パリと横浜で二重生活をする世界を股にかけるドキュメンタリー系の放送作家伊奈笙子が、69歳の時にパリに向かう便のファーストクラスで隣り合った12才年下のエリートビジネスマン九鬼兼太と不倫の恋をし、けんかをしたり仲直りしたりしながらずるずると6年を過ごす老人恋愛小説。
妻子ある相手と知りながら、相手の家庭を壊すなど考えもしないし望まないと思いつつ関係を始めたはずの伊奈笙子が、九鬼兼太から家庭を壊す気はないと言われたり家族のことが語られる度に不機嫌になり、楽しいはずの逢瀬が険悪になって台無しになるというシーンが度々描かれています。強がり言ってもやはり不倫/日陰の立場には耐えられない、結局女にとって不倫の関係は一つも得にならないということを作者は言いたいのでしょうか。少なくとも、仕事で成功し自立した女と描かれている伊奈笙子が、その恋愛観において輝きを見せているようには見えません。
九鬼兼太についても、伊奈笙子についても、突然不機嫌になる場面があり、感情の流れが読みにくいところが多々見られますし、険悪になった関係がいつの間にか修復している場面が度々あるのですが、どのようなことがあってとか感情面でどう整理して仲直りしていったのかがわからないことが多いです。実生活の場面では、喧嘩し続けることへの疲れや生活上の都合から何となく修復したり、時が解決する場面が多いと思いますが、小説として読むときには、それではぶつ切り感・唐突感があります。そういうところをもう少し補って描いて欲しいと思います。
70歳の伊奈笙子が、十数年ぶりに性交するというシーンに興味を惹かれます。「侵入してきた九鬼兼太を受け入れながらも激痛が走った。固く閉じたオブジェの扉は開くことができないでただ裂けた、ように笙子は感じた。」(85ページ)と描いた後、婦人科医の解説で「女は閉経の後、ま、早く言えば水気がなくなります。それでも女として、十分潤っている人もいれば、そんなことに関心さえない女性の場合は、分かりやすく言えば干上がってしまうんです。」(95ページ)、「個人差はあるけれど、女性はカップルとして健全な生活をしていても、五十代半ばですでに子宮や膣が萎縮して潤いがなくなる人もいるし、七十を超えても豊かな人もたまにはいます。かと思うと、膣の皮膚が薄くなって性交時に出血することもあります。」(96ページ)などと言わせています。70歳でできるのもすごいと思いますけど、使わないから退化するというだけじゃなくて使ってても衰えることもあるというのですね。
岸惠子 幻冬舎 2013年3月25日発行
妻子ある相手と知りながら、相手の家庭を壊すなど考えもしないし望まないと思いつつ関係を始めたはずの伊奈笙子が、九鬼兼太から家庭を壊す気はないと言われたり家族のことが語られる度に不機嫌になり、楽しいはずの逢瀬が険悪になって台無しになるというシーンが度々描かれています。強がり言ってもやはり不倫/日陰の立場には耐えられない、結局女にとって不倫の関係は一つも得にならないということを作者は言いたいのでしょうか。少なくとも、仕事で成功し自立した女と描かれている伊奈笙子が、その恋愛観において輝きを見せているようには見えません。
九鬼兼太についても、伊奈笙子についても、突然不機嫌になる場面があり、感情の流れが読みにくいところが多々見られますし、険悪になった関係がいつの間にか修復している場面が度々あるのですが、どのようなことがあってとか感情面でどう整理して仲直りしていったのかがわからないことが多いです。実生活の場面では、喧嘩し続けることへの疲れや生活上の都合から何となく修復したり、時が解決する場面が多いと思いますが、小説として読むときには、それではぶつ切り感・唐突感があります。そういうところをもう少し補って描いて欲しいと思います。
70歳の伊奈笙子が、十数年ぶりに性交するというシーンに興味を惹かれます。「侵入してきた九鬼兼太を受け入れながらも激痛が走った。固く閉じたオブジェの扉は開くことができないでただ裂けた、ように笙子は感じた。」(85ページ)と描いた後、婦人科医の解説で「女は閉経の後、ま、早く言えば水気がなくなります。それでも女として、十分潤っている人もいれば、そんなことに関心さえない女性の場合は、分かりやすく言えば干上がってしまうんです。」(95ページ)、「個人差はあるけれど、女性はカップルとして健全な生活をしていても、五十代半ばですでに子宮や膣が萎縮して潤いがなくなる人もいるし、七十を超えても豊かな人もたまにはいます。かと思うと、膣の皮膚が薄くなって性交時に出血することもあります。」(96ページ)などと言わせています。70歳でできるのもすごいと思いますけど、使わないから退化するというだけじゃなくて使ってても衰えることもあるというのですね。
岸惠子 幻冬舎 2013年3月25日発行