身死して財残る事は、智者のせざるところなり。よからぬ物たくはへ置きたるもつたなく、よき物は、心をとめけんと、はかなし。こちたく多かる、まして口をし。「我こそ得め」などいふ者どもありて、あとに争ひたる、さまあし。後は誰にとこころざす物あらば、生けらんうちにぞゆづるべき。朝夕なくてかなはざらん物こそあらめ、その外は何も持たでぞあらまほしき。
それはそうだと思うが、我々の存在は、一人で完結出来ないところがある。たしかに遺産相続でもめるのは醜悪の極みであるが、金持ちの場合、その金は天下国家のために使うときが来る場合がある。金もないのは清貧の生き方ができるけれども、金を使った天下国家の助けみたいなことができなくなるわけだ。天下国家でなくともほっておけばテロリズムにしかならない運動をたすけるばあいだってあるのである。
わたくしの小学校の時の先生が、「夜明け前」について、森林国有化問題の裏で運動の資金繰りをしていたやつがいて、彼らが重要なんだと言っていた。よくわからんが、近代の旧家の役割というのは、そういうものから、藤村や太宰の学費を工面するみたいな単純なところまで及んでいるのである。
人口が増加すれば、生活の困難が増し、生活難がはげしくなれば、貧富の懸隔に対する不平の念が増進する。また列国と対立してゆくには教育を盛んにしなければならぬが、教育が進めば、不平を感ずる力もだんだん鋭敏になる。書物が読めて飯が食えぬ人が一人でも多く増せば、それだけ現代に対する不満の声の高くなるのは、どこの国でも同一轍である。されば今日のままの制度では、いかにしても現代に対する不平不満の念をのぞくことができぬのみならず、そのますます増加するのを傍観していなければならぬ。人間はこれを防ぐために倫理、教育、宗教等の各方面から世俗を改善しようとつとめるであろうが、上述のごとき原因が存する以上はその効力は勢い一定の範囲内に限られて、とうてい充分の効を奏することはできぬ。世は澆季なりとは昔より今までつねに人の言うことであるが、世のつねに澆季なるは、あたかも黴菌が自己の繁殖のために生じた酸類のために苦しむごとくに、自己の発達に伴うて生じた固有の制度のために苦しんでいるのにあたるゆえ、まずまぬがれがたい運命とでも思うてあきらめるのほかはなかろう。
――丘浅次郎「動物の私有財産」
「世は澆季なり」とか言いいはじめたらまさに世は末である。最近は、絶望の余り、財産を私有財産としてしか考えぬ人々が良心の塊のような顔をしている。