないのだ、残酷だが。

そして、彼女は、また親のせいにして――物詣でに連れてくれなかったので、これからは行くぞとなる。そういえば、わたくしも、とつぜん神社巡りにとり憑かれたことがあった。しかし、わたくしは、まだ以下の様には思い切ってはいなかった。

今はひとへに豊かなる勢ひになりて、ふたばの人をも、思ふさまにかしづきおほしたて、わが身もみくらの山に積み余るばかりにて、後の世までのことをも思はむ
(こうなったら、あたいはひたすらに裕福力の爆発となり、芽吹いた双葉のように幼いかわゆい我が子をあたいの思い通りに育て上げ、あたいの身も、お倉に積みきれない山のような財で埋もれ果てつつ、来世の事までもちゃんと考えるわよ)

完全に地獄行きではないか


「それは怪しからん訳で――一体少し学問をしているととかく慢心が萌すもので、その上貧乏をすると負け惜しみが出ますから――いえ世の中には随分無法な奴がおりますよ。自分の働きのないのにゃ気が付かないで、無暗に財産のあるものに喰って掛るなんてえのが――まるで彼等の財産でも捲き上げたような気分ですから驚きますよ、あははは」と御客さんは大恐悦の体である。
「いや、まことに言語同断で、ああ云うのは必竟世間見ずの我儘から起るのだから、ちっと懲らしめのためにいじめてやるが好かろうと思って、少し当ってやったよ」


――「吾輩は猫である」


更級日記のお嬢さんはまだ、自分で転向したから許せる。漱石なんかは、自分のなかに資本家を飼っていた。こういう男には転向はできない。それは流石に学のある倫理的態度であったが、人間の性は、漱石的非転向よりも、転向して痛い目に遭うことを選ぶことになる。わたくしは、西田幾多郎とか漱石みたいな人しか考えてはいけない発想(矛盾的なんとかとか、低回とか)というものがあって、もっと弁証法的に行った方が人生にたどり着く人間も多いと思うのである。小林秀雄が「当麻」で感激したりする、過去の芸術からあらわれる「形」は、決して一種類ではない。

礫に対する自由

2021-05-04 23:32:52 | 文学


またの年の八月に、内裏へ入らせまたふに、夜もすがら殿上にて御遊びありけるに、この人のさぶらひけるも知らず、その夜は下に明かして、細殿の遣戸を押しあけて見出したれば、暁がたの月の、あるかなきかにをかしきを見るに、沓の声聞こえて、読経などする人もあり。読経の人は、この遣戸口に立ち止まりて、ものなど言ふに答へれば、ふと思ひ出でて、「時雨の夜こそ、片時忘れず恋しくはべれ」と言ふに、ことながらう答ふべきほどならねば、
  何さまで思い出でけむなほざりの木の葉にかけし時雨ばかりを
とも言ひやらぬを、人々また来あえば、やがてすべり入りて、返ししたりしなども、後にぞ聞く。「『ありし時雨のやうならむに、いかで琵琶の音のおぼゆるかぎり弾きて聞かせむ』となむある」と聞くに、ゆかしくて、われもさるべきをりを待つに、さらになし』


「木の葉にかけし時雨ばかりを」という感情の放り出し方が好きである。この時雨に対し、琵琶の音で「おぼゆるかぎり」返そうというのが、えらく積極的に思えるが、そんな機会が全くない、というところが、この日記の劇である。源氏の君みたいなものとの邂逅はむろん現実にはありえないのだが、この作者、源氏ではなく、現実におけるすれ違いの多さというか運のなさをはじめから意識的なのかもしれない。

確かに、すれ違いというのは、我々の人生の基本形である。だから、我々はせめて主体的で自由でなければやってられない。すれ違いでしかも統制されているとか、冗談じゃない。

コロナに限らず、なんか困ると憲法をいじくりたがるという人たちがたくさんいるが、憲法を校則みたいに捉えているのではなかろうか。はなから自由に振る舞う勇気のない奴が校則いじくってみたところで何もかわらないどころか、むしろ、自由たれという命令が天から振ってこないことで、他人の自由は抑圧してもよいという馬鹿が威張るようになるだけだ。

こういう輩がいけないのは、我々が現在の快・安心だけを望んでいるわけではないということが分からない異常状態にあるからである。他人に謙譲表現ばかり繰り返すことは、みずからの快を優先しているということであって、どうせ自分に負荷かかかる状態は全力で人に回そうとするし、人によって態度を変える。かかる人間には、他人(ひいては自分)の状態に対する明らかな蔑視がある。原因は、たぶん過去や現在のうまくいかないシーンの抑圧である。自由というのは、そういうシーンの抑圧をやめることである。

娯楽は若い人間の特権だ。歳をとってくると、人生に意味をつけなければならなくなってくる。娯楽の余裕はない。そしてその意味は大して意味はないが、意味づけを要求する意味の礫だけは次々に襲いかかってくる。更級日記の作者を襲ったのもそういう事態かもしれない。――更級日記はしかし、確かに娯楽になっている。自由があると思うのである。

校則に対する反発のような気分が、案外憲法への反発にもなっているところが、我々の深刻なところである。自分のなかのさまざまな礫を無視するために、自分の状態を自分を抑圧する社会の軛に求めるのである。

自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ。(小林秀雄「現代文学の不安」)


「一種の」「方」、「最も」「逆説的」、「形式」これをとっても意味が通じるような気がするが、これはすべて必要だとかんがえるべきなのである。それではじめて、自己に対する陶酔を回避できる。だからほんとは彼の文章は一部を切り取れない。文章全体、彼の著作全体がこういう言葉の雲で組織されており、それが全体でひとつのものである。柳田國男の「内言」じゃないが、一生かけてそれを作り上げようとしたところがあるわけである。普通の浪漫派はそうでなくてツイッターのbotに向いている箴言型である。自分の戦時中でもいまでもそういう浪漫派に威勢のいい左も右も真ん中も入ってしまう。箴言は憲法の様に我々を外部から縛る。小林や柳田は内側から縛ることを考えたにすぎない。昨日、「国民文学論」の議論を読んでいてそう思った。

色男かく語りき

2021-05-03 22:36:24 | 文学


冬の夜の月は、昔よりすさまじきもののためしに引かれてはべりけむに、またいと寒くなどして、ことに見られざりしを、斎宮の御裳着の勅使にて下りしに、暁に上らむとて、日ごろ降り積みたる雪に月のいと明かきに、旅の空とさえ思へば、心ぼそくおぼゆるに、まかり申しに参りたれば、余の所にも似ず、思ひなしさへけおそろしきに、さべき所に召して、円融院の御世より参りたりける人の、いといみじく神さび、古めいたるけはひの、いとよしふかく、昔のふることども言ひ出て、うち泣きなどして、よう調べたる琵琶の御琴をさし出でられたりしは、この世のことともおぼえず、夜の明けなむを惜しう、京の事も思ひ絶えぬばかりおぼえはべりしよりなむ、冬の夜の雪降る夜は思ひ知られて、火桶などを抱きても、かならず出でゐてなぬ見られはべる

この色男は、年老いた斎宮にまで手を出そうというのかっ、――というわけではなく、自分の話に、冬と月、斎宮と琴、火桶を抱く、みたいな走馬燈のような風景を配置し、自分をよく見せようとしおって、けしからんこと限りなし。斎宮の存在がどういう意味を持っていようと、色男や更級日記の娘さんにとっては斎宮ってなんかいいよね色っぽいよね、なんか古い感じでいいよね、という感じになっていた可能性があると思うんだが、――こんど、本橋裕美氏の『斎宮の文学史』でも読んでみよう。

それは私が斎宮の御裳著の勅使で伊勢へ下った折の事です。伊勢に下っておる間、殆ど毎日、雪に降りこめられておりました。ようやく任も果てたので、その明けがた京へ上ろうかと思って、お暇乞に参上いたしますと、ただでさえいつも神々しいような御所でしたが、その折は又円融院の御世からお仕えしているとか云う、いかにも神さびた老女が居合わせて、昔の事などなつかしそうに物語り出し、しまいにはよく調べた琵琶までも聞かせてくれました。私もまだ若い身空でしたが、何んだかこうすっかりその琵琶の音が心に沁み入って、ほんとうに夜の明けるのも惜しまれた位でした。

――堀辰雄「姨捨」


堀辰雄によると、佐藤春夫や保田與重郎も更級日記を好んでいた。堀辰雄も好きであった。しかし、父母を捨てて夫とともに長野県に向かう場面で打ち切る堀辰雄は、なにかこういう作品をセンチメンタルな雲の中に放り込んでしまっているような気がして、私は昔から何か不満だった。

さうやつて半日近く姨捨山のほとりを歩いてから、私はまた木曾路へも行つて見た。その谷間の村々もまだ春淺い感じであつた。まなかひに見える山々はまだ枯れ枯れとしてをり、村家の近くには林檎や梨の木が丁度花ざかりであつた。其處でもまた私は古代から中古にかけての木曾路がいまの道筋とは全く異り、それらの周圍の山々のもつと奧深くを尾根から尾根へと傳つてゐたものであることを知らされた。私はそれらの山奧に、われわれの女主人公たちがさまざまな感慨をいだいて通つて往つたであらう古い木曾路が、いまはもう既に廢道となつて草木に深く埋もれてしまつてゐる有樣をときをり空に描いたりしては、何んといふこともなしに一人で切ない氣もちになつて、花ざかりの林檎の木の下などをぶらぶらしながら晩春の一日をなまけ暮らしてゐた。

――堀辰雄「姨捨記」


「何んといふこともなしに一人で切ない氣もち」というところで、たぶん堀辰雄は嘘をついていると思う。「なまけ暮らし」たあげく、一生懸命空想してみたら、ちょっと空恐ろしかったというのが、本当のところだと思う。更級日記にある「余の所にも似ず、思ひなしさへけおそろしきに」みたいな箇所を堀は無視しがちだったような気がする。