なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その9

2021年03月10日 05時00分00秒 | 義道
曹洞宗ボランティア会時代

「曹洞宗東南アジア難民救済会議」の活動を正式に引き継いだ「曹洞宗ボランティア会」は徐々に活動を開始していた。しかし、事務所に顔を出すのは難民キャンプボランティアあがりの学生と会計担当の若尾さんというおじいちゃんだけで、常在のスタッフはいなかった。そこで永平寺に「早く戻って来い」という連絡が入ることになったのだった。

昭和58年(1983)5月、松林寺には1か月もいないで東京事務所勤務となった。しかし、団体に職員を雇う金銭的な余裕はなかった。理事の駒込泰宗寺さんが「離れが空いているからそこに住んで時々寺を手伝って」という条件で、団体からは月に3万円の給与をもらうことになった。朝に本堂を開けて朝課に出てということでスタートしたのだが、五反田から駒込に帰るのは毎日終電ギリギリの時間だった。というのは、タイとは2時間の時差があるため、現地事務所との連絡はいつも夜になり、また当時事務局長の有馬実成さんは山口の寺に居て、そこから指示が来るのは夜の9時過ぎが多かった。
また、終電近くになりそろそろ帰ろうかと思っているところに現れるのが佐藤滋君だった。大学に行っているのかいないのか、それまで何をしているのか不明だが、夜中にバイクで事務所にやって来てはぼんやりタバコを吸って「三部さん帰ろう」と言う。バイクに二人乗りして寒い中を駒込まで帰った。それから泰宗寺の離れで酒を飲んで泊っていくのだった。そんなこともあり、次第に朝のお勤めは怠けてしまい、お寺の用事もおろそかにしてしまった。
貸し切りバスで静岡までミカン狩りの一泊旅行「カンボジア緑陰の集い」を行ったこともあった。日本に来てからほとんど顔を合わすことがなかったカンボジア人たちが思いっきり母国語で話ができることで、バスの中は大変な盛り上がりだった。富士の裾野で宿を提供してくれたお寺では、在日のカンボジア婦人がカンボジア料理を振舞ってとても喜んでくれた。
ワンフロア11.5畳の五反田の事務所は2年で手狭になり引越すことになった。次に借りた巣鴨の事務所もマンションの1室で、和室二つとダイニングキッチンだけでここもすぐに手狭になった。すると同じフロアの向かいの事務所が空いてそこに移り、さらに手狭になった頃に階下の会社が倒産してそこに移った。わらしべ長者のような事務所移転だった。私は巣鴨に引越しを済ませて間もなく、59年(1984)のお盆に山形に帰ることになった。大学、研修所、永平寺、そして東京のボランティア会事務所と、合わせて9年半山形を離れていた。父親の我慢も限界だった。次の年昭和60年(1985)6月に、松林寺では授戒会の大法要を控えていて、その準備で気をもんでいたのだった。